「ありがた迷惑」になるのが怖い
ここ最近、なんでもかんでもとにかく「あげる」ことにこだわってしまっている。
ものであったり、技術であったり、自分があげられるものはなんでも持っていってほしい。
ここには「だれかの何かのきっかけや記憶に残りたい」という自分のエゴが思いっきり入っている。
最近の話で言うと、板前時代に揃えた包丁の最低限の数だけ残して、全部後輩にあげてしまった。
そういったものはどんどん循環すればいいと思っているし、使わない自分が持っているよりは、これから必要としている人の手元にあったほうがいいと思う。
今日は晩御飯のとき、フレンチの料理人をしていた女の子に刺身の切り方を教えた。
お刺身の切り方とかは、板前の世界だとしたらそうそう簡単には教えてもらえない。
そんな世界観を、ぼくがなにより嫌いだったので、まるで仕返しのようにどんどん色んな人に学んだ技術はシェアできればいいなと思う。
ただ、ひとつだけ怖いことがある。
どれも、それを「お願いされていない」ということだ。
自分が教えてもらうことに苦労したりだとか、そうしてくれたら助かったのに、と思うことは積極的に自分の関わる人にはしていきたいと思っているのだけど、お願いされていない以上は「ありがた迷惑」なんじゃないかと怖くなってくる。
この不安を感じたときに思い出すのは、はじめてバイトした小料理屋さんでの話。
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ぼくが20歳だった当時、はじめてアルバイトで入れてもらった小料理屋の大将さんは、仕事中は厳しいけど、仕事が関係していないときはとても優しい人だった。
おそらく、自分が若いころお腹が空いていたのだと思う。ぼくがアルバイトに顔を出した日には必ずパンを出してくれた。
1つではない。ジャムパン、あんぱん、メロンパン、チョココルネ、クロワッサンなど、一小料理屋が常に抱えているとは思えないほどのパンを食べさせられた。
田舎におじいちゃんとかおばあちゃんとかが身内にいる方であればわかってもらえるかもしれないが、おじいちゃん達の「お腹空いてるだろうから食べていけ」という親切の際限のなさは半端ない。
最初のうちは「せっかく用意してくれているのだから」と無理に食べていたが、食べるうちにどんどん用意する量も増えていったので、ある時「もう大丈夫です、自分で食べる分はちゃんと用意しますので、ありがとうございます」と伝えた。
すごく、寂しそうな顔をしていたのを今でも覚えている。
悪いことをしたとは想いつつも、ぼく自身も耐えられなかったので、しょうがなかった。
そして、その親切には申し訳ないけど、過去の自分が困ったからって、今その人が困っているとは限らないのだから、「相手の状況を見ずに親切を押し付けるような大人にはなっちゃいけない」と心に思った。
*
この思い出がふとよぎったとき、自分がやっていることは、このパンのようなことなんじゃないかと不安になる。
自分がよかれと思ってやっていても、それが相手が喜んでいるとは限らない。
「せっかく言ってくれてるんだから」と遠慮で受け取ってくれているのかもしれない。
そう考えると、お願いされたときしか行動できなくなる。
自分にとっての親切が相手にとってありがた迷惑となることの境目が難しい。それは多分、最終的には相手の気分次第で、こちらが受け取り手の感情をコントロールすることはできないから。
20歳だったあのころに、「こうはなるまい」と思っていた、「自分の想う親切を押し付ける人」になってはいないだろうか。
今の自分ができることは、せめて「自分がしたくてやっている親切は、相手が喜んでいるとは限らない」と、常に自己満足のエゴにならないように気をつけるしかないのだろうか。
「ありがた迷惑」になるのが怖い
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