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微笑みの爆弾

どんな凶悪な悪党も、死に際には「娘のことは頼んだ」と自分を追っている刑事に頼む。
或いは敵に捕まって絶体絶命というとき「娘にだけは手を出すな」「娘だけは助けてくれ!やめろぉ〜!」などなど。
海外ドラマで警察や医療を舞台にしたものを観ることが多いのでシーズン中一回はどこかで聞く台詞だ。
(こんなクソみたいな極悪人でも娘を大事におもう心はあるのに、何故。)何故、の後ろには“私の父親にはないのだろう”が省略されている。
海外ドラマだから、背景には日本とは違った家族の愛情や繋がりがあるのかもしれないし、ドラマの脚色のために悪党にお決まりの台詞を言わせているのかもしれない。それにしても、である。

習い事や学校の行き帰りなどに車に乗せてもらったことがなかった。家から歩いて10分もかからないところから、お父さんが迎えに来ている同級生を不思議に眺めるだけだったが、一度だけ私も父の車に乗せてもらったことがある。しかしそれは、大学受験の受験票を送る日に大雪が降ってしまい、頼み込んで頼み込んでやっと地域で一番大きな支局まで。娘の将来がかかっている日にも、我関せず。めちゃくちゃ不機嫌なところを、すみませんすみませんと謝りながら助手席に乗り込んだ。その日の父の用事は家の近くのパチンコ屋に行くことだったのに、郵送が終わる数分も待ってはくれず、帰りはダッフルコートもルーズソックスも赤のコンバースもずぶ濡れにさせながら、重いぼたん雪が降り頻る中大きな新聞社の横をひとり帰った。

さらに父はクソがつくほど、どケチであった。
高校受験で受けた滑り止めの私立の一時金15万円も「志望校に受かればいいだけだろ」と出し渋り、母が高校浪人させることはない、と説得をしてくれ事なきを得たのだが、難関志望校に合格してもネチネチと「何の意味もねえ金だ」と嫌味を言われた。大学受験をしたいと言った時も「女が大学なんて行ってどうするんだ」と時代錯誤甚だしい一言が返ってきてぽかんと大きく口を開けてしまった。「いや、きょうび大学行ってないと就職とか大変になるから」と返すと納得したのか、あっそう、という感じでなんとか受け流してもらったが、家から通える国立大学という条件がついた。高校受験のことがあったのでどうせ金は出してもらえないだろうと滑り止めを受けず、地元の国立大一本にした。幸か不幸か、志望大学は単科大でさほど倍率も高くなく、センター試験も不得意な理科の科目がなかった。自分は東京の私大を出ているくせに、娘に強いる謎の圧力。俺が大学受験した時はな〜と珍しく昔話をしたとおもったら、いくつか私大受験をすると言って親からまとまった金をもらい、その金でパチンコをしていたという話を聞いたことがあった。もしかして自分がそうしたから私も同じことをすると思っていたのか?
基本的に自分以外の人間全てを見下しており、ましてや女は男の従属物くらいにしか思っていないので、自分と同等の学歴になることがおもしろくなかったんだろう。結局予備校にも通わず田舎ではそれなりの名前が通る大学に現役で合格し(というか大学自体がほとんどないので)、なんやかんやと会社で娘が国立大に行ったとかいう話になったらしく、「大したこともねぇのに」とか言うわりに少し嬉しそうにしていた。その裏で、父は私の4年分の学費を遥かに上回るゴルフの会員権を購入していたことを後から知り、もう何も言いますまい、と口も心も閉ざすことを決めた。
私が高校生の頃から単身赴任をしていたので、思春期真っ盛りand酒とバイトと男に溺れていた学生時代を父は知らずに過ごし、彼が実家に戻ってきた頃には私も大人になっていた。ずっとずっと、同じ家にいるのが窮屈で怖かった。色んな男の子の家を転々としたりホテルにとまったりしてなるべく家に帰らなかった。
それまで父と母は円満に過ごしていたのに、急に家庭内別居を始め、あれやあれよという間に熟年離婚し、また転勤がかかり単身どこかへ行ってしまった。私には彼の残した家のローンと時代遅れのセダンの乗用車だけが残った。妹はとうに家を出て遠方で暮らしており、給料はおろかボーナスもほとんど家のことに使い切った。働き方改革などという言葉もまだ存在しなかったし、ちょうど大きな成約を取り付けた頃だった。ご飯を食べる時間などなく深夜まで毎日毎日働いて、毎朝空っぽの胃なのに吐いてから出勤し、それなのに、母からかけられる言葉は気が滅入るような陰気な愚痴と金の無心ばかり。ちょうど、ドリュー・バリモア主演のジャクリーンの親戚の映画「グレイ・ガーデンズ」がWOWOWで放送されていて、まるで私たちのようだとおもった。掃除もろくにせず日に日にゴミ屋敷のようになっていく4LDKのマンションにふたりきり。酒とタバコだけがオトモダチとなり、過労と心労諸々のストレスが重なり心臓発作をおこし、入院した。そんな時にも父は連絡ひとつよこさなかったばかりか、母と離婚してすぐ私とさほど歳の変わらぬ女と結婚していたことが、妹が取り寄せた戸籍によって判明した。なんてことはない、不倫を隠して、嘘をつき、全てを捨てて家を出ただけであった。
情けなくて情けなくて涙も出なかった。このまま私が死んで、保険金が家族のもとに入ることが、長女の務めであるとおもえた。将来家を買うためにとこつこつと貯めていた貯金も底を尽きかけていた。
ICUから一般病院へうつり、目を覚ますと恋人が花束を持って病室にいた。私はなんでいるの、と大声を出して泣いた。どうして君はこんなになるまで俺を頼らないの、と呆れた顔をして立っていた。夫に肝臓くらいくれてやってもどうとも思わなかったのは、親からもらった愛情以上に全てを教えて与えてくれたからである。対等な関係、敬意を持って人を愛すること。必要な時に助けを請うこと。
それなのに、私の歪みきった愛情のせいで、夫とセックスすることが出来ない。自分のしてきたことのしっぺ返しであると同時に、悍ましいことだという記憶が邪魔をし、愛すれば愛するほど、行為から遠いところにおいておきたい。愛とは神聖なものであるべきなので。愛する人とはセックスしたいじゃん、とかいう至極真っ当な言葉を聞いて絶句するような人間になってしまったんです私は。
それを、今更、何を突然「このまま死んでも死にきれない」などとどの面下げて連絡をとってきたのか、父よ。わたしは奴隷商人痴皇のサブリミナル過去映像に苦しむ軀の気持ちが痛いほどわかる、何が誕生日おめでとう、だ。すごいな、ほんとうに。
数日返信しあぐねていたら、聞いてもいない俺通信が送られてくるようになってしまった。恨みも怒りも特に湧き上がらず、冷笑してしまったのは紛うことなきオジサン構文だったからである。
「お元気でお過ごしであれば私から言うことは何もありません。これまでの人生を省みて人に敬意を持ち、穏やかにお過ごしください」という精一杯の皮肉を送ることしか出来なかった。ここで反論されたり激昂されたりしたら今後一切関わりを持たないでおこうと決めて。
しかし、歳をとって丸くなったのか、とりあえず我慢しているのかはわからないが「返事をくれて嬉しい、正直今までスマソ。出来ることは何でもしてあげたい。」などという内容が連なっていた。何でもしてあげたいと思うならまず口座番号を聞けよ、と思ったがさすがにそれは言わないでおいた。

私は悔しい。
勝手に、一人だけで解決した気になっていることが。
穏やかな晩年を、私の母と過ごしていないことが。

かつて夫に言われた「一番の親離れは親を許すことだよ」という、言葉が身体中を支配してきたこの十数年。どうやって折り合いをつけたらいいのか。仕事中も、仕事が終わってからも頭痛がするほど酒を飲みまくっているのに少しも酔えない。

今なら、父も「頼む、娘だけは」と懇願するだろうかと、タバコを一箱空にして、ようやくぼんやりしてきた頭でおもうだけ。

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