ハガクレ・スチール #01

01 シラヴェール・ナニカノ博士

 特殊強化ガラスの窓から雲海を見下ろし、三百年前の交響曲にしばし耳を傾ける。世界的メーカーが製造したソファの上で足を組み替え、クマのキャラクターがプリントされた特注マグカップを手に取る。並々と注がれているのは、希少動物の体内を通った豆で作られた最高級コーヒー。口に含めば他では決して体験することの出来ない独特の味わいが広がる。機内プライベートルームの居住性は高く、揺れはほとんど感じない。なんとも充実した時間である。
 その日、シラヴェール・ナニカノ博士は自ら設計した最新型輸送機に乗りマッハ10で大海を越えようとしていた。

 彼女はこれから世界的に権威ある学会に出席し、最新の研究成果をお披露目する予定だ。今世紀最高の天才と名高いナニカノ博士が今まで世に出してきた発明の数々は、人類の暮らしをより良き方向に変えてきたと自負している。反重力装置の革命的小型化、無尽蔵に生産できる完全栄養食、極めて高効率な二酸化炭素分解処理施設の構築。統一政府から貰った賞は数知れない。

 ナニカノ博士はスケジュール表を眺めた。多くの学者や研究者が壇上に立つ予定だが、彼女の研究成果を超える発表など有り得ないと確信できる。
「まったく、才能は罪だな……」
 今回の学会でもまた世界は驚嘆することになるだろう。万雷の拍手を浴びる自分の姿を予想し、ナニカノ博士はほくそ笑んだ。

 その時、操縦を任せている作業ロボットが機内放送で到着予定時刻を告げた。博士の笑顔が固まった。

 たった一つ問題があるとすれば、この超音速機をもってしても発表時間に間に合うかどうか判らないことだ。動画配信サービスで『マイ・スイート・ベアーズ』をシーズン1から見直しているうちにすっかり我を忘れてしまい、出発が一時間以上遅れた。ナニカノ自身はそういうことを気にするタチではないが、会場にいる恩師の叱責が怖い。

「き、きっと間に合うわ。ね、パープ?」

 彼女は頬を引きつらせ、デスク上のクマのぬいぐるみに縋る視線を向けた。愛しのパープルクローはつぶらな瞳で見返すだけだった。

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某日、マイ・スイート・ベアーズのイベントに向かう
ナニカノ博士とパープルクロー

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