5年かけて『ファインマン物理学』を読む:1年目「Ⅰ力学」

羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド
2017年02月 006/120

「”星も地球にあるのと同じ原子からできている“.私はいつもこのような小さな話題をとりあげて話を進めることにしている.物理学は星の美を色あせさせ,気体原子の単なるかたまりにしてしまうだけだと詩人はいう.しかし”単なる“で片付けられるものはない.私といえども砂漠の夜,星を見,それに心を動かされる.しかし私のみるものは,それ以下なのか以上なのか? 広大な天をみていると私の想像はひろがる――この自然の大饗宴にひきつけられ,私のかよわい目にも百万年昔の光が入ってくる.広大な世界――私もその一部分である――,私のからだを作っているものは,大昔の忘れられた星からとび出したものであるかも知れない.今でも星からものがとび出している.あるいはパロマの大きい望遠鏡でみれば,星はみないっしょになっていた同一の出発点からひろがっていくことがわかる.それはどんな有様か,意味は何か,何故か? それについて少しばかりわかったとしても,神秘はそこなわれはしない.真理というものは,過去のどんな芸術家が考えたよりももっとすばらしいものなのである.現代の詩人は何故それを語らないのか? 木星が人間に似たものであるならば,それについて語っていいが,メタンやアンモニアがたくさんぐるぐるまわっているものであるならば,黙っていなければならないというなら,詩人とは何だ?」(『ファインマン物理学Ⅰ力学』42p「第3章 物理学と他の学問との関係」「3-4 天文学」注 より)

「いま,非常に複雑な力学系があるとしよう;一つのバネに一つのおもりがついているだけというようなものではなく,いくつかのバネにいくつかのおもりがついていて,それらが互いに連結されているものとしたら,いったいどうすればいいだろうか? 解く? それもいいかもしれない;しかし,まあ考えてもみたまえ.我々が取り扱おうとしているものと同じ方程式を持つ電気回路を組むことができるのだ! 例えば,バネにおもりがついている場合を取り扱おうとするならば,電気回路を適当に組んでインダクタンスがおもりの質量に比例するようにし,抵抗はそれに対応するmγにに比例し,1/Cはk比例するようにし,それらの比がすべて等しくなるようなものにした方がよいのではないか? そうすれば,当然この電気回路は,Vに対応して(Vもまたはたらいている力に対応するようにしてある),qがどのように変わるにしても,xもまさにそのとおりに力に応答して変わるであろう.こういう意味で二つのものは全く同等である! したがってたくさんの素子がいろいろな具合に連結された複雑な代物のときには,抵抗やインダクターやキャパシターをたくさんつなぎあわせて,力学的に複雑な系を真似すればよい.こうすると,どんな利点があるのだろうか? 互いに全く同等であるから,どちらの問題も同程度に難しい(あるいはやさしい)筈である。電気回路が使えることをみつけたことによる利点は,数学的な方程式を解くのが少しでも容易になったというようなものではない(もっとも電気技術者たちはそうしているのだが).この等価性に注意していた本当に理由は,電気回路の方が組むこともやさしく,また系の中で何かを変えることもやさしいからである.
いま,我々が自動車を設計したとして,それがどこかのデコボコ道を走るとき,どれくらいゆれるかを知りたいものとする.そこで,電気回路を組んで,インダクタンスで車輪の慣性を代表させ,車輪のバネをあらわすのにはバネ定数をキャパシタンスで代表させ,また,ショック・アブソーバーは抵抗で代表させる.自動車の他の部分もこのように代表させる.次に、デコボコ道がいる.よろしい.それでは発電機から電圧をかけて,それでこういったデコボコをあらわすことにしよう.そしてどれが適当なキャパシターの電荷を測定して,左側の車輪がどんなふうにガタガタするかをみてみよう.測定してみたら(これは容易なことである),すこしデコボコがひどすぎることがわかったとする.さて,ショック・アブソーバーをもっとつけるべきなのだろうか,あるいは減らすべきなのだろうか? 自動車のような複雑な代物を取り扱っているときに,アブソーバーをとりかえて,また方程式をはじめから解きなおすのだろうか? どんでもない! ダイヤルをまわすだけでよい;たとえば10番目のダイヤルは3番目のアブソーバーに対応している.そこでアブソーバーをふやしてみる.ガタガタは一層ひどくなった.――よろしい.それでは減らしてみよう.まだわるい;それではバネの硬さを変えてみよう(例えば17番目のダイヤル).というようにしてこういったものを電気的にみな変えてみるのだが,それにはツマミをまわすだけでよい.
これはアナログ計算機というものである.これは解きたい問題を,他の問題に真似て解こうというもので,そのものは同じ方程式に従うけれども,別な自然現象に属し,作るのも,測定するのも,調節するのも,こわすのも(!)容易なようなものである.」(同書342p「第25章 線型の系とまとめ」「25-4 物理学における類似」より)

耳鳴りの鳴る訳
 ときどき耳鳴りの鳴る訳について考える。年に何度か突然の耳鳴りに襲われたとき、そういえば耳鳴りの原因や仕組はまだ解明されていないんだっけ、と思い出す程度に。
 そもそも、耳鳴りとは何なのだろうか?ヒトという動物種に耳鳴りという身体現象があることは間違いないだろう。たとえば英語だとear ringing とか tinnitus という表現になるらしい。多くの言語に耳鳴りを表現する言い回しがあるのではないか。
 私たちは自分以外の誰かの耳鳴りを聞くことはできない。今まさに耳鳴りしている当人には悩ましくも明らかに存在する音が、周囲の誰にも物理的な音として届くことはない。耳鳴りの音質や音量を計測できるようになったという話も聞いたことがない。私たちが聞く耳鳴りの正体は、一体なんなのだろうか? そもそも、私たちは本当に耳鳴りを「聞いて」いるのだろうか?
 2017年2月現在58歳の私が、耳鳴りの鳴る訳について考え始めたのは、1980年代後半である。日本の年代でいうと昭和の末期・平成の始まる頃。私は関西に住んでいた。もちろんそれ以前から耳鳴りを経験していた。なぜそのとき、30歳前後になって初めて、耳鳴り(の存在)が気にかかるようになったのか。その理由は特定できる。
 「耳鳴りの波形は正弦波」と思うに至ったからだ。
 その頃の私はほとんど毎日、様々な周波数の、波長波高波形を目にし、その音を耳にしていた。発振器で電気的に作り出される正弦波の波形・音声も馴染のものだった。『ファインマン物理学』中では「オッシロスコープ」として登場する機器を毎日使用して、電子機器の修理の仕事をしていたのだ。(ファインマンはその機械について、「振動周期が1秒よりも短くなると,その振動を数えるには,何とか工夫して我々の観測能力を拡大しなければならない.その工夫の一つは例えば陰極線オッシロスコープであって,これは短時間をみる顕微鏡のようなものである」と表現している。)
 耳鳴りの周波数に近い音を、空中に伝わるリアルな音として耳にし、その物理的な波形をオシロスコープの画面で目にする日々の中で、なにかの拍子に我が身の耳鳴りが襲ったのだろう。それが正弦波の音にごくごく近いものだったわけだ。
 そこで、ついつい考えた。
 「なぜ私たちは、ときどき頭の中で正弦波を発振させ、その音のない音を聞いているのか?」「どうやって私たちは、頭の中で正弦波を発振させているのだろうか。どうやってその正弦波の音を聞いているのだろうか?」「いや待てよ、頭の中で常に正弦波が発振されてて、何かの機械のクロック振動子みたい感じで、それでたまたま体調が崩れたりしたときに、制御フィルターが壊れるような感じで、漏れ聞こえるとか。いやいや、実は同じ波形の正弦波が二つ発振されていて、いつもは位相反転して打ち消し合っているのが、何かの拍子に片一方の正弦波が…、…」。きりがないので止める。

 ともかく当時の私はサービスエンジニア=修理技術者として、大阪日本橋の電気街で会社勤めをしていた。ところが私は私立文系大学国語国文学科の出身だ(ちなみに卒業論文の題材は『徒然草』だった)。いうところの畑違いそのものである。なぜそんな羽目にという顛末は本筋とは関係がないのではぶくが、当然ながら状況的に否が応でも電気の事を勉強しないわけにはいかなくなっていた。
 ところが意外と、畑違いのはずの電気の勉強は楽しいものだった。電気街で電気の本を買って一応読みもしたが、なにせ手近に様々の電気回路が組み込まれた電子機器と、その各機種に対応した地図や見取り図ともいうべき回路図が、ちゃんと一式揃っているのである。それも単一機種ではなく、アマチュア無線機から音響映像機器まで、旧式機から最新鋭機まで。学校の詰め込み学習的なテキスト素読や暗記からは遠く離れた、これ以上の生きた勉強があろうか。
 さらに、「すべて壊れている」というのがまた素晴らしい。
 目前の機器を前に、回路図を追いながら測定器(含むオシロスコープ)を測定ポイントにあて、その壊れを見つけていく。どこかに宝探し的な子供の遊びの要素があったことは否定できない。やがていずれ小さな発見の喜びに出会うことになる。壊れていたものが自分の手によって蘇生されていくという達成感もある。
 一方でそれは、自分の無知無能を否応なく自認自覚させられる、つらい仕事でもあった。やはり、根本的なところで、その仕事が自分のものとはとても思えなかった。なぜならそれに向いた周囲の優れたエンジニアとの技能・技術の差は、自分自身を含め、誰の目にも明らかだったのだから。暗中模索と自問自答を続けながら、自分なりに電気の勉強に励むしかなかった。
 何年か後に、ふと気が付いた。
 「自分は、物理の勉強をしているのか!」
 あまりに遅い目覚めである。とはいえ目が覚めてしまった以上、眠っていたときに読んでいた本とは違う本を探さねばならない。一般の大型書店、具体的にいうと難波の旭屋書店なんばCITY店、まで足を伸ばし、基礎的な物理学・数学の本を探すようになった。文系に進路を決めたときには、あれほど毛嫌いしていた学科たちだというのに。
 そこで出会ったのが、ヒッポファミリークラブ『フーリエの冒険』だった:『フーリエの冒険』トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス編(言語交流研究所 ヒッポファミリークラブ 1988)。多言語習得の過程について考えるうちに、人間の音声そのものに興味を感じた若者たちが、好奇心探究心をバネに、音声とはなんぞやとフーリエ解析について学んでいく、という内容だ。大半が理系の人達とはとても言えない若者たちの「珍道中」が、しかししっかりと音声について学んでいく様子が、生き生きと描かれていた。
 私は『フーリエの冒険』についても、運のよい読者だった。様々の音の波形を、その複雑さと微妙な規則性を、自分のように実際に目の当たりにできる人間はそうそういないだろう。「同じ形をくり返している周期をもった波は、どんなフクザツなものも単純な波がたくさんたし合ってできている。」(『フーリエの冒険』9p)という文中のフレーズを、職場での体験ももとに自然に受け入れることができた。
 『フーリエの冒険』の巻末には参考文献のリストがあり、その中の一冊として『ファインマン物理学』が挙げられていた。ファインマンの名前を目にした一番最初の機会だったかもしれない。早速『ファインマン物理学』全5冊を購入した(さすがに電気街では売っていない)。しかも、1990年刊の「特別記念版」で、通常版がソフトカバーなのに対して、そのセットは重厚なハードカバー装丁だった。

 それから四半世紀以上経ったが、実はまだ日本語版『ファインマン物理学』を読み通せないでいる。やはり、簡単な内容ではない。難解なのだ。それでも、全巻、目を通すだけでもいい、読破したいという気持ちはいまだ無くなっていない。一つの念願である。
 ファインマンが亡くなったのは、1988年2月15日。2016年このブックレビューシリーズの開始を機に、日本語訳版『ファインマン物理学』全五冊を、これからの五年で、毎年2月に一冊ずつ読み、レビューしてみたい。
 ご覧の通り、今回がその一回目である。

解るとはどういうことか
 高卒40年生になった今、文系出自の自分が『ファインマン物理学』にこだわり、数式部分では時に寝落ちしながらも読み続けて、なにがあるのだろうか。
 もともとは若い理系学生のための物理学入門テキストを、初老の私は世界を「わかる」ための、あるいは「わかる」とはどういうことかを考え続けること・検証し続けるためのテキストとして読んでいるように自分では考えている。もちろん今の自分には、数式のいちいちなどまったくわからない。いわゆる理系の人が読んで、それらをどれほど理解・咀嚼して、読み進めていくのかもわからない。

 もう何年前のことか、それが大阪でのことか北海道だったのかも覚えていないが、『ファインマン物理学Ⅰ力学』初読時に、内容理解不能のまま字面だけ追うなかで、これなら「わかる(気がする)」と一気に目が覚めた個所がある。
 第10章あたりから、数式の霧の中に入ってしまったものが、「第23章 共鳴」「23‐3 電気的共鳴」で一瞬日が射すのである。そこには電子機器回路で馴染み深い物質的実体、ハンダ付けに励んだ電子部品の形を思い起こすことのできる、抵抗やコンデンサやコイルが登場するのだった。さらにそこからフィードバックして、それまでの五里霧中の里程がちょっと短いものに感じられさえしたのである。
 ファインマンいうところの、「物理学の類似」の実例に、打たれたということになろうか(この文章の冒頭の二つ目の引用をご参照あれ)。
 今回の二読目は十数年ぶりの通読で、同じ個所で同じ覚醒を再体験し驚いた。その覚醒自体をすっかり忘れていたことに驚きもした。三読目ではさすがにその覚醒はなかった。一方で、一読目二読目でまったく読んだ記憶のない個所を、内容は理解できないものの文字として認識して読んでいる自分に気付いて驚いた。これはまた違う種類の覚醒である。良くも悪くも。
 来年2018年2月、このレヴューのために『ファインマン物理学Ⅱ光 熱 波動』を読む予定でいる。それが実現すれば、『ファインマン物理学Ⅰ力学』の四読目に挑むことにもなろう。全面的に「わかる」ことはあり得ない(どんな本であっても)。ただ、段々と自分なりに「わかる」ようになっていくのも間違いのないことのようだ。また別種の覚醒とともに。

 歴史学者阿部謹也(1935‐2006)『自分のなかに歴史をよむ』の初版発行は、ファインマンの死と『フーリエの冒険』初版刊行と同じ、1988年だ。発刊間もなく読了した記憶がある。自分にとっての「わかる」の定義は、以下の同書引用部分に負うところが大きい。(引用は、『阿部謹也著作集 9 自分のなかに歴史をよむ 北の街にて』(筑摩書房 2000)より)

解るとはどういうことか
 上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っているように思われることでも、じつは何も解っていないということが身にしみて感じられるのです。
 「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。もちろん、ある商品の値段や内容を知ったからといって、自分が変わることはないでしょう。何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、「解る」ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そのような「解る」体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだとも思えるのです。
 学生時代から今日にいたるまで、私は「解るとはどういうことか」という問題について考えつづけてきたといってもよいと思うのです。この問題についてひとつの答えが出たのは、もう三十代も後半のことでした。」

 『ファインマン物理学』のなかにも、「わかるというのはどういうことなのか?」という問いかけが登場する。

「上に,運動の例を二つ述べた.両方とも非常に簡単な考えでうまく記述でき,べつだん深奥なところはないようにみえる.しかし実は深奥なところが,いくつかあるのである.第一に,時間とか空間とかは何を意味するのか? これらの深奥な哲学的の問題は,物理学において非常に慎重に考えなければならなにのであるが,これは決してやさしいことではない.相対性理論によると,空間や時間の概念は,ちょっとみるほど簡単なものではないのである.しかし,我々の現在の目的にとっては,あるいは我々が最初に要求する精度にとっては,ものごとをそう神経質にきちんと定義する必要はない.諸君はこういうかも知れない,”それはひどい話です.――科学ではあらゆるものをきちんと定義しなければならないと習いました“と.しかしどんなことでもきちんと定義するということはできないのである.きちんと定義しようとすると,話が窮屈になってこんなことになる.2人の哲学者がむかいあって話をしていた.1人がこういう.”君は話していることが自分自身にもわかっていないんだ!“ すると相手がいう.”わかるというのはどういうことなのか? 話すというのはどういうことなのか? 君とはどういうものなのか?“等々.」建設的に話を進めるには,我々はだいたい同じ一つのことについて話しているということで意見が一致していなければならない.諸君はいま必要とすることはわかったと思うが,しかしまだ考えなければならぬ微妙なところがあることは忘れてはならない.これについて次に述べる.
 微妙なところの一つは,前にもちょっとふれたが,我々がいまその運動を問題としている点というものは,いつもどこかにあると考えられるとしなければならないということである.(もちろん,我々が見ているときには,点はある,しかし目を離したときには,そこにないかも知れない.)原子の運動では,この考えも,成り立たない――原子には目印もなければ,それが動くのを見張っていることもできない.この微妙なところは,量子力学で処理しなければならない.しかし,いま我々は,そのような複雑なことにふれる前に,問題はどんなことであるかということを考えようというのであって,こうすれば,最近の考えに従って修正を加えるのもやりやすいというものである.そこで,ここでは時間や空間について単純な見方を採用することにしよう.時間とか空間というものが何であるかは,我々はだいたいわかっている.自動車を運転した人ならスピードとは何であるかがわかっているのである.」(同書110p「第8章 運動」「8‐1 運動の記述」 より)

 もう一冊、「わかる」ことについて考えるときいつも、頭に浮かぶ本がある。
 『クォーク 素粒子物理はどこまで進んできたか 第2版』(講談社ブルーバックス 1998)がそれで、2008年にノーベル物理学賞を受賞し、2015年に亡くなられた南部陽一郎の一般向けの著書である。
 その末尾の文章。

「最後に現実にもどって、冷静に現在の物理学と、物理学を追及するわれわれの立場を考えよう。われわれが本当に驚嘆せざるを得ないのは、自然の秘密が次から次へと解明されていくことではなかろうか。宇宙の生誕から一〇〇億年後の一瞬間とも言うべき現在の時期に、その中の物質の一部をなすわれわれが宇宙の法則を見出し、その歴史を知り、物質自身も有限の寿命をもつ一時的存在かもしれないと悟るのは、まことに不思議だと言わねばならない。」


喉歌(のどうた)について
 さて、その後、私はやはり畑違いの仕事をやめて、ひとまず1997年4月北海道にJターンした。
 そこで、二人の理系大学院生の民族音楽ユニット(こう書いただけで「なんじゃそれ」という声が聞こえてきそうである)「タルバガン」と深く関わることになる。「タルバガン」は、ざっくり言ってしまうと、「喉歌」のユニットだ。
 喉歌は、アジア中央部南シベリア・アルタイ山脈周辺の一部遊牧狩猟民族に伝わる、独自の歌唱法である。エモーショナルな歌詞・旋律を持った民謡楽曲の流れのなかで、歌い手が自身の倍音成分(フォルマント)を利用し、地声と倍音の二重唱・ときに三重唱を独りの人間がいっときに演じるという、ユニークなものである。どうしても「神秘・驚異の歌声」的な表現で形容されがちなのだが、物理学的観点から見ればその声(が出ること)自体には、神秘も驚異も不思議もない。
 (「タルバガン」「喉歌」については、前回のレヴュー「すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva.」などを参照されたし)
 すべての人の声はフォルマントを含んでいる。たとえば、親しい間柄なら姿は見えなくともその人の声を聞いただけで誰と特定でき、メロディも音程も同じ歌が歌手ごとに違って聞えるのはなぜか。当たり前すぎて改めて深く考えることもしないでいるが、そのなぜかを明解明確に説明するのは難しい。
 拙くかつ単純化した説明をさせてもらうと、特定個人Aさんの地声(声の音程高い低いはこの主音声の周波数で決まる)と、Aさんなりのフォルマントの混ざり具合によって、人はその声がAさんのものだと特定する。メロディは主音声によって歌われ、歌い手の声の個性は主音声とフォルマントの混ざり具合による、というわけである。
 すべての人が、無意識のうちに、自分の主音程をコントロールし、その上に主音声とは違う周波数(高いものも低いものある)のフォルマントを含ませて発声している。聞く方も、主音程のみならず他人のフォルマントの特徴を聞き取って、誰彼かを認識しているということだ。
 それはそれで驚異的なことだ。しかしそれは、ヒトにもともと備わっている能力であり、当たり前のことでもある。
 喉歌の素晴らしさは、喉歌文化圏の人々が、その微妙で微細な倍音成分を聞き取り・拾い上げ・拡張し、ついには芸術性の高い各民族固有の芸能文化にまで高めたところにあると考えたい。彼らは、ヒトが当たり前に持つ倍音成分の、優れてエレガントな活用方法を独自に発見発明したのである。そちらのほうが神秘や驚異や不思議でなくてなんだろう。

 1998年から2005年にかけて、私は「タルバガン」の音楽CDの企画制作者の役割を担った。今はともに音楽家となり「元」がつく大学院生二人と私の共通蔵書が、『ファインマン物理学』と『フーリエの冒険』だった。その共通読書体験によって、良きコンセンサスが作られていた、という気もしないでもない。
 喉歌が神秘でも驚異でもないことは自明で、問題は音楽としてよいものかどうかだった。大切なのは、神秘や驚異を強調することではなくて、エレガントな民族的発明に敬意を払いつつ、また別のエレガントな作品を作り上げることなのだ。
 ――もっとも私は、『ファインマン物理学』全篇を読んではいない。「共通読書体験」は偽りだな(ぜいぜい「共通蔵書」というところか)。
 『ファインマン物理学Ⅰ力学』だけは全体的に目を通したものの、他の巻は拾い読みしただけで読書を断念した。さらには、インターネット古書店を始めていたこともあって、ヤフーオークションで「特別記念版」全5冊を売ってしまったのだが(特装版のせいか高い値が付いた)。「タルバガン」の二人との差はこんなとことにあるのだろう。
 それでも、再び『ファインマン物理学』を購入し、読み始めたわけだ。通常並装版だが。まだ1冊目だが。日暮れて途遠し、ではあるが…。――

以下、「エレガント」であってほしい、引用
 「エレガント」というおよそ物理学のテキストに出てくるには不似合いに思われる単語が、『ファインマン物理学Ⅰ力学』の中に何度か登場する。ファインマンにとっては、自然は、またそれについて記述・研究する物理学は、エレガントなものであるということか。
 『ファインマン物理学』の主著者であるファインマンはまったくユニークな存在で、その強烈な個性に人は魅惑される。『ファインマン物理学』が優れた物理学者・教育者としてのファインマンの本質が現れたものなら、数多く出版されている一連のファインマンの自伝・伝記類は奇人物理学者としてのファインマンの人となりを伝えるものだ。
 そして、『ファインマン物理学』中のファインマンは、その叙述スタイルがユニークであることは間違いないが、「自然」に対してはまったく謙虚で奇矯なところがない。そんな二面性が、一人の人間の中に、無理なく存在することにも、私はエレガントさを感じる。そのエレガントさを愛する。

 以下、素人の私にもエレガントであると感じられた『ファインマン物理学Ⅰ力学』中の文章をそのまま引用して、このレヴューを終わりたい。
 新しい「覚醒」の来たらんことを!

「引力の法則から出てくることがまだ他にもあるか? 木星の衛星についていうならば,それが木星のまわりをまわっている運動のようすが,すべてこの法則から理解されるのである.木星の衛星についてはかつてある一つの問題があったのであるが,それを述べておこう.レーマーは木星の衛星について非常によく研究したのであるが,ときに,ある衛星の運動は予定よりもはやく,また他の衛星の運動は予定よりもおそいことがあることに気が付いた.(この予定というものをきめるには,長い間観測をつづけて,衛星が木星を1周するのに要する平均時間を求めればよい.)予定よりもはやいというのは,木星が地球に近いときであり,予定よりおそいというのは,地球から遠いときである.このことを引力の法則だけから説明しようとすれば,それは極めて困難なことになる――事実,もしも他に説明の方法がないというならば,この見事な引力の法則もこれでその終焉ともなったろう.一つの法則にうまくいかないところが1個所でもあれば,その法則は正しくないのである.しかし,上に述べたくいちがいの理由は非常に簡単で見事なものであった:光が木星から地球に到達するのには時間がかかるから,木星の衛星の運動を我々が見るのは実際よりも,ちょっとおくれているわけである.木星が地球に近いときにはこのおくれの時間は短く,遠いときには長い.木星の衛星が,地球に近いか遠いかにしたがって,平均として予定よりも少しはやかったりおそかったりするのは,この理由によるのである.この現象は光が瞬間的に伝わるものでないことを示したのであって,このことによって,光の速さが初めて決定された.これは1656年のことであった.」(同書97p「第7章 万有引力の理論」「7-5 万有引力」 より)

 「この引力の理論の大成功は,科学の歴史に実に重大な影響を及ぼした.この影響はいかに強調しても強調しすぎるということはない.それよりも以前には,はてることなき議論,パラドックスなどがあった.そのときの混乱,不十分な証拠,不完全な知識と,この引力の法則の明解さと単純さ――すべての衛星も惑星も恒星もこんな簡単な同じ一つの法則に左右され,更に人間がこれを理解し,惑星がどう動くはずかということを導き出すことができるというこの事実――この二つをくらべてもみたまえ.その後,多年にわたって科学が成功したのもみなこの理由である.何故ならば,このことによって,自然界における他の現象にも,またこのような美しく簡単な法則があるだろうという期待がもたらされたからである.」(同書103p「第7章 万有引力の理論」「7-6 キャベンディッシュの実験」 より)

 「しかしこんな簡単な法則でいいのか? そのからくりはどんなものなのか? 今まで我々のしたのは,地球が太陽のまわりをどのようにまわるかを記述することであって,なぜまわるかということについては,全然ふれなかった.このことについては,ニュートンは何の仮説もおかなかった;ニュートンはそのからくりに立ち入ることなく,引力が何をするかということを見出すだけで満足した.それ以来,このからくりについてちゃんとした説をたてた人は1人もない.このような抽象的性質をもっているということは,物理法則の特色である.エネルギー保存の法則も,計算して,たし算をすべき量に関する定理であって,そのからくりには立ち入っていない.これと同じように,力学におけるこの大法則は,定量的な数学的の法則であって,そのからくりはわからない.このように,そのからくりを知らないでも,数学を使って自然を記述することができるというのは,何故なのだろうか? これは誰も知らない.しかしこのようにしていろいろのことがわかってくるのだから,それをつづけていくより他はない.」(同書103p「第7章 万有引力の理論」「7-7 引力とは何か?」 より)

 「もう一つ述べておかなければならないのは,ニュートンの引力の法則がアインシュタインによって修正されたということである.ニュートンの引力の法則は,実に目をみはらせるようなものであったが,それにもかかわらずそれは正しくなかったのである! そしてそれは相対性理論をとり入れてアインシュタインによって修正された.ニュートンによると,引力の影響は瞬間的に生ずる.すなわち,一つの物体を動かすと,それが新しい位置に来るので,直ちにその新しい力を感ずるということになる.このような方法によれば,無限大の速さで信号を送ることができる.しかしアインシュタインの理論によると,光よりも速く信号を送ることはできないということになるので,引力の法則は正しくないにちがいないということになる.この信号のおくれを考えに入れて修正すると,アインシュタインの新しい引力の法則になる.この新しい法則でわかりやすい面はこういうことである:アインシュタインの相対性理論によると,エネルギーをもっているものはすべて質量――引力をうけるという意味における質量――をもっている.光でさえも,エネルギーをもっているので,”質量”をもっている.一つの光線もその中にエネルギーをもっているわけだが,それが太陽のそばを通ると,そこには太陽の引力がはたらいている.だから,光はまっすぐに進まないで,その方向が曲がる.例えば日食のとき,太陽のまわりに見える星は,太陽がそこになかったとした場合に見えるはずの場所から少しずれて見えるはずである.そして観測もまさにそのとおりであった.」(同書106p「第7章 万有引力の理論」「7-8 引力と相対性理論」 より)

 「問題は,ある瞬間にこのスピードで走っていたというのは,何のことかということなのである.これの意味は,彼女が時間的にもうちょっと走ったら,その間に走る距離は,1時間に60マイルの一定のスピードで走る車の距離と同じであるということである.1秒88フィートという考えは正しい.最後の1秒間に走った距離を88フィートでわってその答えが1になるならば,スピードは1時間に60マイルである.すわなち,スピードはこうやればわかるのである:ある非常に短い時間内にどれだけ進むかを求める.その距離を時間でわる.その答がスピードになる.しかし,この時間というのはできるだけ短くなくてはいけないのであって,短ければ短いほどよい.それは,この時間を短くしないと,その間にも何か変化が起こりうるからである.落体で時間を1時間にとったら,話にならない.車の場合には時間を1秒にとればかなりいいだろう.スピードにあまり変化がないからである.しかし落体の場合にはよくない;だから,スピードを正確に求めようとすればするほど,時間としていっそう短いものをとらなくてはならない.我々がなすべきことは1秒の100万分の1をとって,その間に進む距離をこの100万分の1秒でわるということである.その答が秒速になるのであって,これが我々が速度というものである.速度はこうして定義するのである.さっきの女の人に対して,これがいい返答になるというよりは,これがこれから使う定義なのである.
 上の定義の中には,一般的の形でギリシャ人にはなかった新しい考えが入っている.それは微小な距離とそれに対応する微小な時間を考えてその比をつくり,時間を短く短く短くしたら,この比がどうなるかをみるということである.いいかえれば,進んだ距離をそれに要した時間で割って,時間が無限に短く短くなったときの極限を求めるのである.この考えは,ニュートンとライプニッツとによって独立に出されたものであって,微分学という数学の新分野のはじまりである.微分学は運動を記述するために発明されたものであって,その第一の応用は,”時速60マイル”で走るというのはどういう意味かということを定義する問題であった.」(同書113p「第8章 運動」「8‐2 スピード」 より)

 「力学の法則,すなわち運動の法則の発見は,科学の歴史上において,劇的な事件であった.ニュートン以前には,惑星のようなものの運動は一つの神秘であった.しかしニュートン以後,この運動は完全に理解されるようになった.他の惑星の影響によって,ケプラーの法則から僅かなずれが生ずるが,それさえも,計算することができるようになった.ニュートンの法則が打ち立てられてから後は,振子の運動,バネとおもりから成る振動子の運動等々も,完全に解明することができるようになったのである.
 (中略)
 ガリレオが慣性の原理を発見したことは,運動を理解する上の一大進歩であった.一つの物体が孤立していて外から擾乱を受けていなければ,はじめ動いていたものは直線に沿って一定の速度で動いつづけ,はじめ止まっていたものは止まりつづけるというのがこの原理である.もちろんこれは現実には決して起こりそうにない.例えば積木を机の上ですべらせれば,それはもちろん止まってしまう.しかしこれは積木が外界から孤立していないで,机をこすっているからである.現実を超越して正しい法則を発見するには,やはり想像が必要なのであって,この想像がガリレオによって与えられたというわけであった.」(同書122p「第9章 ニュートンの力学法則」「9‐1 運動量と力」 より)

 「ニュートンが前提としたことの一つは,遠隔作用は,瞬間的にその影響が及ぶということであった.しかし実際はそうでないことがわかってきた;例えば電気の力が関係している場合で,1カ所にある電荷が突然運動したとすると,他の点にある他の電荷に及ぼす影響は,瞬間的にはあらわれない――少しおくれがある.このような場合に,力は等しくても,運動量はキチンとあわない,短時間の間めんどうなことが起こる.それは,ちょっとの間,第1の電荷はある反作用的の力を感じ,若干の運動量を得るが,第2の電荷はまだ何も感じないで,運動量もまだ変化していないからである.二つの電荷の間の距離をこの影響が伝わってくるのには時間がかかるのであって,その速さは一秒に186,000マイルである.この短時間の間には,粒子の運動量は保存しない.第2の電荷が第1の電荷の影響を感じて,すべてのことが落付いた後には,運動量は保存しない.このことを我々は次のようにいいあらわす.すなわち,この短い時間の間,粒子の運動量mvの他に,別の運動量があって,それは電磁場内における運動量だとするのである.この場の運動量と粒子の運動量とを加えるならば,いかなる時いかなる瞬間にも,運動量は存在する.運動量やエネルギーをもつことができるということは,この電磁場をはなはだ現実的なものにする.そして理解をよくするために,粒子の間にただ力があるという古い考えを修正して,粒子が場をつくり,場が他の粒子に作用し,そして場それ自身が,粒子と同じように,エネルギーや運動量というようなおなじみの性質をもつとするのである.もう一つ例をとろう:電磁場には波があり,これを我々は光と称する;光もまた運動量をもつことになるので,光が物体にあたるときには,毎秒ある量の運動量を与える;これは力と同じことである.何故ならば,光があたって,物体が毎秒ある量の運動量を受け取るならば,その運動量は変化し,そしてその状況はそれに力がはたらいているのと全く同一であるからである.光もものにあたって圧力を生じうる;この圧力は非常に小さいけれども,充分敏感な装置を使えば,それを測ることができる.
 さて,量子力学によると,運動量は上に考えたものとは,ちがったものであるということになる――それはもはやmvではない.一つの粒子の速度というものが何を意味するのかをはっきり定義することは困難である.しかしそれでも運動量は存在するのである.量子力学ではどこにちがいがあるかというと,粒子を粒子と考えれば,運動量はやはりmvであるが,粒子を波動と考えれば,運動量は1cmあたりの波数によって測られるというところにある;この波数が大きければ大きいほど,運動量は大きいのである.このようなちがいがあるにかかわらず,運動量保存の法則は量子力学でも成立する.量子力学ではf=maの法則は成り立たず,ニュートンが運動量保存について導き出したことは全部正しくないのだが,それでも,この保存の法則はそのままいきているのである!」(同書147p「第10章 運動量の保存」「10‐5 相対論的運動量」 より)

 「この体系は数学とはたいへんに違うのであって,数学ではあらゆることを定義することができ,我々が現実に何のことを問題にしているか知らないのである.じっさい数学の栄光は,我々が現実に何を問題としているかということにふれる必要がないというところにある.その栄光は,法則も議論も論理も,“それ”が何であるかということに無関係だというところにある.ここにもう一つ物体の系があって,それがユークリッド幾何学の公理と同じ体系に従うとし,我々が新しい定義を下して正しい論理で議論を展開するならば,結果はすべて正しいだろうし,そしてまたそのものが何であるかによらない.しかし自然界では,我々が線をひき,あるいは測量でやるように光線と経緯儀とを使って直線を設けたとき,我々はユークリッドの意味において線を測っているのだろうか? そうではない,我々は近似をやっているのである;望遠鏡の中の十文字の線にはいくらかの幅があるが,幾何学的の線には幅はない,だからユークリッド幾何学が測量に応用できるかどうかというのは物理の問題であって,数学の問題ではない.しかし,数学の立場ではなく物理の立場からいうならば,我々が土地を測量するときに使っているような幾何学に,ユークリッドの法則があてはまるかどうかを知る必要がある;そこで我々はあてはまると仮定する,そしてそれはなかなかうまくいくのである;しかし厳密にそうではない,というのは,測量の線は幾何学的の線ではないからである.ユークリッドの線というのは実に抽象的なものだが,これが現実の線にあてはまるかどうかということは,現実の問題である;頭の中の理屈だけで答えられる問題ではない.
 これと同じように,F=maを単に定義であるとし,あらゆることをこれから数学だけで演繹し,また自然を記述する力学を数学的理論とすることはできない.ユークリッドがやったように適当な仮定をおくことによって,ある一つの数学的体系をつくることは常に可能である.しかし我々は自然界の数学をつくることはできない.何故ならば,我々はおそかれ早かれそれらの公理が自然界のものにあてはまるかどうかを知らなければならないからである.こうして我々は,これら自然の複雑な”どろくさい“対象にやがてまきこまれるのである.しかしその近似はだんだん精確に精確にとなっていくのである.」(同書165p「第12章 力の性質」「12‐1 力とは何か?」 より)

 「厖大な量の事実とか考えとかいうものは,互いにある種の関係で結ばれており,またそういう関係が存在するということは”証明“し,”説明”することができるのであるが,数学を要するような専門的な問題を論ずるときには,これらの事実や考えをこうしてよく理解し,記憶に蓄積しておかなければならない.証明というものと,証明によって確立される関係というものとは,とかく混合されがちである.いうまでもなく,学んで頭に入れるのが大切なのは,この関係なのであって,その証明法ではない.場合によっては,これこれが正しいということは”証明できる“というだけのこともあり,また実際に証明することもある.たいていの場合,その証明はうまく考えてあって,何よりもまず,黒板や紙の上にはやく書きやすいように工夫してあり,できるだけすらりとみえるようになっている.そのため,証明は簡単にみえるのだが,実はどうしてそんなものではない.実際,一つのことを計算するのに,教師や著者は何時間もかけていろいろの方法を試みてみる.そして一番速くすむ方法をみつけて,これが最短時間でできる証明であることを証明するのである! 証明をみたときに忘れてはならないことは,証明それ自身ではなく,これこれのことが正しいということを証明することができるということである.証明が数学的の手段や”技巧“を含んでいて,それが初めてお目にかかるようなものであっても,その”技巧“そのものを重視してはいけない.そこに出て来る数学的の考えをこそ重視すべきであるのはいうまでもない.
 この講義のようなものの中に出てくるいろいろな説明には,教師が自分が1年生の物理を習ったとき以来,ずっと覚えていたなどというものは,一つもありはしない.とてもそんなことはない:教師が覚えているのは,これこれのことが正しいということだけなのであって,どうやって証明するかは,そのときどきの必要に応じてそのつど工夫するのである.一つの問題が充分によくわかっている人なら,誰でもこのようにやれるのである.証明を覚えるということは無益である.」(同書193‐194p「第14章 仕事と位置のエネルギー(結び)」「14‐1 仕事」 より)

 「運動の全エネルギーと位置の全エネルギーを加えたものは,時間によって変化しない.いろいろの惑星が,自転したり,公転したり,ねじれたりしていても,運動の全エネルギーと位置の全エネルギーを計算すると,その和はいつも一定である.」(同書201p「第14章 仕事と位置のエネルギー(結び)」「14‐3 保存力」 より)

 「200年以上もの間,ニュートンの運動方程式は,自然を正しく記述するものであると信じられてきた.これらの法則にあやまりがあるということが初めて発見されたとき,同時に,それを修正する方法も発見されたのである.このあやまりを発見したのも,修正を加えたのも,アインシュタインであって,1905年のことである.」(同書207p「第15章 特殊相対性理論」「15‐1 相対性原理」 より)

 「この方程式を使えば,例えば原子爆弾内の核分裂で放出されるエネルギーはいくらかということを見積もることができる.(分裂でできる片々は厳密に等しくはないが,だいたい等しい.)ウラン原子の質量は既知である――ずっと以前に測定されていた.これが分裂してヨウ素,キセノン等になるのだが,その質量もみんな既知である.ここでいう質量とは,原子が運動しているときの質量ではなく,静止しているときの質量である.(中略)アインシュタイン老が,気の毒にも新聞などで原子爆弾の“父”といわれるようになったのはこのためである.その意味するところは,どういうものがどう分裂するかということを知りさえすれば,アインシュタインの式に従って,出てくるエネルギーの量をあらかじめ計算することができるというだけのことなのである.ウランの原子一つが分裂するときに出るはずのエネルギーが見積もられたのは,最初の核爆発実験テストが行われたのよりも6カ月ほど前のことであった.そして,テストがエネルギーが放出されるや否や,そのエネルギーが直接に測定された.(もしもアインシュタインの式があてはまらなかったとしても,ともかく測定は行われたことだろう.)そして測定が行なわれたその瞬間から,式はもういらなくなってしまった.我々はもちろんアインシュタインを軽くみてはいけない.我々はむしろ,新聞だとか,科学技術史上で何が何の原因になったかということを解説する通俗書だとかいうものを批判すべきなのであろう.物事を効果的に速く実行するのにはどうすればよいかというようなことは全く別問題である.」(同書234‐235p「第16章 相対論的エネルギー」「16‐5 相対論的エネルギー」 より)

 「“ただいま”ということの意味は,神秘的であって,定義をすることができない.我々は“ただいま”に影響を与えることはできないが,“ただいま”は後にやがて我々に影響を与えうる.あるいは,ずっと前に何かをしておいたら我々も”ただいま“に影響を与えることもできた.我々がαケンタウルス星を眺めるとき,我々がみているのは,それの4年前の姿である;その星は”ただいま“どうなのだろうか.”ただいま”というのは,我々に固有の座標系からみて“同時に”という意味である.我々がαケンタウルス星をみることができるのは,4年前という我々の過去から来た光によるのであって,その星が“ただいま”どうなっているかはわからない;この星の“ただいま”の様子が我々に影響を与えるのは4年先のことである.“ただいま”のαケンタウルスというのは,我々の頭の中の考えであり観念であって,現在,物理的にきちんと規定できるものではない.我々はまだそれを観測することはできない;“ただいま”すぐ規定することもできない.さらに,この“ただいま”というのは,座標系にも関係する.たとえば,αケンタウルス星が運動しているとすると,この星にいる観測者は,我々のいうことに合意しないだろう.何故ならば,その観測者は,我々の座標軸に対して斜めの座標軸を使い,彼の“ただいま”は我々の“ただいま”とはちがうのである.同時ということがきちんと一つにきまるものではないことは,すでに述べた.
 世に占師,すなわち未来を知っていると称する人がいる.また,未来圏について知識をもっていることに突如として気がついたなどという人について,さまざまの不思議な話がある.こういう話自体には,またたくさんのパラドックスが含まれている.もしも将来何かが起こるということがわかっているのなら,適当なときに適当なことをすれば,それは確かに避けられるではないか,等々.しかし実際のところ,現在のことをさえ知らせてくれる占師はない! かなり離れたところでいま何が起こっているかは,観測できないのだから,わかるはずはない.」(同書242p「第17章 時空の世界」「17‐3 過去,現在,未来」 より)

 「人間がまず発見するいくつかの法則というものは,大きいスケールに対してもそのまま成立するようなものであろうと思われる.それは何故か? 宇宙の基本的のからくりのスケールは実は原子的な大きさであって,我々が観測するものにくらべてはるかに微細であり,ふつうの観測にはこんなスケールのものはどこにもないからである.だから我々がまず最初に発見するであろうものは,原子的スケールとくらべて,特にどの大きさと限定しないものに対して成り立つ法則が,大きなスケールに対してそのまま成立しないというのだったら,これらの法則を発見するのは容易なことではなかろう.では逆の問題はどうだろうか? 小さなスケールに対する法則は,大きいスケールに対する法則と同じものでなければならないだろうか? もちろん自然界では,原子的レベルにおける法則が,大きいスケールの法則と同じでなければならないということはない.いま,原子の運動の法則がほんとは奇妙な方程式によって与えられ,そしてそれは大きいスケールにもっていったときにそのまま同じ形にはならないが,ある近似式によってあらわされ,この近似式をどんどん先に進めると,さらに大きいスケールに対してもそのまま成立しつづけるという性質をもっているとしよう.こういうことはありうることであり,また実際もそのとおりになっている.ニュートンの法則は,原子に対する法則を非常に大きいスケールにもっていった”しっぽの先“なのである.微小スケールにおける粒子の運動の実際の法則は,非常に奇妙なものである.しかし,それをたくさんとっていっしょにすると,それはニュートンの法則に近似する――近似するだけのことである.ニュートンの法則は大きいスケールにどんどんおしひろめていいのであって,そうやってもやはり同じ法則であるようにみえる.このニュートンの法則が大きいスケールでもそのまま成立するという性質は,実は自然の基本的性質というわけではなく,重要な歴史的事実である.最初の観測というのはあらっぽいのだから,それによって原子的粒子の基本的法則が発見されるなどということは決してありえない.じっさい,量子力学と称する原子的基本法則は,ニュートンの法則とは全くちがうのである.我々が直接に経験するものはみなずっと大きなスケールの問題であるが,小さなスケールの原子は,大きいスケールではみたこともないような行動をとるので,これはなかなか理解しにくい.だから”原子は太陽のまわりをまわっている惑星に似ている”などというわけにはいかない.それに似たものはないのだから,それは我々におなじみのものとどれにも似ていない.量子力学をだんだん大きいものにあてはめていくと,たくさんの原子が集まっているものの行動については法則がそのまま同じ形で成立するのではなくて,新しい形の法則になる.これがニュートンの法則であって,こんどはそれは,マイクロマイクログラム,――といっても,そこには何十億の原子があるのだが――そのマイクロマイクログラムの大きさから,ずっと地球の大きさ,またはそれ以上のものに対しても,そのままの形で成立するのである.」(同書262‐263p「第19章 質量の中心;慣性モーメント」「19‐1 質量の中心の性質」 より)

 「ここでもう我々は,ジャイロスコープの歳差運動のことはよくわかったといってもよいかもしれない.また数学的には事実そうである.しかし,これはあくまでも数学的な話であって,現象としてはある意味では”奇跡“的なものである.今後,物理学のもっと程度の高いところに入っていくと,大したことにはみえないようなことでも,それを基本的な,あるいは明解な意味で本当に理解することの方がたいへんで,数学的にはかえって早く出てくるものがたくさんあるということになる.これは奇妙な特質であって,もっともっと進んだ部分にはいっていくと,端的には誰も本当には理解できないような結果が,数学からは導き出されるというような場合があるのである.ディラックの方程式がその一例である.この方程式は一見したところ非常に簡単で,きれいな形なのであるが,それから得られる結果を理解するのは難しい.我々のいまの問題に限っていうならば,コマの歳差運動は直角とか円とか,ねじれとか右手ネジとかいうものを含んでいるある種の軌跡の一つであるようにみえる.我々は,それをもっと物理的な意味で理解しなければならない.」(同書281p「第20章 3次元空間における回転」「20‐3 ジャイロスコープ」 より)

 「物理の課程は通常,力学,電気学,光学などの部門に分かれていて,学生はそれを次々に勉強するようになっている.例えばこの講義では,いままで主として力学を取り扱ってきた.しかし不思議なことがたびたび起こる:すなわち物理学のいろいろな分野ばかりでなく,他の科学においてもほとんど全く同じ方程式が出てくることがしばしばあるのである.ということは,これらは分野こそ違っているが,類似性のある現象がたくさんあるということである.いちばん簡単な例をあげるならば,音波の伝播は光波の伝播に似ている点が多い.音響学をよく勉強すれば,その多くは光学をよく勉強するときのと同じものであることがわかるだろう.このようなわけで,一つの分野のある現象に関して勉強するということは,別の分野における我々の知識を拡張するのに役立つことがある.このような拡張が可能であるということは,あらかじめ知っていた方がよいと思う.そうでないと,力学のごく小部分としか思えないようなところに何故こんなに時間とエネルギーをつぎ込むのか,その理由がのみこめないかも知れないからである.
 これから調和振動子について勉強するのだが,これは他の多くの分野にも,ぴったりこれに相当するものがある.ここではバネの端につけたおもり,あるいは振れの小さい振子,その他何か機械的なものというような力学的な例から始めるが,本当のところはある微分方程式について勉強するわけである.この方程式は,物理学やその他の科学にしばしばあらわれてくるものである.そして事実,非常に多くの現象の一部をなしているので,それについてよく勉強しておく価値が十分ある.この方程式に出てくる現象としては,例えばバネに取り付けられたおもりの振動;電気回路の中で前後に流れている電荷の振動;音を発生している音叉の振動;光波を発生している原子中の電子の振動;温度調節のサーモスタットのような自動調節機構の作動;化学反応における複雑な相互作用;食物の供給とバクテリアのコロニーの成長;狐が兎を食い,兎が草を食うというような現象;等々があるが,これらの現象が従う方程式はすべて互いに非常によく似ている.我々が利力学的な振動子をこんなに深く勉強するのはこのためである.この方程式を定数係数を持った線型微分方程式という.」(同書285p「第21章 調和振動子」「21‐1 調和振動子」 より)


5年かけて『ファインマン物理学』を読む:1年目「Ⅰ力学」 ブックガイド凡例 『書名』・著者編者訳者などの名前・(出版社名 初版刊行年)・[コメント][随時、追加・追記・修整します]

【本文中に登場する本】
『ファインマン物理学Ⅰ力学』(岩波書店)
ヒッポファミリークラブ『フーリエの冒険』
『ファインマン物理学Ⅱ光 熱 波動』
『自分のなかに歴史をよむ』
『阿部謹也著作集 9 自分のなかに歴史をよむ 北の街にて』
『クォーク 素粒子物理はどこまで進んできたか 第2版』

タルバガン(等々力政彦・嵯峨治彦)
『タルバガン、大地に立つ』(BOOXBOX 1998)
『マイタイガ』(BOOXBOX 1999)
『野遠見』(BOOXBOX 2005)

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】
『ファインマンさん最後の冒険』ラルフ・レイトン 大貫昌子訳(岩波書店 1991)

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