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僕のきた道

11月30日(水)
朝8:30から手術のため6時前に起こされ、色々と準備をさせられる。
大病院なので病棟の一角に「手術部」と書かれた緑色に光る看板とエレベーター扉のような重厚な鉛色の自動ドアで区切られている場所がある。ドラマなんかで「先生・・・!」と家族が駆け寄るあの手術室の扉の5倍の横幅と思っていただきたい。
あちこちの病棟から看護師と共に患者が徒歩で集まり、あっという間に行列になった。これから大手術をするのに徒歩で集まって並ばされているのがなんだかおかしくて、「Appleの新作発売日みたいですね」とか付き添いの看護師に話しかけてみたがウケなかった。手術の緊張を抜きにしても、私のギャグや例え話はわかりにくく不評であることを忘れていたついでに、ボケてというサイトに投稿していたアカウントを消していなかったなと余計なことを思い出した。私のギャグは夫にしかウケない。笑ってくれる人がいなくなるのは困る。ギャグの説明を人にする時が一番辛い。不本意なアルカイックスマイルを浮かべたまま5分ほど待っていると、夫と実母と義母がエレベーターから降りて来た。本当は夫と共に病棟を出る手筈だったが、不備があり手術部に入る直前に合流。母二人は涙を浮かべていた。
夫と、手を繋いで手術室まで歩く。じゃ、またあとでね、と言って泣きそうになるのをぐっと堪える。隣の手術室だ。
スタスタと手術台まで歩かされ、寝かされ、病院着を脱げと指示され、布団乾燥機のように暖かい空気で満たされてふくらんだ不織布を上からかけられる。命あたたか。その後脊髄から麻酔を通される。ほかほかを乗せられたとはいえ、素っ裸なので寒くなり、鼻をかませてくれ、とお願いする。武士の一分のキムタクを思い出してしまった。縁起でもない。
酸素マスクを乗せられるが半分以上目に乗っかっており、ちょ、ちょっとずらしていいですか、と下の方へずらしたところで記憶が途切れた。目が覚めると、ベッドを囲んで母二人が泣いて出迎えていた。
その後HCUへうつりうつらうつらとしていたら夜中になっていた。
夫と陰で様づけして呼んでいる総責任者のお偉い先生が来て「ご主人の手術は順調で予定よりだいぶ早く終わります。貴女の肝臓も大変立派でしたよ。」と手を握って笑って帰って行った。この先生はレジェンド過ぎてもう手術には入らないと聞いていたのだが、見守ってくれていて嬉しかった。夫の症例が珍しいこともあったと思う。彼の全摘した肝臓は研究に使われるそうで、有難い。
麻酔と痛み止めのせいか、現実味のある、たくさんたくさんくるしい夢を見た。

12月1日(木)
ほとんど記憶がないが、スマホを確認すると家族と友だち二人にメッセージを送っていた。一人はちょっと会ったときに入院と手術いつ?と聞かれて答えた日付、どちらにも連絡を寄越してくるようなマメさがあったことに驚きと嬉しさがあった。
もう一人はメッセージでも電話したときにも、もろもろ伝えてたと思うが、え?そうなん?とかまじ尊敬っす、みたいな心ない文章だけ送ってきやがってクソむかついた。これまでけっこういろんな話してきて、そんな話他の人としたことなくて、本当にいい友だち見つけられてよかったなと隠れて涙した夜もあったのだが・・・急に会わなくなり連絡が少なくなり・・・どうでもいい返事しかこなくなり・・・。
こないだ読んだ人間失格の主人公、完全にてめえで再現してやったからな、と言いたかったのだがやめた。私のない乳の間にも涙の滝ですわほんま。(言いたかないけど谷がないんで崖なんすね。いいんだ、崖が好きだから・・・)とか言うて本人に聞けばいいのに。でも自分から「素っ気ないとか通り越して粗末なの何?!」とか聞きたくもないんですよね。私もクソガキなんで。いやわかんない、どうせ我慢出来ないから元気出て来たら聞くかもしれないけど。
看護師に付き添われながら立って歩く練習をしたが、筋肉痛の500倍位のヤバい痛みが腹のど真ん中を突っ切っていて、気を失うかと思った。夫はまだ麻酔で眠らされていて会えなかった。
本を読んで、寝た。

12月2日(金)
麻酔による眠気がとれてきたので、一日中本を読んでいた。よりにもよって生体からの臓器移植の話。
しかしこちらは現実。倫理観に左右されるところが大きい医療であるので、反対している医者も多いらしいし、病院によって方針が全く違う。
夫が都会に住んでいてよかったと思うのは、思い立って行動に移せば日本一の病院ですぐに治療をしてもらえたということだ。夫は死にかけの中、複数の病院と移植コーディネーターに自ら連絡をとり、手術の交渉をしていた。第二候補は私の故郷の病院だった。大阪の家を売って皆で移住することも考えていたらしい。私が選んで良いと言われたので、これからも皆んなで大阪で暮らしましょう、と答えたのだった。あの曇天が続く冬の空は夫には似合わないし、私は豹柄の服を着て商店街を闊歩すると大阪に来た時から決めていたのだ。そして私は豹柄が似合う。
夫が抜管したというので、ICUへ会いにいく。
医者も看護師ももちろん私もかなり驚いたが、起き上がってほとんど普段通りに喋っていた。ほとんど、というのは喉がかれているのと、疲れてなかなか言葉が続かないという点だけで、麻酔で若干ハイになっていて焦点があっていないのが少し面白かったな。
ご飯が出たので、三分の一くらい食べた。
ほんとうに、食べることは生きる喜び。
ご飯を食べることにも体力が要る。途中、食べ疲れて寝てしまっていた。

12月3日(土)
夫に会いに行き、二人ともゼエゼエ言いながら喋りまくってしまった。わたしたちはとてもおしゃべり、そして二人とも脱線しまくる。まだ喋っとんのかいな、というICUの方々の視線を感じつつも、どうでもいいようなよくないような話をやめられなかった。今思えば、二人とも麻酔でハイになっていた。夫は以前から酒が一滴も飲めないのだが、もし二人で酒を飲みに行けていたら喉が枯れるまで、夜明けまで話し疲れて眠っただろうなと思う。そういえば泊まりに来た時は、互いに素面なのに寝る直前までいつも喋っていた。酒を飲まなくても一緒か。

12月4日(日)
脊髄から入れていた麻酔が切れたら何も出来なくなるほどの激痛が襲って来、あまりの痛さに吐き気もしてきた。強めの痛み止めを点滴で入れてもらい、ほぼ一日中気絶。
夫は麻酔や痛み止めがふわふわとして気持ち良い感覚らしいのだが、私は強烈な酒酔の中乱暴な運転のタクシーに乗せられているような眩暈と吐き気がする。挙句せん妄を起こし、目覚めると泣きながら全力疾走したような息切れ、疲労感と寝汗でびっしょりである。クスリでハイになれるというのは一つの才能なのだなあ。
もし末期癌とかになったり、余命幾ばくもないとわかったりしたら、南国でおくすりキメまくって最高の気分のまま海に入ってさようならすると決めていたのだが、どうやらそれも許されないようだ。マジで神さまっていないんだな。こんなに真面目に生きてきたのに死に方を選ばせてくれないんか。それとも、もっといい死に方が用意されてるんだろうか。
元カレが超絶美形になって夢に登場し「いやいやいや、補正しすぎ!」とツッコミを入れてニヤニヤしていたところで目が覚めた。二重にも三重にも嫌な夢だな。
痛みに引きずられ、夫に会いに行けず。

12月5日(月)
HCUを出て一般病棟の個室にうつったが、痛みがひどく起き上がれもしないし、かといって寝られもせず、ベッドの傾きを調整して誤魔化そうとするも気休めにもならなかった。何故か横向きに寝てみるか、といらんチャレンジをしたところ強烈な痛みと吐き気と、腹部の空洞感に襲われた。自分でチャレンジしといて襲われるってなんだろうか。所謂ひとつのセルフプレジャーか?
痛みが激しいので再度脊髄からの麻酔を入れてもらう。全く眠れないので夜はまた強めの薬を入れてもらったが、以前と同じような幻覚の中でうなされ夜中に汗びっしょりで起きる。
体力がなくなっているせいか、4時間以上寝ることが出来ず、朦朧とする中遅い夜明けを待った。冬は故郷の北国のほうが夜明けが早い。
病室の窓から見える稜線が深く色づいていて、それを眺めていると少しだけ痛みが和らぐ気がした。こちらでは12月の初めはまだ秋なのかもしれない。
夫に会いに行けず。

12月6日(火)
引き続き痛みで何も出来ず何も食べられず。
薬を入れてもらうがまた幻覚を見る。
今後ラリってる人を見る度に(羨ましいなあ〜)と思ってしまう残りの人生が確定してしまった。
個室なので、聴けていなかったラジオを流して、なんとか痛みに耐える。三四郎のラジオはニヤニヤして聴けるので最高だ、ありがとう三四郎、心よりお慕いしております。
痛い痛いと身体を起こしていたら傷、大きいですもんねえ、と看護師さんに気の毒そうに言われ、?となる。事前の説明では10センチくらいしか切らないと聞いていたのだ。おそるおそる痛みに耐えながら覗いてみると鳩尾から臍までしっかりと真っ直ぐバリバリに切られていた。そら痛いわ。

12月7日(水)
幻覚を見るし心電図は乱れるしでろくなことがないので、気絶しないタイプの痛み止めに変えてもらったら、全く効かない。尿道のカテーテルも抜かれ、自力でトイレに行かねばならないが、立つ度に便意も尿意も消し飛ぶほどの痛さがあり、便座に座る頃にはもう何も出ない。医者の回診の際に「体力と気力の限界です」と言ったが誰にも何も突っ込まれなかった。あぁ、悲しいね。
真っ青な顔で夫に会いに行ったら、無理するな!と怒られたので早々に退散した。夫の白目が白くなっているのを数年ぶりに見て、静かに感動していた。一方、私は生まれて初めて黄疸が出ていた。が、主治医からは肝臓の数値は問題ないのでいつ退院しても良いと言われる。「歩くのもやっとなのに?!」とびっくりしていたらまあ来週いっぱいいてもええけど・・・みたいな反応だった。
頑張れ、それぞれの私の肝臓たち。
ご飯が全く食べられず痩せてきてしまったので、栄養士さんが来てヤクルト、ヨーグルト、プリン、ジョア、ドーナツなどをかわるがわるつけてくれることになった。

12月8日(木)
アマプラでタイガーアンドドラゴンを見始めた。母か妹が観ていた記憶があるが、こんな面白いドラマを私は何故観ていなかったんだろうか・・・自分の人生の時間軸に空白と無駄が多すぎて驚く。
少し歩けるようになってきたので、リハビリも兼ねて3階下の夫の病室まで自力で歩いて面会に行ったのだが(これまでは車椅子で看護師さんに連れて行ってもらってた)、しんどすぎて通路にある全ての椅子、腰掛けに座りながらよたよたと歩いた。
夫も順調に回復していっているようで、私の傷を見せるついでに「おっぱい見る?」と聞いたら「うん!」というので見せたら心拍数と血圧が上がってアラートが鳴ってしまい、おかしかった。
夫は看護師さんに、夫婦生活はどのくらいで・・・と聞いたらしいのだが、少なくとも1年は無理と言われたとのこと。私は半年と言われた、と返したら神妙な面持ちで座り直し、「こんな花のような君を放っておいて申し訳ない。もしもの時は、本当に外注を頼んで欲しい。」と言われたので、じゃあマジでヤバくなったら友だちに相談してみるね、と適当に言ったら安心していた。
ご飯も食べられるようになったが、以前の半分くらいでお腹いっぱいになってしまい、視覚的な量との差異が埋められず毎食混乱している。あぁ、好きなだけ好きなものを食べたいな。

12月9日(金)
手術前はうっすらと縦線が浮かぶ程度に鍛えていたはずなのに、全く腹筋が使えていないせいか、一気にだるだるの中年の腹になっている。え〜こんな短期間で!かなしい。ちょうど友だちからLINEが来たので“夫が、もしもの時には妻の相手をお願いします言うてた”と送ったら“サラッとすごいことお願いしてきてんじゃねえよ!!”と返ってきた。あ、一旦向き合ってもらったんですか・・・存外真面目なタイプだったことを忘れていた。私のこういう無神経なところが後々人を逆撫でする。夫に報告したら「君の本質を自分なりに咀嚼して好きになってくれた人にお願いしたらダメでしょ・・・本気にされるよ!そういうのは後腐れない人に頼んで!」と呆れられた。どうも、今までの今際の際的ジョークも特に私を笑わせるために言ってたわけではないらしく、勝手に私がジョークと受け取り不謹慎にウケてただけのことが判明し「笑わせてるつもりはない」と言われて、また笑ってしまった。何故こんな女を妻に選んだのか謎すぎてにやにやしながら手を握ったりしながら、お、私の肝臓働いてるねぇ、私はもう胆嚢ないんやて〜、と話しながら夫の腹の管から出ている胆汁を確認したりしていたら、なんてかわいそうなんだ!といつもの調子で言ったきり、黙ってしまった。驚いて顔をあげると、泣いていた。
私に黄疸が出ていたことや私の身体に傷がついていることが相当ショックだったらしく、申し訳ない、愛している、と繰り返した。
貴方が特別な存在なのはたしかにそうなんだけど、自分の家族や親戚が相手でも同じことしてたと思うし、なんなら友だちの周りに適合者がいないってなったら、結婚して、肝臓あげてたとおもうよ、だから気にしないで。ひとつ後悔があるとしたら、もう誰にもあげられないってことだよ。私の中にある不変のものを分けただけだから、負担におもわないで、と答えたら「わかっているけど、つらい」と免疫抑制剤の副作用で震える手で私の頬を撫で、いつか、君は天使みたいだ、と言った時と同じ顔をして私を見つめていた。

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