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開催日割の変遷② 1988~1991年

秋競馬が始まり、中山競馬が楽しくて仕方ありませんが、この時期に中京で開催されているのは違和感しかないですねぇ。それもこれもJRAがヘンテコな開催日割にしたせいなのですが、まぁ来年の初春競馬の日割も分かりませんし、京都競馬の振り替えを予め決めていて、それに合わせて今秋の開催日割を決めているのであれば致し方ないと思います。

ホント私の好きな京都競馬がどのタイミングで行われるかくらいは事前に知りたいのですが。菊花賞だけは是が非でも開催するのか、天皇賞・春までやるのか、それとも全て終わるまで開催しないのか、早く教えてください。残りの人生が掛かっているのですよ私は。

1988~1991年の開催日割

愚痴を吐いたところで、さっそく続きを見ていきますが、今回は88年から91年までです。なぜ中途半端な年数になったかと言えば、Excelで作った際に4年毎にしたからです。私のPCで作業しながら4年分全てに目が通せるちょうど良いサイズなんですね。それだけです。すいません。

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前回も述べましたが、開催日割は左から開催回数開催競馬場開催日数となります。1東京6なら、第1回東京が6日間行われた事を示します。赤字部分は前年から変更された部分で、例年通りに戻す場合はそのまま黒字としています。表の下記の数字は競馬場別の年間開催日数ですね。JRAが発表している開催日割と同じ様な形にしときました。こちらの赤字は開催日数が前年比で減少青字は増加している事を示しています。そのため、表で赤字があっても、年間開催日数が変わらなければ黒字となっている点に留意して下さい。

1988年

さて、多数の大きな話題がありました88年は、タマモクロスとオグリキャップの活躍が特に注目されました。前年12月の鳴尾記念で初重賞を果たしたタマモクロスは金杯(西)から阪神大賞典、天皇賞・春、宝塚記念、天皇賞・秋と連戦連勝を続け、ジャパンCと有馬記念では2着という素晴らしい成績を残しました。その時の相手がオグリキャップで、笠松から移籍してきた地方の雄はペガサスSから毎日杯、京都4歳特別、NZT4歳S、高松宮杯、毎日王冠とこちらも連戦連勝の快進撃を見せ、天皇賞・秋ではいわゆる『芦毛頂上対決』と話題になりましたが、天皇賞・秋、ジャパンCで2,3着と、わずかにタマモクロスに届かず、やっと有馬記念で雪辱を果たしました。

また、栗東トレセンの坂路コースが完成されたことに伴い、東高西低が逆転したのもこの年ですね。この年以降、年間勝利数で関東馬が上回った事はないそうで、GⅠでも関西馬は15レース中11勝(関東馬3勝、外国馬1勝)という活躍を見せます。その影響かどうか分かりませんが、武さんがバカスカ勝ちまくって、史上最年少でGⅠを制覇したのもこの年でした。ただ、年に2回もGⅠで失格になっています(皐月賞マイネルフリッセ、有馬記念スーパークリーク)。若かりし頃は荒々しかったのでしょうか。

開催日割は中山競馬場の馬場改修工事に入ったため、春の第2回、第3回は東京、秋の第4回は新潟に振り替えられました。その影響で7月の第2回新潟は福島に振り替えられていますが、東京競馬場は1月の終わりから6月中旬まで32日間連続で開催をするという暴挙はどうなんでしょう。さすがに秋は新潟に振り替えていますが、それなら3月の第2回中山を新潟で開催すればトライアルは新潟、本番は東京、京都と分けられるでしょうに。

まぁ当時は新潟は広くありませんし、大事なクラシックの前哨戦をローカルでやるのか!って意見が出てもおかしくないですからね。弥生賞(新潟 右回り2000m)って違和感しかありませんし。というかこの時代は、ローカルと中央四場の扱いの差が酷い気がします。

重賞は100R、GⅠは15R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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きさらぎ賞はここから数年2000mが続きます。中山競馬場の改修工事に伴う振り替えで、12Rが東京または新潟に振り替えられています。関屋記念はそれに伴う玉突きによる振り替えです。

1989年

89年はオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンによる平成三強の戦いが有名な年です。競馬の歴史の教科書に出てきそうな名称ですね。前2頭が故障で春競馬を離脱するなか、地方出身のイナリワンが武さんを背に天皇賞・春をレコード勝ちし、宝塚記念も快勝して名声を高めます。秋に復帰したオグリキャップはオールカマーをレコード勝ちし、毎日王冠でイナリワンを撃破しますが、天皇賞・秋ではスーパークリークの2着と敗れ、その後の怒りの連闘によりマイルCSを辛勝、ジャパンCで世界レコードタイの2着と一定の結果を残します。スーパークリークも秋の復帰初戦の京都大賞典をレコード勝ちし、天皇賞・秋ではイナリワン、オグリを抑えて優勝しますが、ジャパンCでは3馬身差の4着、有馬記念ではレコードで走るもイナリワンのハナ差2着に敗れました。これらの戦いは記録にも記憶にも残る素晴らしいものだったと思います。

騎手では、前年に史上最年少でGⅠを制覇した武さんは最年少、最速記録を次々と塗り替え、133勝で初となる全国リーディングに輝きます。GⅠは桜花賞天皇賞・春宝塚記念天皇賞・秋の4勝を挙げました。

また、この年は1/7の昭和天皇の崩御に伴い、同週の中山、京都競馬は延期となりました。延期に伴い、1/13~1/16まで4日連続開催となりましたが、これは史上初の出来事でした。調教師の定年制が導入されたのもこの年で、8名が勇退された。当時は70歳以上の調教師が多かったので99年まで移行期間とされましたが、個人的には一定の成績を収めた調教師は定年を延長した方が技術継承に資するかと思います。

あとは何か記録があったかな・・そうそうダービー馬は初の茨城県産初の芦毛であるウィナーズサークルでした。エリザベス女王杯では最低の20番人気のサンドピアリスが優勝しましたし・・それくらいでしょうか。

開催日割は福島競馬場の馬場改修工事に伴い、第1回福島は新潟に振り替えられました。また、札幌競馬場の芝コース新設に伴い、第2回札幌を函館に振り替えています。札幌は外回りのダートコースをグルッと一周、芝を植えて行くわけですから、そりゃ丸一年はかかりますわな。というか、札幌の芝コースは意外と歴史が浅いですね。函館はともかく、札幌の冬を越えられる芝の開発はそれだけ難しかったという事なんでしょう。

重賞は100R、GⅠは15R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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3Rが福島から新潟に振り替えられていますね。札幌記念は芝コース新設に伴い、ダートでの施行はこの年が最後となりました。札幌3歳Sは前述とおり、芝育成のため函館に振り替えられています。

1990年

90年の日本競馬は一大ブームを巻き起こした年として知られています。そりゃそうでしょう。オグリキャップと武豊、これだけ知ってれば話が通じた時代ですから。前年から続くかと思われたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンの戦いは、スーパークリークとイナリワンの怪我によってわずかしか見られませんでしたが、その分、オグリの人気は凄まじいものでした。なんたってJRAが現役続行を打診したと真しやかな噂が流れるくらいでしたからね。

スーパークリークは大阪杯で後の宝塚記念馬オサイチジョージを、天皇賞・春でイナリワンを退けて優勝しますが、その後に筋肉痛で宝塚記念、凱旋門賞を回避し、秋初戦の京都大賞典で復帰します。しかし、京都大賞典を快勝後、左前脚の繋靭帯炎を発症し引退となりました。イナリワンは62キロを背負った阪神大賞典で5着、天皇賞・春ではスーパークリークの2着、宝塚記念では1.1秒差の4着に敗れ、その後は脚部不安でこちらも引退となります。

オグリキャップは春の体調が芳しくなく、予定がズレ込み安田記念で復帰します。この時の鞍上が飛ぶ鳥を落とす勢いの武さんでした。レースではさすがの競馬を見せ、レコードで快勝し、通算獲得賞金が歴代1位を記録しました。宝塚記念ではオサイチジョージを捉えられず2着となりますが、レース後に両前脚に骨膜炎、その後に右後脚に飛節軟腫を発症し休養に入ります。

天皇賞・秋を目指すも次々と脚部不安が発覚して調整が遅れ、辛うじて出走できたものの6着に敗戦。続くジャパンCでも11着と大敗しますが、それでも引退しない馬主やJRAに脅迫状が届く事件まで発生します。その後、限界説が唱えられていたオグリでしたが、有馬記念で引退、鞍上は武豊が発表されるとファン投票で14万を超える得票数で1位に支持され、それに応えるかのように有馬記念に勝利します。その時のオグリコールはまさに観衆が一体となった感謝の言葉となってオグリに降り注ぐのでした。

これが同年の一番大きな出来事ですね。30年が経った今でもファンの間で語り継がれるレースと光景なんてなかなかありませんよ。こういう競馬を提供するのがJRA騎手調教師馬主に課せられた使命だと思うのですが、どうも昨今の関係者は数字しか見ていないようで、それが非常に残念で悲しくてなりません。どれだけ頑張ってもアーモンドアイにこのような感謝のコールは向けられないと思いますよ。理由は分かりますよね。

その他の出来事と言えば、スプリンターズSがGⅠに昇格しましたね。開催時期も12月に有馬記念の前週に移動し、スプリンターの大目標となりました。それから4月からマークカードが導入されましたし、岡部騎手がダイヤモンドSを4連覇したのもこの年でした。

開催日割は阪神競馬場のスタンド、馬場改修を含む全面改築に伴い、第5回阪神が京都に振り替えられ、その分、第3回京都を阪神に振り替え第4回阪神を中京に振り替えられました。この頃から阪神、京都を振り替える場合は中京だったようです。ゴール前に上り坂が設けられたのもこの時でした。それから同年は新潟競馬場も馬場改修工事を行っており、第1回新潟は福島に振り替えられました。ここは前年と入れ替わりですね。

重賞は100R、GⅠは1R増えて16R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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前年に札幌競馬場に芝コースが新設され、芝の育成も完了したので、同年から芝コースでの開催が始まりました。札幌記念と札幌3歳Sはこの年から芝コースで施行されています。

なお、京都競馬は10月から翌年2月までの連続40日間開催するだけではなく、さらに中京の8日間を挟んで再び24日連続開催を行っており、10月から翌年6月までの72日間中64日間を京都で開催するというアホな日割りとなっています。馬場の事なんて何も考えていないのでしょうかJRAさん。

1991年

91年は昨今の競馬の基礎が出来上がってきた年とも言えますが、まずは活躍馬を見てみましょう。父シンボリルドルフに続く牡馬クラシック二冠を達成したトウカイテイオー史上初となる父子三代天皇賞制覇を達成したメジロマックイーン、朝日杯3歳Sを勝った坂路の申し子でミホノブルボン史上最強の一発屋ダイユウサクなどがいますね。トウカイテイオーは私の大好きな馬でずっと追いかけた馬ですし、マックイーンは晩成の叩き上げで応援したくなる馬でした。書こうと思えば一杯書けますが、さすがに長くなるのでここでは止めておきます。

先述した昨今の競馬の基礎というのは、主に降着制度馬連の導入であり、朝日杯3歳Sと阪神3歳Sを牡馬、牝馬に振り分けるなど路線の整備に着手した年でもあります。降着制度はそれまで加害馬は有無を言わさず失格となっていましたが、これを被害馬の次の着順に繰り下げる形に変更しました。これによりJRA側が売上を気にする事無く、積極的に走行妨害を取り締まれる事になります。ただ、導入したその年に世紀の降着劇であるマックイーン降着事件があったのが残念で悔しくてたまりません。仮に降着制度の導入がもっと早く、裁決委員がもっと成熟していれば、あの降着は無かったかもしれませんが、こればっかりは仕方ないとしか言えません。

個人的にはこの降着劇の原因となったのは江田照であり、19歳の若手騎手である彼が東京2000という特殊なコースを捌ききれなかった事が問題だと思いますね。武さんとマックイーンの通ったコースを見ると普通に通るコースですし、何より他馬より先に入っている上に急激に斜行したわけでもありません。先手を取った武さんは、セパレートのように普通にコーナーを曲がり内に何頭分か空けていたのに、先手を取られて焦って追いかけた江田照が自ら狭い危険地帯に飛び込んで、普通のコースを通ってる武さんに寄せられたと感じて自分も内に寄せた事で、後ろが詰まって大惨事になりかけたというのが事の経緯でしょう。江田照の考えは、

『ヤッバ先手取られた!付いて行かな怒られるから追いかけるで!あら?何か狭くない?イカンイカン!危ないわ!おぉい先手を取った武さん!すまんがもっと外行ってくれんかぁ!オイオイ!何で外行ってくれへんねん。危ない言うとるやろ!狭いんだから外行ってよ!危ない!危ない!しゃあない内に行くか!・・ふぅヤバかったわぁ~後ろで何か騒いどるが知らんわ。先手を取ったけど遅れて来た馬のために外に避けて内を空けてくれない武さんが悪いやろ』

という筋書きが通ってしまったんですから、武さんにとっては不運以外の何物でも無いでしょう。コーナーを曲がれば内に寄る形になりますし、そこに後ろから一頭潜り込んでくれば、それだけ内に寄せる形になるのは当然ですからね。多くの騎手は武さんが悪いと言いますが、武さんが悪いなら江田照も悪いし、武さんが降着なら江田照も降着にするのが筋ですよ。形の上では一緒に内に寄せたのですから。

そのため武さんのみを降着にした決着は、やはり問題だったと言わざるを得ないと思います。裁決委員は0か100かでしか物事を考えられない典型的な日本人の考え方のように見えました。この問題の正解は1,2着馬の降着、もしくは降着なしで両騎手に騎乗停止または過怠金のどちらかだと思いますよ。

それから馬連の導入は悪しき単枠指定の弊害を排除するために生まれたものです。そもそも主催者側が有力馬を指定する行為は主催者の予想行為とも言えますし、先に単枠指定の枠を決めてから他馬の馬番を決めていく点も公平性の観点から問題があります。というか、そもそも枠連しか無い理由が組み合わせ総数を抑えて配当を下げ、射幸心を抑える事という時点で機会損失を出しても良いという事になるので、売上大好きJRAがそれを望むとは思えないのですよ。農水省から色々な【指導】を受けたのでしょう。

個人的にはどうして馬連の導入がここまで遅れたのか理解ができません。売上が上がれば国庫に入る金も増えますし、それに当時は末期とはいえバブル期ですから、もっと早く導入していたら、それこそ湯水のように金を使ってくれたファンはたくさんいたでしょうね。

開催日割は前年に引き続き、阪神競馬場の全面改修の影響で振替が行われています。第1回阪神と第5回阪神は中京に、第2回阪神と第3回阪神は京都に振り替えられ、2~3月の第1回中京(第3場)は小倉に振り替えられています。重賞は100R、GⅠは16R、障害・アラブの重賞は10Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

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段々と現在の競走体系に変わってきましたね。ダビスタなんかでは、サファイヤS、根岸S、テレビ東京賞3歳牝馬S(現フェアリーS)はこの距離だった記憶があります。また、同じ週に行われていた阪神3歳Sと朝日杯3歳Sは牡馬・牝馬の限定戦に変更され、現在と同じ様に牡馬・牝馬路線に整備されました。ラジオたんぱ杯3歳Sも牝馬限定から牡馬・セン馬限定に変更した上で距離を2000mに延長した事で、後の出世レースに様変わりします。

なお、同年からクラシックへの優先出走権がトライアル5着までから3着までに変更されています。路線整備が進んだ事により賞金を持っている有力馬が増え、トライアルに関係なく本番に出走できるよう枠を空けたのでしょう。

京都競馬場の酷使は目に余りますが、これしか方法がないとも言えます。それだけ当時はローカル競馬場のスペックが低いと思われていましたし、桜花賞、天皇賞・春、宝塚記念を京都競馬場で施行するのであれば、これ以外に方法があるのかというレベルですからね。ただ、1~2月の京都開催のどちらかは中京に振っても良かったかな。それなら京都32日間、中京16日間、京都24日間でバランスが取れたと思います。

③に続く


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