見出し画像

開催日割の変遷④ 1996~1999年

昨日は10000ワードくらい書きましたが、さすがに次の日に響きますね。これでテイオーとかブライアンの事を書いていたらとんでもない事になっていたかもしれません。できるだけ簡潔に進める事が重要ですよ私。

1996~1999年の開催日割

今回は96~99年までです。一番記憶に残っている時代かもしれません。ブライアン、トップガン、バブル、グラス、スペ、エルコン、オペラオーなどの名馬が次々と出てくる時代ですね。書いていたら1頭10000ワードを超えそうなので、今回はできるだけ絞るか、もしくはマイナーな馬にスポットを当てるのもいいですね。

画像4

毎度毎度となりますが、開催日割は左から開催回数開催競馬場開催日数となります。1東京6なら、第1回東京が6日間行われた事を示します。赤字部分は前年から変更された部分で、例年通りに戻す場合はそのまま黒字としています。表の下記の数字は競馬場別の年間開催日数ですね。JRAが発表している開催日割と同じ様な形にしときました。こちらの赤字は開催日数が前年比で減少青字は増加している事を示しています。そのため、表で赤字があっても、年間開催日数が変わらなければ黒字となっている点に留意して下さい。


1996年

96年は91年から続く変革がより一掃強くなった年と言えます。まず、重要な変更として牝馬三冠の最終戦となっていたエリザベス女王杯を開放し、史上初めて古馬牝馬限定のGⅠレースが誕生しました。それまではクラシックが終わった牝馬は早々に引退し、古馬になっても活躍できるのは短距離路線のみとされてきた時代でしたが、距離を2200mに短縮した事で古馬牝馬の中長距離路線の目標となりましたね。

それに伴い、新たな三冠最終戦として秋華賞が新設されました。秋華賞はエリザベス女王杯が時期の変更を伴わない関係で、それより早い時期に開催される事になり、後にそれに合わせるように菊花賞や各トライアルレースの時期も変更となりました。

それから短距離路線も整備されました。冬のスプリンターズSに対応する春のスプリントGⅠとして高松宮杯が2000mから1200mに短縮した上でGⅠに昇格しました。中央四場以外で初のGⅠですね。この年に大久保調教師の独善的な判断で5冠馬ナリタブライアンが天皇賞・春から参戦する暴挙があり、それが影響したのかブライアンは後方から追い込んで4着となった後、屈腱炎で引退となりました。ふざけるな。

4歳(現3歳)では短距離路線の頂点としてNHKマイルCを新設しました。当時隆盛の一途を辿っていたマル外のレース、いわゆるマル外ダービーなどとも呼ばれていましたが、トライアルのNZT4歳Sでは17頭中14頭がマル外で、10着までを独占していましたし、本番でも8着までがマル外という結果でしたので、そう揶揄されても全く反論できません。なお、同じNHKを冠するダービートライアルのNHK杯は廃止され、代わりにプリンシパルSが新設されました。

また、ダート路線の整備も行われ、JRA初の3歳限定のダート重賞となるユニコーンSのほか、古馬ではプロキオンSアンタレスS武蔵野SシーサイドS(現エルムS)が新設されました。同年はダート競走格付け委員会が設立され、多くの地方重賞が中央馬に開放された年でもあります。

続いて競走馬の活躍ですが、前年に引き続きサンデー旋風が吹き荒れ、GⅠは皐月賞をイシノサンデー、菊花賞をダンスインザダーク、天皇賞・秋をバブル、エリザベス女王杯をダンスパートナー、マイルCSをジェニュインが勝ちましたし、重賞でもロイヤルタッチ、マジックキス、ローゼンカバリーなどが活躍しました。懐かしいです。

それから前述したダート路線の整備に伴い、地方との指定交流競走で大活躍した馬が現れます。それがホクトベガです。エリザベス女王杯の勝ち馬で、94年の札幌記念を勝った後に低迷していた同馬ですが、前年95年にエンプレス杯に出走し、2着に18馬身差を付ける圧勝劇を見せます。その後、一旦芝路線に復帰するものの、96年はダート路線を進み、川崎記念、フェブラリーSダイオライト記念帝王賞エンプレス杯南部杯浦和記念と連戦連勝を重ねました。秋には再びエリザベス女王杯(4着)、有馬記念(9着)にも参戦するなど大活躍の一年で歴代牝馬賞金女王になりました。まるで昨年のオジュウチョウサンのようでしたね。

あと5冠馬シンザン軽種馬の長寿記録を更新しましたが、その2ヶ月後に残念ながら老衰で死亡しました。最長寿記録は35年3ヵ月11日でした。

騎手関係では例の【花の12期生】がデビューした年です。福永、和田、フルキチ、柴田兄弟、高橋亮、常石、ホソジュン、牧原、田村ですが、10名中3名が女性騎手で、7名の男性騎手の内、柴田未崎を除く6名が重賞を勝利し、5名がGⅠを勝つという当たり年と言えます。女性騎手初勝利や天才2世、双子などの話題性もありましたし、成績も良かったですが、現在残っているのはコ○永宴会部長なんちっての3名なのが残念です。

他には前年に最多勝利を更新した岡部幸雄がJRA全競馬場で勝利を挙げ、安田富男がJRA全競馬場の重賞を制覇するという快挙を達成しました。富さんの『この記録は有名人じゃできないでしょう。脇役じゃないとね。だから、落ちこぼれの勲章ですよ』と名言を残しましたが、翌年、あっさり武さんに達成されるというオチが残っています。しかもリーチを掛けてから22日で、福島と函館をポンポンと勝つというイジメっぷり。鬼ですか。

あと注目したい点として、2月のバイトレットSが吹雪の中で行われ、中継が全く見えず、実況が最後の直線のみという珍しいレースがありました。今でもyoutubeで見られると思うので、良かったら探してみて下さい。

開催日割は前年から引き続き福島競馬場の馬場改造工事が行われた関係で、第1回福島を中山に、第2,3回を新潟に振り替えられています。それに伴い、正月の第1回中山を東京に、夏の第3回新潟を中山に振り替えられています。これにより同年に福島競馬場で競馬が開催される事はありませんでした。
さらに5月下旬から7月上旬における関西地区の開催(第3回阪神と第2回中京)を入れ替えました。その影響で宝塚記念が2週ほど繰り下がり、数年だけですが7月開催となっています。

重賞は一気に12R増え(前年格付けなしの東京新聞杯を含む)、2Rの廃止により114R、GⅠは3R増えて19R、障害重賞は8Rで変更なく、アラブは前年で廃止されています。前年との相違点は以下のとおりです。

画像5

この年は、牝馬競走体系の整備、ダート重賞競走の整備、3歳(現2歳)重賞競走の整備、短距離路線の整備がまとめて行われたため、多くの変更があった年です。

まず、牝馬競走体系の整備としてエリザベス女王杯の古馬開放、それに伴う秋華賞の新設、その施行時期の関係でローズSは一月繰り上げられ、クイーンSは距離が変更されました。また、春季にはマーメイドSが新設され、古馬以降の活躍も見込まれるようになりました。

ダートでは、重賞競走の整備としてプロキオンS、武蔵野S、アンタレスS、シーサイドSが新設されました。プロキオンSはちょいちょい他の競馬場でOP競走が施行されていたのを持って来た形です。武蔵野Sは準OP、OP競走としての実績がありますので、新設というより昇格ですね。シーサイドSは翌年に札幌に移行してエルムSに名称変更するので、重賞でこの名称が使用されたのはこの年だけというレア重賞です。

3歳(現2歳)重賞競走の整備も徐々に進められています。牡馬路線としては府中3歳Sが重賞に昇格し、牝馬路線はファンタジーSが新設されました。
府中3歳Sは翌年に東京スポーツ杯3歳Sに名称変更しますので、こちらも重賞でこの名称が使用されたのはこの年だけというレア重賞です。

短距離路線の整備では、ダービー前に行われていた古馬限定の安田記念がダービー後に移行して4歳(現3歳)以上に変更され、それに伴い京王杯SCの時期が変更されています。また、高松宮杯がGⅠに昇格したので、それに伴いシルクロードSが重賞に昇格、阪急杯は1200mに距離を変更しましたね。それから高松宮杯と同じ時期に行われていたCBC賞は丸被りを避けるため冬に移行し、スプリンターズSの前哨戦という扱いになりました。

4歳(現3歳)路線ではNHK杯が短距離王決定戦としてNHKマイルCに衣替えし、NZT4歳Sがトライアルとして春の東京開幕週に移行しています。さらにその後の短距離路線の拡充を図るため、中日スポーツ賞4歳Sが1200mに距離変更していますね。この時期に4歳(現3歳)のスプリント重賞があっても仕方ないんじゃ・・・という気持ちは誰しも持っていたハズです。

この年の変更で現在のレース体系に近い形になってきましたね。福島競馬場の改修工事の影響も相まって重賞の変更は36ヶ所にも及びました。


1997年

97年は前年から続くダート路線の整備に伴い、フェブラリーSが史上初めてダートGⅠに昇格しました。それに加えてダート競走格付け委員会によって交流重賞競走に格付けがなされ、地方からは帝王賞南部杯ダービーグランプリ東京大賞典川崎記念が交流GⅠとなりました。いずれも現在でも残るビックレースです・・あれ?ダービーグランプリさん・・あれ?

活躍した競走馬と言えば、やはりサニーブライアンでしょう。『これはもう、フロックでも、なんでもない!二冠達成!』という名実況と大西騎手の雄叫びはいつまでも記憶に残っています。それからエアグルーヴが天皇賞・秋を制し、ジャパンCで2着、有馬記念で3着という成績を残して年度代表馬に選出されました。私はこの馬が好きではありません。なぜなら友人が熱心なファンでエアエアエアうるさかったからです。

また、同年は短距離王のタイキシャトルがデビューし、わずか8ヶ月で重賞4勝、GⅠ2勝を挙げる活躍で最優秀短距離馬に選出されています。個人的にはサニブー、シャトル、エアの順なんですが。もし、メジロドーベルが桜花賞を獲って牝馬三冠となっていたら、大逆転となっていたかもしれませんね。

あと昨年に交流重賞で無双したホクトベガは、川崎記念を連覇した後に向かったドバイワールドCで転倒した上に後続に追突され、左前腕節部複雑骨折で予後不良となりました。このレースで引退し、欧州で種付けをして記帰国する予定でしたが、何とも残念な結果に終わりました。

騎手関係では、武さんの弟、武幸四郎がデビュー2日で初勝利を挙げるのですが、それが重賞(マイラーズC)だったもんでさぁ大変。初勝利が初重賞で、最年少重賞勝利で、デビュー後最短重賞勝利のハズですから、この先更新される可能性は非常に低い不滅の記録と言えます。ちなみに、関東で行われた弥生賞は兄の武さんがランニングゲイルで制しており、兄弟同日重賞制覇を達成しています。その武さんは前述のとおり、七夕賞と函館3歳Sをポンポンと勝ってJRA全場重賞制覇を達成します。

それから調教師関係では藤沢和先生が年間重賞勝利数を13勝に更新する快進撃を見せましたが、その一方で名義貸しが発覚し、島崎宏調教師、武宏平調教師に調教禁止処分が課せられました。これ調べても記事が出てこないのですよ。3ヶ月、5ヶ月というそこそこ長い処分なので、何かしらの記事が出てもおかしくないのですがね。競馬記者は仕事してんのかなぁ。なお、島崎先生は二冠馬タニノムーティエ天皇賞馬タニノチカラなどを管理し、武宏平先生は菊花賞馬スリーロールスなどを管理していました。

開催日割は福島競馬場が2年ぶりにリニューアルオープンしたので変更が無いと思いきや、北海道地区で変更がありました。札幌記念がGⅡに昇格した関係で札幌→函館だった開催を入れ替え、函館→札幌開催としました。もちろん恒久的な変更です。やっぱり夏競馬唯一のGⅡ競走を早々に終わらせてしまう事はできませんよね。

重賞はダートが2R増え(前年格付けなしの東京新聞杯を含む)116R、GⅠは1R増えて20R、障害重賞は8Rで変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

画像5

97年は北海道地区の開催時期入れ替えに伴う重賞の入れ替え、昇格、名称の変更がありました。札幌記念がGⅡに昇格した事に伴って入れ替えたのか、入れ替えた事に伴ってGⅡに昇格させたのか、分かりませんが、夏競馬の総決算的なレースとして8月半ばに移行されました。

また、シリウスSとガーネットSはフェブラリーSに繋がるレースとなりましたし、ダートGⅠの創設や前年に地方競馬との交流が始まった事に伴ってダート重賞の昇格などの路線整備が行われています。

その他は目黒記念が春開催に移行し、競走条件が4歳(現3歳)以上に変更されています。これは2012年に5歳(現4歳)以上に変更されるまで続きますが、普通に考えればこの時期に古馬とこの距離で戦える馬はダービーに参戦するので、宝塚記念くらい間隔が空かないと参戦は厳しいでしょう。


1998年

98年は衝撃の残る一年でした。まず、前年の最優秀短距離馬で安田記念を勝利したタイキシャトルはフランスに遠征し、ジャック・ル・マロワ賞に挑戦しました。合わせる様に前年にNHKマイルCを制したシーキングザパールもフランスに遠征してモーリス・ド・ゲスト賞に挑戦する事を発表します。これは森先生が当初予定していたジャック・ル・マロワ賞にタイキシャトルが参戦してきたため、『短距離王に勝てもしない挑戦をするより、1週早いモーリス・ド・ゲスト賞で日本馬初の海外GⅠ制覇を狙ってやろう』という考えから選択されたレースです。

結果は森先生の考えていた通りとなり、シーキングザパールは見事に日本馬初の海外GⅠ制覇を達成します。タイキシャトルは1週遅れてジャック・ル・マロワ賞を勝利しましたが、レースの格では明らかに上ですので、その栄誉は褪せる事はありません。2週連続で日本馬の海外GⅠ制覇が果たされて大いに歓喜したのを覚えていますね。

ちなみ、モーリス・ド・ゲスト賞は鞍上の武さんが『よくこんなレース見つけてきたな』というほどのマイナーGⅠであり、前年にドージマムテキを挑戦させようとして頓挫した経験を踏まえてのものだそうです。やはり経験は大事ですね。他の調教師も、こうした果敢な挑戦をしてほしいもんです。

それからサイレンススズカが覚醒したのもこの年です。今でもハッキリ覚えていますが、あの馬は競走馬の完成型だったと思います。能力がありながら気性の問題で大成しない馬は多いですが、サイレンススズカはまさにその典型とも言える馬で、下手に抑えた時は脆い反面、気分良く行かせたらアホみたいな強さを見せました。特に古馬になって武さんが逃げに活路を見出してからは『テン良し、中良し、終い良し』の三拍子で当時としてはかなり速い日本レコードを出して重賞4連勝を含む5連勝でGⅠ馬となりました。

今の人は何がスゴいのか分からないと思いますが、毎日王冠で前年の朝日杯で衝撃のレコードを出し、暮れの有馬記念を勝つグラスワンダー、NHKマイルCの勝ち馬で、翌月のジャパンCを完勝するエルコンドルパサーけちょんけちょんにするほど強いのです。その後、天皇賞・秋で左前脚の手根骨粉砕骨折により予後不良となった際の天下の武さんは、生まれて初めてというほど痛飲して落胆したのは有名な話です。それほど偉大な馬でした。数字だけじゃないのですよ競馬は

こう書くとどうしてもグラスもエルコンも薄く見えてしまうんですよねぇ。この2頭も相当スゴい馬なんですよ。1600mのレコードを持つ4歳(現3歳)馬が有馬記念を勝った馬と、マイルGⅠを勝った同年にダービー馬や年度代表馬、外国馬を相手にジャパンCを正攻法の競馬で捻じ伏せて勝った馬ですからね。皐月賞と菊花賞の二冠馬セイウンスカイが霞んで見えるってどんなですか。当たり年どころの話じゃないですよ。

騎手関係では歴代最多GⅠ勝利を誇る岡部騎手がフェブラリーSで記録を更新すると、猛然と追い上げる天才武さんが桜花賞、ダービーを勝って並び、すかさず安田記念で突き放す岡部ですが、秋華賞でまたまた追いつき、岡部がさらにマイルCSで突き放すという大接戦が繰り広げられました。長い競馬人生でこの頃の騎手界隈が一番面白かったかもしれませんね。そうそう武さんはこの年がダービー初制覇です。

短期免許ではマイケル・ロバーツがアドマイヤコジーンで朝日杯3歳Sを制覇し、史上初の短期免許騎手によるGⅠ勝利を達成しました。ロバーツは翌日のダービーグランプリもナリタホマレで勝利したので2日連続でのGⅠ制覇という快挙を達成したことになります。

あと地方ですが、佐々木竹見騎手が地方競馬通算7000勝を達成しました。騎乗数が違うとはいえ、とんでもない数字ですね。笠松の安藤光彰も2000勝を達成しましたが、弟のアンカツも2000勝を達成しており、日本競馬史上初となる兄弟2000勝騎手となりました。光彰さんは武豊TVでおもろいおっちゃんだなぁという印象しかありません。

開催日割は小倉競馬場の馬場改造工事およびスタンドの全面改築工事の影響で、前々年の福島同様、競馬の開催はありませんでした。前述したサイレンススズカが勝った小倉大賞典は中京競馬場のものですね。この工事の影響で第1回小倉は中京に、第2回は阪神に、第3回は京都に振り替えられました。
なんだやればできるじゃないか。これくらいバランス良く振り替える事はできんもんかね。42日間連続開催とかアホの極みやぞ。

あと函館競馬場にウッドチップコースが出来たのは確かこの年ですね。これにより裏函が盛んになったハズです。なぜハズかと言えば、情報が不足しているからです。多分、この年にやってるハズなんですが、ソースが不確かなのでボカしています。前年に完成した美浦トレセンの森林馬道もそうですけど、当時はまだまだインターネットが普及していたとは言い難い時代でしたので、ソースが公式発表もしくは新聞のみなんですよね。さすがに四半世紀も前の話ですから、その辺は多めに見て欲しいところです。

重賞は1R増えましたが、1Rの格付けが停止されているので116Rで変更はありません。GⅠは20R、障害重賞は8Rも同じく変更ありません。前年との相違点は以下のとおりです。

画像5

共同通信杯4歳Sは積雪の影響でダートで施行されたので、格付けは停止されています。また、富士SはOP競走から重賞に昇格し、スプリンターズSの前哨戦の位置付けとなっています。あと高松宮記念は、高松宮家から優勝杯の下賜を辞退された事に伴い、レース名が変更されています。


1999年

99年も海外遠征の目覚しい成果が見えた一年でした。その代表格はなんと言ってもエルコンドルパサーでしょう。前年のジャパンCを圧勝したエルコンは、桜井盛夫、合田直弘、奥野庸介という海外競馬マニア(笑)をブレーンに迎えて遠征先を協議し、凱旋門賞挑戦を決定しますが、その臨戦過程にはかつて実験的に行われていた長期遠征を選択します。そうしなければ日本馬は勝てない、ポンと行って勝てるほど甘いレースじゃないとの判断ですが、個人的はこれが正解だと思います。

現に4月中旬にフランス入りした際の調教では15-15ですら疲れた様子だったと言い、その後、調整を続ける中で筋肉の付き方や体型が変わり、欧州仕様になったと言われています。そんなエルコンですが春にイスパーン賞(芝1850m)2着、サンクルー大賞(芝2400m)1着という好成績を収めます。特にサンクルー大賞では前年の仏愛ダービー馬でもある全欧年度代表馬ドリームウェル、前年の凱旋門賞馬サガミックス、ドイツの年度代表馬タイガーヒル、BCターフ2着となったドイツダービー馬ボルジアなどを相手に2馬身半差をつけて完勝したわけですから、非常に価値の高い勝利でした。

そして怪我明けの前哨戦フォワ賞を辛勝して向かえた本番当日でしたが、当日朝まで続いた降雨の影響で馬場硬度5.1を記録するほど軟らかい馬場でした。日本でも先週からクッション値が公開されていますが、そこでも7以下は軟らかいとされていますから相当馬場が悪化していた事が伺えますね。
エルコンはスタートから先頭を走り、馬の気分のままにリズム良くペースを刻み、残り200mまで先頭を走りますが、最後は猛追したモンジューに交わされ半馬身差の2着に敗れました。

しかし、モンジューを管理するジョン・ハモンド師は『あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのにこの結果。おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。』と言い、現地メディアは『チャンピオンが2頭いた』と賞賛しました。これは歴史に残る大きな一歩だと思いますし、当時もそう思っていました。これを糧に日本競馬界は飛躍するのだと。

ところがどっこい、後述するアグネスワールドが翌年にジュライCを制してから、日本馬が欧州GⅠを制覇するのは2016年のエイシンヒカリまで待たなければいけません。凱旋門賞には毎年のように参戦するものの、ナカヤマフェスタ、オルフェーヴルが2着に入ったきりで、現在のディアドラを除けば長期遠征する馬は皆無です。関係者は『先人に学べ』という言葉を知らないのでしょうか。

また、同年はアグネスワールドがフランスのアベイ・ド・ロンシャン賞(芝1000m)に挑戦し、見事に優勝しました。前年のシーキングザパールに続き、森先生は2年連続海外GⅠ制覇を達成しました。

それ以外の活躍馬といえば、フェブラリーSを勝ったメイセイオペラ(岩手所属)は史上初めて地方馬としてJRAGⅠに勝利しましたし、グラスがスペをボコボコにしましたし、スペが秋の古馬GⅠ完全制覇と勘違いしてウイニングランしましたし・・そんなトコでしょうか。

騎手関係で言えば武さんがアドマイヤベガでダービーを勝ち、初勝利だった前年に続き、史上初めて2年連続でダービージョッキーとなりました。一方で、後世に残る事件として後藤浩輝が吉田豊を木刀で殴打し、4ヶ月の騎乗停止処分を受けましたね。俗に言う木刀事件です。あと調教師では白井最強がアンタレスS、天皇賞・春、京都4歳特別と3日連続で重賞を制覇するという珍しい記録を達成しています。

それから私の競馬の心の師匠である大川慶次郎先生が亡くなられたのもこの年です。享年70歳って・・早かったなぁ。今の時代ならこれからですよ。というか、今の時代に競馬に関してあれほど見識の広い評論家は見た事ないですね。井崎先生だって敵いませんよ。

あとは何があるかな。あぁワイドの発売が始まったのもこの年ですよ。憎きワイド馬券。私が馬連を買えば1-3着、ワイドを買えば1-2着、単勝を買えば2着、複勝を買えば4着ですからね。悪いイメージしかないです。何回ガミったか分かりません。まぁガミるような買い方する方も悪いのですが。

また、審議対象のパトロールビデオが公開されましたし、京都競馬場の増築工事が終了してビックスワンが竣工しましたし、障害競走にグレード制を導入してジャンプという名称が使われ始めたの同年からですね。PVは競馬場内のみってところがミソですが、情報公開の姿勢は見せていたのでJRAにしては良い判断だと思います。ビックスワンは1年10ヶ月も工事を行っていたんですって。知らなかったわ~やっぱ数字だけじゃ読み取れませんね。障害については何とか障害競走の人気を挙げたいという狙いなんでしょうが、20年経ってオジュウチョウサンにような馬が出てきたわけですから結果的に正解でしょう。

開催日割は通常通り288日を変更無く行われるハズでした。しかし、厩務員ストライキによって4/3に予定されていた中山、阪神、中京の開催は全て中止となりました。たしか台風や降雪、地震といった天災地変の場合は代替競馬を開催する事ができますが、ストはそれに該当しないので中止された分を代替する事はできず、JRAには一銭も入ってこないのですよ。そのため各競馬場の開催日数が1日ずつ減り、全285日で開催されています。

それから前年から続く小倉競馬場の馬場改造およびスタンド全面改築工事の影響で、第1回小倉は中京に、第3回中京は小倉に振り替えられました。

重賞は積雪によるダート変更で格付けが停止された1Rが復帰したので117R、GⅠは20R、障害重賞はグレート制導入により2R増えて10Rとなりました。
前年との相違点は以下のとおりです。

画像5

目立った変更は特になく、京都4歳特別もそろっと廃止されましたが、翌年からこの時期に京都新聞杯が移行してくるので、そんなに違和感がありません。あと、そろっと京成杯が2000mに延長されています。牡馬クラシックを見据えて距離の長い重賞が欲しかったのでしょうが、ラジオたんぱ杯3歳S、京成杯、きさらぎ賞、共同通信杯4歳S、弥生賞、スプリングSと本番前に6つも1800~2000mのレースを揃えてもなぁ・・と思いますよ。

できれば京成杯かきらさぎ賞は2200mで施行した方が違いが出来て、レースも予想も困難になって面白いと思います。さすがにラジオたんぱ杯や共同通信杯、トライアル2戦と比べるとクラシックに直結しなさすぎですし、距離の幅が無い分、どんぐりの背比べで大事な本番が行われるのは面白くないでしょう。

また、障害競走改革の一環として、障害競走にグレード制が導入されています。それに伴い、名称も『障害』から『ジャンプ』に変更されていますが、秋の中山大障害だけは『伝統のレース名は残すべき』という意見が多かったようでそのまま残りました。なお、増えた2Rは夏の小倉サマージャンプと
新潟ジャンプSです。


最後になりましたが、これだけは書いておきたいと思いました。それは・・シンコウシングラー事件です!!(笑)いやいや大事な話ですよ?重要な規程違反なんですから。事件の概要はこうです。5/16に東京の緑風Sに出走したシンコウシングラーは2位で入線しました。ところが、後検量で前検量と比較して1.7キロも負担重量が不足している事が発覚します。

これは一大事だって事でJRAが慌てて対応した結果が【失格】【返還なし】ですからね。確かにレース前後の負担重量の差は1キロ以内というのが競馬施行規程に定められているので、失格の措置はやむを得ません。ただね、返還なしってのはどうなのよ?と思うわけです。そもそもの原因は、騎乗した相談役が前検量後に2キロのゴムパッドを外したまま装具を並べており、それに気付かなかった栗田博憲調教師が装鞍する際にゴムパッドを置き忘れたために発生したと推測されました。

であるなら、ファンには何の落ち度もないですよね?勝手に不良品作って、勝手に不良品売りつけて、不良品だったから失格です、返還しませんって世間一般では詐欺というではないでしょうか

JRAの言い分としては、競馬法に照らして返還規定に当てはまらないとの事ですが、それは法律の話であって、道義的な責任は果たされていません外部に向けての謝罪すら無かったわけですから、態度としては最悪ですよね。それで良くお客様に満足して頂けるように・・・なんて言葉を吐けますね。相談役と栗田調教師の双方に過怠金を科して、検量委員は責任を問われなかったって、それは俺達は悪くないと言っているのと等しいですよ。検量委員に責任は無くても、運営組織としてファンに13億円もの不利益を与えているわけですから、せめて理事長以下の減俸、ファンに対する謝罪といった対応をするべきでした。

当時の理事長は農水省から天下りしてきた高橋政行でしたが、官僚出身者は謝る事に強烈な抵抗感がありますよね。ミスを認めないというかなんというか、まるで隣国を見ているかのようです。まぁ事務次官の指定席だった理事長のポストにプロパーの土川氏を推した点は評価できますが、この事件は後のJRAでも大いに参考にして欲しい一件でした。

⑤に続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?