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【2016年5月】寒山拾得

 別に僧侶たちのことを言っているわけではない。ただこのテーマしか考えられない今の頭なので、このテーマにした。初めてこの「寒山拾得」というテーマを読んだ時、「寒山の中葉っぱを拾っているところ、誰か何を悟ってしまった」ような感じがする。でもまさか二人の僧侶の名前なんて、今でも信じられない。

 そんなことどうでもいい。私はいま確かに寒山を登っているところだ。寒いのにただ薄い服を着ているいま、寒気を感じるのも当たり前のことだ。そもそもなぜこんな時期にこんなところに来たんだろう。それは、来る前にここは寒山とは知らなかった。ただここに来れば、この山を登れば、偉い人になれるとずっと信じている。今も確かにそう信じているけれども、だんだん疑う気持ちになってしまった。

 周りの人のことを思い出した。彼らは最初から寒山を目指していない。ただ普通の道路で歩き、お互いに普通の生活をしている。そんなライフスタイルは以前の私から見ればつまらないにほかならない。でも、今の私は、そんなつまらない生活すらできない私はもっとつまらないような感じがする。

 誰もいない寒山。目の前にただの階段だ。元の生活にも戻られないし、落ちる危険も常にある。いまただ登ることしかできない。でも、本当に私は登っているのだろうか。それとも、登るふりをして、なにもしていないのか。それは私にもわからない。なぜなら、私は自分のことを見ることができないのだ。

 なら誰かに聞いてみよう。そう決まった。すぐやめた。なぜなら、人がいない。寒山なので、人が来るはずがない。一人もいないとはいえないけど、会話できる人がぜんぜん見つからない。では、以前の人々に電話しよう。それもできるわけがない。なぜなら、あんなつまらない連中に電話するなんて、私だってプライドがあるし。私は寒山を登っている人だよ。偉いよ。私の話わかるはずがないだろう。結局、誰にも言わないまま、一人で続けて登っている。

 やめよう。そう何度も決心したのに、やめられない。やめるなら、何をするつもりだ。どうせ何をするのも結局すぐやめる。その予見が私の特別な能力だ。できることなんだないかもしれない。

 では続ければ、どうせ選択肢がないのなら。それはそうだけど、やはり何かを使用と考えている。なら、何をしようか。今はまだその答えは見つからない。今はね。「今は」という言葉がとても便利なものだ。

 懺悔の気持ちはない。けれども懺悔のふりをしている。誰かに見せたいだろう、そのふり。誰もいないし、ただの寒山だし。終点に到着したらどんな景色があるだろう。どんな景色があろうとしても、私にはどんな関係があるだろう。わからないまま登っている。いや、たぶん登るふりをしている。他にやることないし、登るふりをしながら忙しいと感じるのなら、その価値があるとおもう。それはいまの気持ちかもしれない。

 遠いところに、大きな樹が立っている。そこは楽しそうだ。私もあそこの葉っぱを拾いたい。その葉っぱを持って、終点に到着したら、多分自分の価値がかんじるだろう。そう思うと、今は、今は速くあそこに着くべきだ。

 時間があんまりない。速く登って、登る振りだろうなんだろう、とりあえず樹のところに行こう。後のことは、あとで考えよう。葉っぱを拾いたい、それは今考えられるたったひとつのことだ。拾いて、拾得して、あとは寒山の終点まで登るか。

 今は寒山だけ。これから、拾と得、景色が変われるのだろうか。

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