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プロジェクトKV二次創作『黒き恵みは八十を越えて』

Dynamis OneによるプロジェクトKV/ProjectKV/프로젝트KVの二次創作です。
葦原津守こいとと絆を深めるエピソードを想像してみました。
キャラクターや世界観の大半が自己解釈となっていますので、ご注意ください。


 耳に届く甲高い音が黒電話の呼び鈴だと気付くのに、たっぷり十秒はかかった。私は文字と数字の夢から覚めたようにハッと顔を上げ、書類の山をかき分けて受話器を持ち上げた。
『お師匠様? あの、葦原津守です。お忙しいですか?』
 聞こえてきた少女の声に、私の脳裏にはすぐに個性的なシルエットが浮かび上がった。心技館の生徒、葦原津守こいと。
「大丈夫だよ、こいと。今日は何か用?」
『実は』いつも堂々としている彼女にしては、声に躊躇いが感じられた。『お師匠様の力をお借りしたいことがあるんです。もし時間が取れましたら、一度心技館でお会い出来ませんか。お仕事が忙しければ、無理は言えませんが……』
「いや、大丈夫だよ!」本当は全然大丈夫ではない。「すぐに行くから、待ってて!」
『えっ、これからですか? えっと、今日の午後は……果し合いが二件、これなら…… いやその前にお話を』
「じゃあ行くね!」
 こいとは困惑している様子だったが、電話を切らせて貰った。この部屋で無限地獄の様な事務作業に追われているよりは、生徒と直に向き合う方が甲斐があるというものだ。
 時刻はまだ正午前。私はすぐさま外着を整え、定期券を確かめてから執務室を飛び出した。
「あら、お師匠様。お出かけですか?」
 応接間を掃除していた萬央まおさんが声をかけてくれる。黒い和服に白いエプロン、頭の上にぴんと立った兎の耳が揺れている。つまりいつもの彼女だ。
「うん、ちょっと心技館まで」
「いつもお疲れ様です! もうすぐお昼ですけど、何か包みましょうか?」
「大丈夫だよ、こちらで用意するから。もし帰るのが遅くなったら、みんな先に休んでね」
「わかりました。道中お気をつけて!」
 笑顔に見送られて門を開けば、視界いっぱいの紅葉に迎えられる。もみじや銀杏がさらさらと降る林道を、様々な制服を着た生徒たちや、萬央さんの大勢の姉妹が行き交っていた。生徒の頭上に光の輪が浮かび、腰に刀を帯びているさまは、ちょっと他では見られない光景だろう。
 私は少し歩いてから、今しがた出てきた館を振り返った。山全体を境内とする『修學殿しゅうがくでん 』の一角、紅い木々の中に建つ擬洋風建築。この地で活動を始めるにあたり、私が宛がわれた住まいであり仕事場だ。
 『陸音館ろくおんかん 』と呼ばれている。ようやく慣れてきた、といったところだろうか。私は駅へと向かう無料バスを待った。

 
 那由多鉄道の車窓から眺める風景は特徴的だ。行けども行けども紅い山が連なり、点々と仏閣の屋根がちらつく。谷を越え川を越え、時おり小規模な盆地に出ると、そこには学寮を中心とした町が築かれている。以前いた大都会の景色とは目的を異にする、自然と調和するかの様な人の営み。
 まるで庭園、水墨画、枯山水。見ていると心がどこかに遊飛しそうになるけど、私にはまだ果たすべき使命がある。空になった駅弁の箱に目を向けて、意識を現実に留めた。

 ここは学寮都市カピラ。果てしない山々と永遠の紅葉に抱かれた悟りの地。可能性の光輪を宿した生徒たちが学び暮らし、刃を通じてかの域に至らんとする修行の場。
 私はこのカピラにおいて「師」と呼ばれている。生徒たちを教え導き、世界に立ち向かえる一人の人間に育て上げることが私の使命であり、大人としての責任である。
 まあ多くの生徒からは、お悩み相談室、都合の良い何でも屋、人手が足りない時に呼べばいい雑用係みたいに思われている節もある。私はそれで構わない。私にとっても子供たちにとっても、日々の全ては修行であり実践なのだから。

 やがて心技館の町が見えてくる。多くの寮区は伝統的な木造低層建築が主だが、カピラで有数の規模を誇る心技館となれば四角いコンクリートのビルも多く、なんとショッピングモールすらある。慎ましい暮らしに飽いて新しい刺激を求める生徒たちは、みな周辺区から心技館へ訪れるのだ。
 そして多くの寮区と同じく、心技館もまた他にない個性を持っている。単に「発展している」ということは事実の一部でしかない。庶民的な湯の岡、厳かな伝統を継ぐ裏の官、書と詩歌の万葉秀。それらと並ぶ心技館の特徴は、一度来た者なら誰でも分かる。

 心技館中央駅を出ると、さっそく騒ぎが起こっていた。
「アシハラの果し合いだ!」
「今日これで三回目だぞ!」
 駅前のロータリーをぐるりと囲んで人垣が出来ており、あちこちから興奮した声が飛ぶ。中心部で何事か起きており──もう想像はつくが──、これは野次馬の輪だろう。
 ごめん、すいません、と謝りながら手刀の仕草で人混みをかき分け、様子を窺えるまで前に進む。はたして予想通り、連なる光輪の向こう、心技館の黒い制服をまとう二人の生徒が向き合っていた。
 うち一方は社会秩序への反抗心を形にしたような、いかにもな不良スタイル。同じ様な髪型と服装を何人も見た気がするので、流行なのかも知れない。既に抜刀しており、大きな声と大きな手ぶりで自分の力を誇示することを忘れない。
 それに向き合う小柄な生徒は、仏頂面ながらも冷静な対応をしているように見える。肩に掛けているのは身の丈以上の大太刀。ボリュームある紅い髪が、一目見れば忘れられない動物的な輪郭を描き出している。彼女こそ、私が心技館まで来た理由。葦原津守こいとである。

「……挑戦状は? 今からでも書こうという気にはならないの?」
「あたしがせっせと書いてる最中に逃げようってつもりだろ! 臆病風に吹かれたか、アシハラ!」
「そんな訳ないでしょう。挑むなら規則を重んじなさいと言ってるの」
「いちいち規則なんて気にしてたら、私の熱い闘争心が削がれちまう! 剣士の心は常在戦場、戦いたい時に戦い、挑まれれば迎え撃つべし! そうだろ、みんな!」

 両者の言葉を明確に聞き取れた訳ではないが、こいとが溜め息まじりに「挑戦状」と発したことが判れば、事態はおおむね把握できる。これから行われようとしているのは、未認可の果し合いだ。
 寮区を問わずカピラ全域において、生徒同士の果し合いは修學殿の認可を必要とする。通称「挑戦状」と呼ばれる書類をしたため双方署名のうえ提出し、当局により許可されれば時間・場所・立会人が定められ正式に執り行われるのだ。そして現実には、一連の手続きを面倒と感じて諸々省略した直接的行為に及ぶ生徒が非常に多い。
 ここは大勢が行き交う駅前、周囲の店舗もさぞ迷惑だろう……と思いきや、既に出店や売り歩きが現れ始め、物見高く軽食をかじる生徒もいる。突発的なお祭り騒ぎに躊躇なく相乗りし、楽しもうとする様は実に心技館らしい。
 これから起こり得る事態は予想できなくもない。幸いにして人混みの中によく知る生徒を見つけたため、私は事後処理に備えることにした。太刀を腰に下げた、スラリと背の高いショートカット。こいととも近しい関係の彼女ならば話を聞いてくれそうだ。
 私がどうにか彼女の元まで辿り着き、然るべきことを伝えた辺りで、周囲から一斉に息を呑む気配が伝わった。事態が動いたのだ。

「葦原津守こいと、敗れたりッ!!」
 自信満々、走り来る不良生徒にこいとは殆ど表情を変えなかった。大太刀を肩から下ろし、わずかに腰を落とす。
 大上段から刀が振り下ろされる! こいとは大太刀を眼前に掲げて、敵の斬撃をがっちりと受け止めた。まだ刃を抜いていない。
 こいとは踏ん張り、押し返そうとする。相手もまた、刀を持つ手に力を籠めて圧し掛かる。それが罠だった。
 ふっと、こいとは力を緩めた。互いの武器の接触部を支点にくるりと身を翻し、舞うように相手の後方に回る。その動きの中で、慣れぬ者なら抜くのも難しい大太刀を鮮やかに抜刀していた。
 たたらを踏む挑戦者の無防備な背中に、こいとはその刃を容赦なく振り下ろした。血の華が咲く──そう錯覚するほどに見事な剣筋。

「きゃああっ!?」

 悲鳴があがった。それは当然、断末魔などではない。
 不良生徒の着ている服だけがばっさりと切り裂かれたのだ! 彼女は体に傷一つ無いまま、たった今まで自分の着衣を構成していた布片を手で抑え、見えてはならない部分をかろうじて隠しながら蹲った。
 これが、カピラにおける果し合いの決着である。

 カピラの刀は人を傷つけない。鋭く磨かれた刃を握り込んでも押し当てても、肌には筋も残らない。そしてたった今こいとがやった様に、意思と技術をもって振るったならば、刃は人の肉体を断つことなく"すり抜ける"のだ。その身に白刃を通された者には、ただ「斬られた」という実感のみが残るという。
 それはこのカピラという地に由来する特異性。カピラにおいて刀は悟りに至る道であり、共に学ぶ同胞を殺めるためのものではないのだ。
 
 まあ無事に済むのは人体だけであり、それを包む着衣に関しては普通に斬れる。いや斬れるどころか、人体が負う筈のダメージを押し付けられたかの様に盛大に千切れ飛ぶ。あられもない姿で羞恥の悲鳴をあげる不良生徒の姿は、果し合いに敗れてしまった者の典型例だ。

 ともあれ決闘は終わった。これにて解散となればいいのだが……心技館においては希望的観測だろう。私の傍で勝負を見ていたひとりの生徒がぶるっと体を震わせると、止める間もなく人混みをかき分けてロータリーの中央に躍り出た。
「次は私だ!」
 叫ぶや否や抜刀、有無を言わさずこいとに斬りかかる。彼女だけではない。
「あたしにもやらせろ!」
「その首もらった!」
「葦原津守、勝ぉー負!!」
 決闘の熱気に中てられ血が騒いだか、野次馬の中から次々と生徒が飛び出し、こいと目がけて駆け出した。当然、誰も認可を貰ってはいないだろう。のみならず、
「私も一戦やりたくなってきた! 誰でもいい、今すぐやろう!」
「おい、この前はよくも人のプリンを食べてくれたな! ここで仇を取ってやる!」
 そこかしこで威勢の良い声が上がるや、たちまち斬り合いが始まった。心技館の生徒たちは有り余る若いエネルギーを抑制しようとはせず、次々に怒号と繊維が飛び交っていく。刀を抜かない生徒や通りすがりの市民たちは騒ぎの外縁で囃し立てるばかり。もはや駅前ロータリーは合戦場の様相を呈している!
「みんな、駄目だって! やめなさい!」
 私が声を張り上げたところで誰の耳にも届かない。喧騒の中で的を外れた刃、最初から的を選ばぬ刃が音を立てて身体の傍を通り過ぎてゆく。

「お師匠様!」

 鋭い声。紅く小柄な影が私の傍に駆けつけるや、大太刀の一薙ぎで周囲の生徒たち(の衣服)を吹き飛ばした。
「こいと!?」
「お師匠様、こっちへ!」
 今は彼女を頼ろう。こいとは駆けながら目の前にいる生徒を次々と斬って捨て、後に続く私の道を確保してくれる。豊かな紅髪がたなびく姿は、まさしく野を疾走する猛獣を想起させた。

「お師匠様は斬られたら怪我するのよ! あんたたち、知らないの!?」

 こいとに導かれ、ようやく布切れが舞う戦場を抜け出したその時である。道路の向こうからけたたましいサイレンが聞こえるや、赤色灯を乗せた何台ものトラックが猛スピードで走ってきた。次々と急ブレーキをかけロータリーに横付けする。
「突入!」
「御用だ!」「御用だ!」
 先頭車両助手席の生徒が号令するや、荷台に乗っていた生徒たちが一斉に飛び降りて来る。彼女たちが持っているのはさすまたや袖がらみなど、間合いの長い捕り物道具だ。さらに別のトラックからは、衣服を満載したキャリーワゴンが次々と運び出される。
 待ちに待った援軍の登場だ! ショートカットの彼女が連絡してくれていて助かった。
「風紀委員だ!」「まずい、逃げろ!」
 その場の勢いで刀を振り回していた生徒たちは、風に散らされる様に逃げ惑う。
「大人しくしろ!」「逆らうと内申点に響くぞ!」
 心技館の治安を守る風紀委員たちは威圧的な警告を叫びながら、なお手向かう生徒を制圧にかかった。刀の届かない間合いから何本ものさすまたと突棒で動きを制し、袖がらみを制服に引っ掛けて引き倒す。それぞれの役目に徹し、多人数で一人を押さえる手並みは鮮やかだ。
 被服科のキャリーワゴンからは厚手の簡易制服がばら撒かれる。心技館で無尽蔵に生産されるこの服は、刀で斬られた生徒たち──つまり、着衣が非常に心もとない生徒たち──への応急処置である。さらに手慣れた様子で臨時の更衣スペースが設置されるや、みんな慌てて簡易制服を掴みカーテンの向こうに駆けてゆく。
 心技館ではよくある騒動の一部始終。風紀委員と被服科の活躍により事態は沈静化しつつあった。

「なんだ、もう終わり?」「帰ろ帰ろ」
 遠巻きに見物していた生徒たちが方々に去り、祭りの後のように熱気が冷めていく。私は自販機で買った飲み物を持って、ロータリーの片隅に佇むこいとに声をかけた。
「ありがとう、こいと。おかげで助かったよ。怪我はしてない?」
「ええ、私は大丈夫です」
「良かった。水とスポーツドリンク、どっちがいい?」
「あ、すいません。えっと…… ドリンクでお願いします」
 こいとは小さな口にペットボトルを運び、ほっと息を吐いた。
 騒ぎが一段落した後、こいとは風紀委員による事情聴取を受けた。とはいえ担当した生徒も慣れたもので、状況を引き起こしたのはこいとではなく、彼女に挑みかかる側だというのはよく判っているらしい。私も目撃者として見たままを証言し、早々に解放された。
 こいとは終始、汗の一つもかいていなかった。走り回るだけで息が上がっている私に比べ、八面六臂の活躍を見せていながらほとんど疲れた様子が見えない。しかも聞けば、駅に来る前に認可済の果し合いを一件済ませているという(結果は言わずもがな)。さすが心技館一の猛者だ。
 お互いに一息つくと、彼女は改まって私に向き直り、背筋を伸ばした。
「挨拶が遅れましたが…… こんにちは、お師匠様。本日はお越し頂きありがとうございます」
「こんにちは、こいと。連絡をくれて嬉しいよ、今日はよろしくね」
「その、繰り返す様ですが…… お師匠様、大丈夫なんですか? 斬られてたら大変なんじゃ」
「大丈夫、私は問題ないよ。こいとが守ってくれたおかげ」
 手を広げて無事をアピールすると、彼女は疑わしげにジロジロと私の体を睨め回した。カピラに来てから白刃が身体を掠めることは何度もあったが、幸いにして深手を負ったことは一度もない。この時は服すらも切れておらず、私に怪我が無いことを確認したこいとは小さく息を吐いたが、顔はきゅっと引き締まったままだ。
「……良かったです。もちろん、お師匠様を呼んだのは私ですから、これからもきちんとお守りします」
「ありがとう。私もこいとの力になれるよう、頑張るね」
 でも、その前にお返しの機会が欲しい。
「ところで、こいと。お昼はもう食べた?」
「まだですが……」
「もし時間があったら、本館に行く前にどう?」

 寄ったのは小さなお蕎麦屋さんだった。若者の運動の後なのでガッツリ精がつくものをと思ったが、それは暴れた当人なら誰でも同じであり、肉が出る店や大盛ラーメン、ファーストフードは軒並み生徒でごった返している。静かな方が良いというこいとの要望もあって、彼女も初めてのこじんまりしたお店に入ったのだ。
「……」
「……」
 二人で向かい合い、熟年の夫人が出してくれた蕎麦を黙々とすする。歯ごたえは柔らかく、しっかりとコシがあるタイプではないが、食べやすい。つゆの味がよく染みている。
 店内の席はまばら、私たちのテーブルには静かな食事の音だけが響いている。心技館では希少な雰囲気のお店で、味も良い。
「美味しいですね。お店の感じも好きです」
「そうだね」
「……」
「……」
 しばらく口が求めるに任せていると、箸を止めたこいとの目がじっと上の方を見ていた。私も視線の先を追うと、天井の隅にテレビが設置されている。心技館の生徒によるローカルチャンネルで、先程の騒ぎがさっそく報道されていた。
『これぐらい心技館では日常茶飯事だぜ!』『この程度でへばっていては心技館では生きていけない』
 街頭インタビューで通行人がタフな答えを返した後、人だかりの中で撮影されたこいとの映像が流れた。果し合いで不良生徒の隙を突く技巧、乱戦に道を開く豪快な戦いっぷり。『今日も無双』のテロップ。
「良い太刀筋だったよ。こいとはいつも真面目に修行しているから、その成果だね」
 私は素直な感想を零した。
 心技館の指導方針は心・技・体の調和を旨とする。いずれかに偏った生徒も多い中、こいとが心技館随一の使い手になっているのは、真摯な修行の中で三つの調和を体現しているからだろう。
「ありがとうございます。誰にも負けないつもりで鍛えてますから」こいとは自信ありげに笑ったのも束の間、すぐに表情がぎこちなく固まった。「あ、でも…… お師匠様に評価して頂くなら、やっぱり正当な果し合いを見てもらいたかったですね」
「ああいう挑戦は多いの?」
「ええ」
 こいとは嘆息まじりに教えてくれた。彼女は毎日、認可・未認可を問わず多数の挑戦を受けている。礼を重んずるこいととしては認可済の果し合いを何より優先したいが、抜刀して迫る相手がいれば一介の剣士として応じるようにしていると。
「勝負すること自体は苦ではありません。私だってまだまだ強くなりたいし、その切欠をくれる挑戦なら何度でも受けます。本当はさっきみたいな騒ぎは好きではないんですが…… 向かってくるのであれば、その意気を評価して返り討ちにします」
「みんなに胸を貸してる訳だ。本当に大変だね、こいと」
「……どうせ私が戦いを避けたら、それを理由に自分が勝ったんだと触れ回るでしょう。さっきの不良だって、わざと人目を集めて私が断れないようにしてました。そんなことをしなくても、礼儀を知らない相手に背中を向けたりはしません」
 こいとは湯呑をぐいと呷って箸を進める。私は少し考えてから言葉をかけた。
「こいとは、ゆっくり休憩する時間を取れてる?」
「休憩、ですか?」
「うん。今みたいに静かにお昼を食べる様な時間が、他に取れてるのかなって。余計なお世話かも知れないけど、こいとはすごく忙しそうだから」
 彼女は意外な言葉を聞いたというようにキョトンとした後、ふっと笑って見せた。
「気にかけてくださってありがとうございます、お師匠様。もちろん十分な休息は取っていますからご心配なく。それにさっきの相手が言ってた『常在戦場』という言葉にも一理あると思います。いつでも戦える心構えというのは必要ですよね」
 こいとがそう言うなら、私が踏み込む話ではないのかも知れない。今は、まだ。
「あ、でも。未認可の挑戦者が多いというのは、今日お師匠様に来て頂いた件と関連しています」
「それは?」
「……まず、現場まで来て貰えれば」



 ホテルの様な高階層に厳めしい屋根瓦を構えた心技館の本館は、まるで戦国時代の城を思わせる。広い敷地のあちこちから剣戟の音や叫び声が聞こえるのは、正式な修練か、認可済の果し合いであると思いたい。
 正面玄関を潜れば、豪華旅館さながらの広いエントランス。それでいて華美な印象は少なく、飾られているのは刀剣武具の数々に、剣の心得を表す書道。生徒たちの一本気な性質を表すような武骨さが漂っている。無数の刀傷が残る柱には、今なお新しい切れ込みを見つけることが出来た。

「お師匠様は、何度か本館にお越しになってますよね?」
「うん。心技館のみんなも色々な相談をしてくれるからね」
「では…… ここに何が飾っていたか、分かりますか?」
 こいとが示したのは、ホールの奥まった一角にある展示スペースだった。記憶を辿るのは難しくない。
「甲冑、だよね?」
「はい」
 そう、以前に訪れた時、ここには戦乱の世を思わせる勇ましい甲冑が鎮座していた。しかし今は無い。展示スペースにはどうにも落ち着かない不自然な空隙だけが広がっている。
「昔の様式に似せたレプリカなんですけど、当時の資料から素材や工法を忠実に再現した、立派なものでした」
 
 こいとは語る。その日、彼女は認可済の果し合いが行われる場所へ急いでいた。無法な挑戦者たちの相手をしていたせいで、時間の余裕が無くなっていた。すると突如として、通路の傍らに飾られていた甲冑が動き出す。
「葦原津守、覚悟ッ!!」
 わざわざ甲冑をまとい置物のフリをし、標的が通るまでひたすら待ち続けての奇襲。その不意打ちは、焦りの中にあったこいとをさらに動揺させるのに十分だった。彼女が咄嗟に行った反撃は、真っ向唐竹割り。挑戦者は苦労の甲斐なくただ一太刀であられもない姿を晒すこととなった。

「私のミスで、寮の備品を壊してしまいました」
 案内されたのは、普段は使わない行事ものや季節ものをしまっておく物置。埃と蜘蛛の巣を払った一角に甲冑を収める鎧櫃が安置されており、隣にはこんもり膨らんだ防塵カバー。肩当てや手足の防具は鎧櫃にしまわれているらしい。
 カバーをつまみ上げて覗けば、見事に真っ二つになった兜と胴体部分がある。レプリカとはいえ、凄い技量だ。
「鎧の隙間を狙うべきでした。刀で甲冑を相手にするなら、それが定石。動揺して固い兜に打ち込むなんて…… 私もまだまだ修行が足りません」
 こいとの表情は暗い。数多の生徒が成し得ないことを達成している筈だが、両断された甲冑はむしろ彼女の中で失敗の象徴になっているのだろう。
 たゆまぬ努力で磨いた技が、望まぬ形で発揮されてしまう。ルール無用の心技館で正道を貫こうとする、こいとの日々の苦心は察するに余りある。
「そんな奇襲で驚かない人はいないよ。こいとならもっと高みを目指せる。自信を持って」
「……はい」
 私の言葉が少しでも彼女を支えられることを祈るしかない。今は話を進めよう。
「連絡してくれたのは、この甲冑のこと?」
「……ええ。お師匠様には、この甲冑を修復して貰えるような職人を探して頂きたいんです」
 なるほど。
「製造元は?」
「心技館の寮区にあった工房です。古い武具についての専門的な技術があったそうなんですが……」難しい顔つき。「経営が苦しく後継者もいなくて、すでに廃業したと」
 他にも心当たりのある骨董屋などを回ってみたが、結局、区内では本格的な甲冑を手がける職人や工房が見つけられなかったという。
「他の寮でも詳しく探してみたいのですが、果し合いの約束が何件も入っていまして」
 そこまで広範を探すとなると、こいとでなくとも一学生に割ける時間は無いだろう。生徒が力を尽くしたなら、師である私が応えなければならない。
「それは、本当に……大変だったね」
 ただ彼女の依頼を受ける前に、一つだけ確認したいことがあった。どんな形でこいとを手伝うかは、その内容次第である。

「もうひとつ、修復の経緯について教えてもらっていいかな?」
「はい、何でもお答えします」
「こいとは寮の運営には関わっていなかったよね? 甲冑の破損については、こいとがしなきゃいけない仕事じゃないと思うんだけど」

 話を聞きながら気になっていたところだ。誰かが寮の備品を壊したところで、その修復や補充については備品管理係の仕事の筈。仮に「事故の当事者として責任を負うべき」という判断があったとしても、甲冑を不意打ちに利用した相手生徒もいることだし、こいとが一人で苦労をしなければならない道理はない。
「そ、それは」
 こいとは返答に窮しているようだった。私の中には、彼女が不当に甲冑の始末を押し付けられたのではないかという疑念がある。剣においては心技館最強の座を譲らぬこいとだが、巨大な寮ゆえに外部からは見えない力関係があったとしてもおかしくはない。
「もし、こいとが甲冑のことを押し付けられてるなら……」
「い、いえ、そういう訳ではありません!」
 こいとは深呼吸を一度してから、言葉を選ぶ様子で少しずつ教えてくれた。
「……えっと、まず、私が不本意に甲冑の始末を任されている、という経緯ではないことをお伝えします。それは、本当です」
 本当です、の部分は私の目を見てしっかりとした口調で告げた。
「むしろ寮としては、この件は特に重要視していない様です。ここでは調度品は基本、消耗品と考えられていますから。今まで無事だったのが奇跡だと」
 常にどこかで剣閃煌めく心技館、形ある物はいつか壊れる。諸行無常を体現しているようだ。

「次はプラスチックの甲冑でいい、壺でも置いておけばいい、程度に言われてまして…… そこで私が備品係に無理を言って、甲冑について任せて貰えるよう頼んだんです。と、当事者として…… いえ、私の個人的な動機と言いますか…… とにかく、甲冑の修復をしたいのは、私自身の希望なんです。……結果的に力及ばず、お師匠様に来て頂くことになったのは、申し訳ないのですが……」

 普段のハキハキした態度とは打って変わった、たどたどしい説明だった。しかしこれは私の直感に過ぎないが、こいとは彼女らしく誠実に事を伝えようとしてくれており、そこに嘘は無い。私はいらぬ邪推をしてしまったようだ。
「……わかったよ、こいと。こいとが嫌なことをさせられてるんじゃなくて良かった」一人の生徒の希望であれば、応じない理由など無い。「師匠として、こいとの頼みを請け負うよ。ここからは私に任せて。甲冑は必ず修復してもらうからね」
「……! あ、ありがとうございます!」
 こいとは一瞬だけ安堵の表情を見せた後、背筋を伸ばして綺麗なお辞儀をした。

 それから数分後。私の手には、こいとが持って来てくれた一冊のファイルがある。
「ありがとう、こいとの頑張りは絶対に無駄にしない」
 断ってから、中身にざっと目を通す。こいとが心技館で甲冑について調べた資料である。
 最初に在りし日の甲冑の写真。全体像から、兜に胴、籠手に臑当。様々な部位が、様々な角度と距離から撮影されている。「見所」と題して装飾部がアップになった写真も数点。添え付けの資料には、甲冑の素材や造り方についてだろうか、一読しただけでは解からない名詞の数々。さらに元となった甲冑を着ていたとされる武将の生涯について。
 そして工房を探して心技館の寮区を歩き回った記録。店内に甲冑を飾っている骨董屋、縁起物の衣装を貸す写真スタジオ、先祖伝来の甲冑を安置しているという剣道場、郊外にある時代劇テーマパーク等々。写真撮影できた場所は限られている様だが、それぞれの甲冑の端的なレビューが記されている。「国宝級、眼福」「レプリカだが質高し」「保存環境悪し」「プラスチック製、コスプレ用」……
 ちらりと見れば、こいとは防塵カバーを持ち上げてじっと甲冑に視線を注いでいる。
 彼女の目に宿るのは後悔だろうか? いや、それだけではないように思えた。曇り無く甲冑を映すその瞳には、どこか熱がある。それは私自身にも覚えがある類いの熱だ。私の中で合点がいった。

「甲冑、好きなの?」
「あっ!? い、いえ、そういう訳では……!」

 こいとは今度こそ慌てふためき、首と手をぱたぱた振って否定を示した後、自身の大袈裟な反応に「しまった」と言うような表情をして、両手で顔を覆ってしまい、暫くしてから「……はい」と頷いた。手を下ろした彼女は、初めて見る顔をしている。
「そ、そうですね。見入ってしまうというか…… 憧れるというか……」
 寮の備品という以前に、こいとには個人的な思い入れがあったということだ。そんな大好きな甲冑を自分の手で壊してしまった苦悩はどれほどだろう。私も趣味の品を自分のミスで破損させたことが何度かあり、その後悔は未だ拭い難い。
 しかし幸いと言うべきか、この時のこいとは甲冑の件よりも私の方を強く意識しているようだ。視線を泳がせながらもこちらを窺う目は、何かを訴えかけるような、それでいて自分の衝動を抑えようとしているような。わかる、わかるよこいと。
「もしこいとが嫌じゃなかったら…… 甲冑のどんなところが好きなのか、教えてくれる?」
「えっ!? えっと、それは……」
 目をあちこちに泳がせる彼女の様子は、普段の堂々とした立ち振る舞いからは想像もできない。その内側には「黙っていろ」と「話してしまえ」の深い葛藤があるのだろう。たっぷり数秒は挙動不審に身じろぎした後、こいとはおっかなびっくりという様子で口を開いた。
「……その、格好良くて、奥が深いところ、でしょうか。見た目がいかにも華やかで強そうで、それを着る武将の権勢を表すと同時に、実戦の為の機能美を追究していたり…… それも、時代によって技術や様式がいっぱいあって……」

 カピラの生徒は誰しも刀を持っているが、それは武具・武術や戦史への興味が一般的であることを意味しない。刀は武器としての歴史(あるいは本質)から分離され、単なる学習教材の一つとして捉えられている場合が殆どである。それは体育会系の色濃い心技館においても同じであり、最低限の実用に関する知識以外は、専門家の領分と言える。
 その分け方で考えれば、こいとはまさしく専門家──あるいはマニア──と呼んでいいのかも知れない。

「なるほど……こいとが甲冑に詳しいなら、私にもちょっと基礎知識の様なことを教えてほしいな。修復を依頼する時に必要になるかも知れないし」
「えっ!?」
 短い間に何度も驚かせてしまっている。しかし甲冑について語るこいとの口元は、抑えきれない喜びに吊り上がっているのだ。今は踏み込む時だと私は確信していた。
「で、でも私だって、本とかで読んだことしか分かりませんし…… 入門書のようなものなら、紹介できますが…… そう、今渡した資料も見て頂ければ……」
「ありがとう、帰ってからきちんと勉強するよ。でも最初はまず、知ってる人から概要だけでも教えて貰うと入りやすいかな」
 何秒かの迷いを見せたあと、彼女は決意の顔つきに変わった。
「……わ、わかりました!」
 こいとは跳ねるように素早い動きで、兜を守る防塵カバーをぱっと取り払ってしまう。
「た、例えばですね。この鎧は、まあ私が割ってしまったんですけど、お師匠様もテレビとかで見たことがあるんじゃないでしょうか。前立の形がすごく特徴的ですよね。この兜はかの有名な……」
 彼女の口から流れ出てくるのは、私が聞いたこともない人物名や専門用語の数々。時代毎の製造方法の変遷、細かな部位名称、使われた素材、着用した武将の生涯……
 早口気味なのもあって、その話を一聴しただけで正確に理解するのは困難だった。それでも常になく頬を上気させて語るこいとを見られるだけで、私にとっては心地よい時間となった。

 こいとの講義に一区切りつく頃には、時計の長針がほぼ一周していた。
「えっ、もうこんな時間ですか!? ご、ごめんなさい、お師匠様。私、どうでもいいことを長々と……」
 普段の堂々とした佇まいが嘘のように、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。私は首を振る。
「そんなことないよ。私の方が師なのに、色々なことを教えてもらえてすごく為になった。甲冑には奥深い世界があるんだね」
「は、はい……」
「それに修復を依頼するのだって、知識があるのと無いとじゃ私の拘りも違ってくるからね。とても参考になったよ、ありがとう」
「そう、ですか?」こいとは窺うような様子だったが、すぐに私の言葉を受け入れてくれた。「……お師匠様のお役に立てたなら、幸いです」
 何か固いものが解れた様な、そんな笑顔。ここまで見せてもらったのだから、私も応えなければいけない。
「任せて。こいとが大好きな甲冑、必ず修復して持って帰ってくるよ」
「はい、よろしくお願いします!」
 
 その後、こいとの次の果し合いの時間が近くなったため、ひとまず解散となった。
「頑張ってね。応援してる」
「正当な果し合いなら、一日中でもこなしますよ」
 走ってゆく彼女の足取りはどこか軽やかで、視界の端でさっそく未認可の挑戦者が襲って来たものの、立ち止まりもせず大太刀を一閃して返り討ちにしていた。
 館内にはあちこちに簡易制服が置いてあるので、公序良俗の問題はないだろう。私は甲冑を陸音館まで持ち帰るため、方々に連絡を入れた。 



 後日、私は大きな荷物と数人の同行者を伴って再び心技館を訪れた。
 本館ロビーにはちょっとした人だかりが出来ている。前もって連絡しておいたこいとに、何事かと足を止める通りすがりの生徒たち。
 同行してくれた職人たちが箱を開き、中身を組み立てると軽く歓声が上がった。艶やかに室内灯の光を返すそれは、まさしく以前そっくりに修復された甲冑である。兜と胴にうっすらと残る縦一直線の筋は、そうと知って注視しなければ気付くことはないだろう。
 今度は展示台の前にベルト状のパーテーションを設置したが、これだけで自由奔放な生徒たちを止められる筈はない(ガラスケースなどで覆えばかえって怪我人が出る可能性もある)。ともすれば今日にでも再び破損しかねないのが心技館という寮であるが、それでもこいとと私にとって、甲冑が修復されたこと自体に意味があるのだ。
 やがて多くの生徒たちが興味を失ってまばらに去ってゆく中、こいとはずっと甲冑を見つめ続けていた。
 真摯に剣の道を追究する真面目さと、その真面目さゆえに望まぬ果し合いを強いられる負担。いつも口をへの字にしている彼女が、この時ばかりは目を輝かせて満面の喜びを浮かべていた。

 こいとの依頼を果たすには少し時間がかかった。多くの生徒たちの相談に応じる傍ら、様々な寮区で甲冑修復の心当たりを訪ねる。あちこち歩いて訊き回り、ようやく見つけたのはカピラでも外側にある小さな寮区の郊外。人目を憚るように林の中に建つ工房だった。
 訪ねてみれば、ここは心技館の工房から独立して出来たのだという。その経緯は穏やかではなかったらしいが、私が興味本位に聞く話ではない。まさしく甲冑を手がけた本人である職人頭は、二つになって自分を追いかけてきた兜を手にして、懐かしそうに目を細めていた。

 
 心技館に甲冑を返してから数時間後。私は時代がかった板葺き屋根や茅葺き屋根の民家を眺めながら、こいとが出てくるのを待っていた。
 ここは心技館寮区の郊外にある時代劇テーマパークだ。敷地内には中世から近代までの町並みが時代毎に再現されており、日によっては忍者や武士に扮した役者たちがショーを演じて観客を楽しませる。時おり映像の世界を志す生徒たちが他の寮区からもやって来て、自主制作映画を撮っていたりするらしい。
 私としては、そもそもカピラの大半が歴史を強く感じさせる景観であるために、このような作られたセットにどこまで需要があるのか疑問だったが…… 案外と客足は多いようだ。帯刀した生徒たちが伝統衣装を着て行き交う光景は、本当に封建時代にタイムスリップしたかと思わせてくれる。
 ガチャガチャと物々しい足音が聞こえて、私は振り返った。

「お、お師匠様…… に、似合ってますか?」

 そこに立っているのは、小柄な戦国武将──黒い甲冑に身をつつんだこいとだった。
「すごい、似合ってる! 格好いいよ、こいと!」
「そ、そう、です、か?」
 こいとは顔を真っ赤して俯いたが、口元を覆った手からは笑みが覗いている。
 私は思うままの偽りない感想を述べたつもりだ。兜から溢れる豊かな赤髪が黒い鎧とコントラストを生じ、勇壮な印象を醸し出している。剣に精通している為か、大太刀を手にした姿勢の良い立ち姿も実に様になっていた。甲冑だけ見ても、さすがに単体で美術品となるような物より格は落ちるが、こういった施設でレンタルされるものとしては雰囲気が出ている。
「後は表情だね。ほら、いつものこいとみたいにキリッとして」
「え、えへへ」
 ずっと照れ笑いをしている彼女を見ると、やはり来て良かったと思える。
 こいとに甲冑修復の経過報告をし、雑談する中で出た話だ。甲冑鑑賞を趣味とする彼女だが、これまで自分自身で着用したことはないという。こいとが調べた中でもそういったサービスをしている施設はある筈だが、踏み切れないらしい。
(知識の一環として興味は無くもないですが…… 着るなら多少は良いものにしたいですし、そうなるとけっこう値段が……)
 ならばと、私はこいとの資料にもあったテーマパークに誘ってみた。それらしい風景の中で、甲冑のレンタルに、乗馬体験つき、プロのカメラマンによる写真撮影。なるほど、学生には決断が必要な額だろう。
 こいとは固辞したが、私はゴリ押しした。甲冑両断事件は彼女にとっては失敗経験であり、心技館にとってはよくある美品の破損かも知れない。だが剣を通じて人を育成するカピラであれば、こいとが成し遂げたことは間違いなく一つの偉業であり、正当な評価を受けるべき努力の証明だ。なお驕ることなく研鑽を続ける彼女に、師である私が報いなければならない。
 朗らかに笑いながら自分の姿を見回すこいとを見れば、その判断が間違いではなかったと信じられる。スタッフが撮影機材を準備し、どこからか引かれてきた馬が一頭。ここで撮った写真が、未来のこいとを支えてくれることを祈ろう。

「葦原津守こいと!」

 しかし、そこで歓迎できない声が響いた。
 見れば、いつぞやこいとに敗れた不良生徒がレンタル衣装を身にまとい抜刀している! いや、彼女だけではない。その後ろでは施設の一般客と思われた生徒たちが次々と白刃を煌めかせていた。意外に客が多いと思ったら、こういうことだったのか?
「あなたは……!」こいとは一転、表情を険しくして身構える。
「おのれアシハラ! 我々がきちんと料金を払って衣装を借り待ち伏せしているのを察し、いつの間にか完全武装とは卑怯なり!」
 不良生徒の言はよく解からないが、おそらく言いがかりに近い。施設のスタッフも慣れたもので、つい今まで撮影機材を準備していた動きを逆再生するかの様に片付けを始めている。さすがの心技館、いつどこで斬り合いが始まろうと覚悟はできている訳だ。
 ぴりぴりした闘争の気配を感じたか、馬が嘶いた。それを合図として不良生徒は刀を大上段に掲げ踏み込もうとする。その後ろにいる大勢の徒党も一斉に動き出した。
「駅前での借り、ここで返させてもらう!」
 
 勿論、そういう訳にはいかない。せめて今日この時は。

「待った!」
 私はこいとと不良生徒の間に割って入った。相手はうおっと声をあげてつんのめり、さらに後ろからぶつかってくる味方ともども一斉に転げた。
「お師匠様!?」
 背後からこいとの緊張した声が聞こえる。私は起き上がろうとする不良生徒たちから視線を離さない。
「君たち、認可は?」
「なんだお前は!? 関係ない奴は引っ込んでろ!」
 体勢を立て直し、刃を突き付けて凄む不良生徒に、別の生徒が耳打ちした。「まずいっすよ、こいつは……!」

「私は陸音館に務めている者だ。葦原津守こいとと、君たちの、師匠だよ」

 不良生徒はぽかんと目を丸くした。その後ろから次々とささやき声が聞こえる。「あれが噂の?」「初めて見た」「ヤバい大人だって……」
「師として、君たちに確認したい」私は精一杯に重々しい声を出し、威厳が宿ることを祈った。「まず、こいとと決闘するための挑戦状を提出して、認可を受けた?」
「そ、そんなもの、出してる訳ないだろ! まどろっこしい!」
 予想通りだが、本人確認はすべきだ。
「それなら、こいととの果し合いは認められない。刀を納めなさい」
「冗談じゃない、こっちはもうやる気満々なんだ! カピラじゃ剣は勉強と同じ! 師匠のくせに、生徒の自習を邪魔するのかよ!」
 そう、心技館の生徒たちはある意味でみんな勉強熱心だ。だけど生徒が学ぶべきは勉強だけじゃない。

「君たちに意欲があるのは認めるよ。でも、他人を顧みない意欲は暴力にも繋がる。休みたい時間、自由な時間を、誰かの都合で失い続ける大変さを考えてみて」
 自分で口にしておきながら、果たしてそうだろうか?という疑問が頭のどこかにある。こいとは果し合いの規則を重んじはするが、挑まれれば背を向けず戦うと言っていた。その姿勢が彼女の強さを支えているという見方もできる。私は師として無作法な行為を諫めているつもりだが、こいとにとっては余計なお世話かも知れない。
 しかし思い上がりでなければ、こいとはこのパークで過ごす時間を心から楽しんでくれている。おそらく多くの生徒に明かしていないだろう自分の趣味に没頭することで、日々溜まってゆくものを発散しようとしている。その機会が失われようとするのは決して見過ごせない。

「それに、こいとも君たちもレンタルの服を着てる。このまま勝負になったら、パークに迷惑がかかるよ。弁償沙汰になるかも」
 何人かが自分の恰好を見て狼狽し始めた。可哀想だけど、学生にお金の話は効くようだ。使い捨てのように制服が散りゆくカピラだが、着るものはもっと大切にしてほしい。
「なら、どうしろっていうんだ! あたしらは熱い闘志で今にもはち切れそうなのに!」
 先頭の不良生徒はやはり手ごわく、脱いでからでもかかって来そうな勢いだ。
「繰り返すけど、まずは挑戦状を出してこいとの同意を貰いなさい。でも今は立て込んでるから、それも後の話になる。戦意が湧いてどうしようもないのなら、寮の道場で相手を見つけたり、素振りをすればいい。瞑想して心を落ち着けるのも修行になるよ」

「ああもう、まどろっこしい!」

 不良生徒もさっきの言葉を繰り返した。さっきと違うのは、いよいよ目が据わって忍耐が限界を迎えようとしていることだ。
「剣士の心は常在戦場、戦いたい時に戦い、挑まれれば迎え撃つべし! アシハラ、勝負ッ!」
 彼女は刀を高く振り上げて突進して来る。私は両手を大きく広げて、覚悟を決めた。
 ここを動くつもりはなかった。生徒を守ることも、生徒の過ちを受け止めることも、きっと師匠としての責任だ。
 だけど、不良生徒は足を止めた。何かに竦むように顔を強張らせ、その視線は私の頭より上に向けられている。
「お……お前! それは卑怯だぞ!」
 振り向いた私の顔に馬の鼻息が吹きかかった。見上げれば、遥かに高いところからこいとが私を見下ろしている。甲冑を身にまとい撮影用の馬に跨ったその姿は、まさしく遠い昔に戦場を駆け抜けた鎧武者のよう。完全武装と騎乗により圧倒的優位に立ったかと思えた彼女は、しかし大太刀を抜いてはいなかった。
「お師匠様、逃げましょう!」
 そう言って手を差し伸べるこいとは笑っていた。私が反射的にその手を掴むと、意外に強い力でぐんと引き上げられる。馬の尻にしがみつく様にして、どうにかバランスを取りながら彼女の後ろに跨ることに成功した。
 慌てる不良生徒たちを横目にこいとが馬の腹を蹴ると、たちまち視界が流れだし、蹄の音が心地よいリズムを奏でた。
「あっ! ま、待て!」
 いくらカピラの生徒たちが鍛えられているとはいえ、徒歩で馬の速度に敵うはずはない。口々に放たれる「逃げるのか!」「臆病者!」という叫びは、あっという間に遠ざかっていった。
「す、凄いね、こいと! 乗馬できるんだ!」
 私は激しく上下に揺さぶられながら、甲冑で覆われた小さな背中にしがみつく。
「いいえ、今日が初めてです! 映画とかの見様見真似です!」
 唖然とさせられるその返事は、実に楽しそうな声音を伴っていた。
 右に左に角を曲がると、その度に町並みのロケーションが変わる。中世、近世、近代。色々な時代の撮影に対応している様だ。
「逃がすな!」「そっちに回ったぞ!」
 時おり建物の影から不良生徒の仲間が飛び出してくるが、相手にせず全て突っ切る。刀、空き缶などのゴミ、なんやかんやの小物が飛んできても、全てを無視して縦横無尽に駆けてゆく。
「あはははは!」
 こいとは本当に楽しそうに、笑っていた。

 日が傾く頃、馬は走り回った挙句に駐車場すら飛び出して、近くの造成林のたもとで止まった。
 もう追手は見えない。遠くサイレンの音と赤色灯の光が施設の方に消えていったので、じきに捕り物が始まるだろう。
 臀部と腰に少々の負担を感じるが、私が先に降りて、甲冑をまとったこいとが下馬するのを手伝った。甲冑に傷はついていないと信じたい。
「あーっ、面白かった」
 こいとは兜とその下の頭巾を脱ぎ去り、軽く頭を振る。珠の様に汗が散る中、彼女は屈託のない笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます、お師匠様。こんなスッキリしたのは久しぶりです…… 初めて巻き藁十本いけた時ぐらい」
「あはは、こいとに楽しんで貰えたなら嬉しいよ……」
 私としてもなかなかにスリリングな体験だった。心技館に来るたび何かしらの騒動を目の当たりにするが、今日ほど興奮したのは初めてだ。しかし考えなければならないことはある。
「でも、ごめんね。私のせいで逃げることになっちゃって」
 そう、こいとがあの場で逃げを打ったのは、乱戦になった時の私の身を案じてのことではないだろうか。背中からかけられた罵倒の数々は、彼女が望むものではなかった筈だ。
 優しく馬の頭を撫でるこいとが振り向いた。

 その時、少し強い風が吹いて、こいとの髪が舞い上がった。
 空はオレンジ色に染まり、山の稜線に太陽が沈んでゆく。漆黒の鎧をまとったこいとは、この日最後の光に照らされながら、柔らかな微笑みを向けてくれた。その光景は私の記憶に強く焼き付き、きっと幾年を経ても思い出すことが出来るだろう。
「謝らないでください。お師匠様が心配だったのは本当ですけど、私も逃げてしまいたかったんです」
 穏やかに紡がれる彼女の言葉には、何の取り繕いも感じない。
「今日はお師匠様に甲冑を修復して頂いて、こんなところに招いて貰って…… それに、私のことを守ってもらって」
 こいとの頬が少し上気しているのは、激しい運動の後だからか。
「こんなに嬉しい気持ちになってるんだから、果し合いなんて別にいいかって思ったんです。刀を抜いてる暇なんてありません」
 夕日を受けるその瞳は、潤んでいる様にも見えて。
「甲冑を着て、お師匠様と一緒に馬に乗って、走り回って。ただ写真を撮るよりずっと楽しかったですよ。本当に、ありがとうございます。お師匠様」

「……それなら、良かった。こいとが喜んでくれたなら」
 私が返せた言葉はそれだけだった。胸の中を深い充足感が満たしている。もうお互いに、それ以上の言葉は必要ないように思えた。

 やがて空に星が浮かぶ頃、施設のスタッフが私達を探しに来た。不良生徒たちは逃げるなり捕まるなりして、事態はもう落ち着いたらしい。
 迷惑をかけてしまったことを詫びたが、「私たちも興奮しました。迫力ありましたよ」と好意的な返事を頂いた。甲冑についても多少のことは大目に見てくれるとのことで、こいとと二人でホッと安堵した。
「明日は四件あります。認可済ですので、思いっ切りやります」
 そんな会話をしたのは、夕餉の席。
「頑張ってね、こいと」
「はい!」
 認可済みの果し合いであれば、師としてどちらかの肩を持つことは出来ない。生徒たちみんなが全力を尽くせることを応援するのみだ。
「あの子たちがもし、『アシハラは逃げた』なんて吹聴してても……」こいとは拳を突き出した。「私の強さは、何度でも証明できますから」
 その自信に満ちた顔を見れば、信じられる。風評などものともしない、彼女の強さを。

 後日、陸音館に写真が届いた。
 差出人はあのテーマパーク。写っているのは勇ましく馬を駆るこいとと、その背中にしがみ付く私である。騒ぎの中でしっかりと撮影されていたらしい。
 同封の文書は、この写真を施設の広告として使用していいか問う内容だった。私は少し考え、返答を書き始めた。



心技館
心技体の調和を理想とする体育会系の寮

プロジェクトKV ティザーPV

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