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Yin and Yan

物事を魅力的に伝える際に文章の長短は関係ないと思ってしまうが、ディテール凝ったほうがいいかしらむ、などと欲を出しても長ったらしい前置きを前戯のように楽しめるようにする才を持ち合わせていないので(せっかちだし)、数日練ったものでもつまらなくて消してしまう。かと思えば店の休憩時間にほろ酔いで打った文章がけっこうよかったりして、素直に繋げたことばがよかったりするのかなとおもう。
影響を受けやすいので、うわ!かっこいいな!と思ったあけすけな感じとか、暴力的な使い方とか真似てみるけど、自分の文章になると途端に薄汚い滑稽なものに見える。

なんの根拠もなくても何もなくても自分で自分を愛してやれる強さというのは時には必要かもしれないけど、毎日毎時そのマインドって無理じゃないですか?
他者と繋がることでしか得られない肯定感って誰しもどっかに必ずあるのでは?
それなのにさ素直に自分みせて嫌われるのが怖いんだよな未だに。いっそ誰も私を好きになってくれるな、勝手に失望するなとおもったりしちゃうし。
家族で出かける時はいつも誰かと手を繋いだり腕を組んだりして歩いてたのよ。実家帰ったときは妹とか母親と外で手繋いで歩くし。甥っ子たちの素直な愛情表現に癒されたりしたのに、いつからか自分が他人に対して触ることを穢らわしい行為にしてきてしまったな。寒くなってきてさ、仲良い友だちと酔っ払って帰る時、歯ガタガタいわせて寒ぃー!とか叫びながら腕組んで歩くのとか好きだったな。なんで出来なくしちゃったんだろ。
真似て連ねた文章と一緒で、自分のそういう行為を薄汚くおもうようになったのって、いつからなんだろ。
(そういえば、高校生のとき父親と腕組んで商店街を歩いてたら、当時援交が騒がれてたのもあって父親の会社の人にばったり会ってめちゃくちゃ気を遣われたりしてたの思い出して少し笑っちゃった。)

どんなに純粋な愛情表現でも許されないことって、あるもんな。怒りとかもそうだけど。
嬉しさや喜びと、何を天秤にかけるか。
卑しいのは他人の目か、はたまた己の深層心理と欲深さか。

自分の都合の良いほうに、わざと錘を足して、選んだ理由にしてしまう。

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