手放してきたものへの愛

過去に愛した人の今愛すべき存在をたまたま目にした。

寂しい反面、安堵した。

私と築けなかったものを彼はちゃんと築いているし、私は自分がそれを築く気がなかった、しかも力量もなかったと理解できている。

早い話、生活から逃げていた。自分だけが庇護されていればよかったのかもしれない。

彼が築いたものは具体的に言えば、子供がいる家庭だ。いわゆるきちんとした家庭。彼のご両親、ご親戚のお眼鏡にかなうような。

一緒に暮らしていたとき、私は自分も彼も信じられず、子供がほしいと彼に言われても、育てる胆力もないのに子供はいらないとずっと言い続け、いつしか破綻したのだった。今なら当時の彼の気持ちはよくわかる。


あのときこうしていれば、とかああしていればと考えたことはない。どう転んでも私たちは親になれないと思っていた。私も未熟、彼も歳の割に未熟かつ親の言いなりに見えたから。我ながら阿呆な女である。

そんな元配偶者が、今は彼が思い描いていた理想的な家庭を築いている。何よりなことだ。

そして自分自身も、彼と暮らしていた当時からは考えられないほどふてぶてしくなり、自分の足で立てるようになった。きっと私をいっときでも妻にしたことは、彼にとっては忘れたい過去だとは思うが、お互いにとって必要な時期だったのだろう。私も彼も、あの時期なくしては今はないと確信する。

当時の私は栗色のセミロングで若奥様然としていた。奥さんとは、嫁とは、を考えた装いであった。でも、ただただ病んでいった。

理由はネタにしたいので割愛。

今は、あのときからは考えられないほど仕事も家事もきちんとできている。完璧ではないがすこし片付ければら誰かを招ける。

朝早く起きて、わざわざ寒い中でかけて、誰も労ってくれるわけではないのに、他人のために働くなんて。

不本意だがある意味楽しんでいるのかも。


また配偶者離れてしばらくつらかったが、幾年かすぎて、いくらか成長したのだろうか。

やさぐれていた私も、いつか安らげる場所を誰かと一緒に築きたいと思えるようになってきた。

今度は自分も相手に与えて、一緒に築きたいといういみで。おんぶにだっこだった自分を張り倒したい。

受け取るだけでなく、与えることも慶びと思える相手は、どれほど希少な存在であろうか。未熟な私は、まだわからずにいる。





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