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【踊る頭の中】他者を見せつけること

『MOMENT issue2』の読書メモでチラッと書いたけど本屋という生き方に期待していることがあって、それは誰か特定の本屋ではなく、もう少し大きな本屋という生き方を選んだ一群の人々を指しているのだけれども、それは多様性を見せつけることというか、他者を見せつけることである。

自分が思ってもいないような職業に就いているひと(思えば僕も他の人から見ればそんな人のひとりなのかもしれない)の存在を本から知ったり、自分とは全く違う価値観で生きている社会を知ったり、ときには同じ社会でも時代が変わればまったく価値観が変わることすらあることに気付かせてくれる存在だと、僕は本屋のことをそう思っている。

でも、それだけなら他のどんな媒体にも当てはまるだろう。映画でも音楽でもテレビでもYouTubeでもラジオでも、全て何かしらのメッセージを帯びているわけで、それらは自分の外側の声という意味ではどれも他者だ。

ただ、もしかしたら互いに矛盾し合うかもしれない価値観の元に作り出されたものをノータイムで面として大量に提示することができるのは今のところ本屋以外にはあり得ないと思っている。

(内沼晋太郎さんの言う「広義の本屋」と考えて欲しい。)

とはいえ、もちろん技術の進歩でVRで代替できるかもしれない。仮想世界に没入できれば代替できるかもしれない。未来には何が起こるかわからないけれど起こりえるものは起こるのだから現状の狭義の本屋は将来のどこかの時点で消えるだろうとは思う。

それがいつになるかは分からないけれども、いつかは起こる。でもそれまでは現実(オフライン)で圧倒的な量の他者を見せつける本屋という存在を僕は応援し続ける。

さて、ここで言葉を逆転させてみよう。「多様性を見せつけることというか、他者を見せつけること」を本屋に期待していると初めに僕は書いた。だが逆に「多様性を見せつけることというか、他者を見せつけること」をしている存在を本屋と呼ぶことにしたらどうだろう。

多様な他者を見せつける。しかも圧倒的な量で持って。個人がやることなので何らかのフィルターは当然かかる。完全に公平な個人などあり得ない。それを前提としながらも、エクスキューズとしながらも、それでも目に余るほどの量の他者を見せつけることで世界と対峙させる場を本屋と呼ぶのだとしたら、常套句のように悲観的に使われる出版不況という言葉を、必要以上に怖がることはないのではないかと、僕は思っている。

そういう風に考えると本屋の生計を立てる手段が紙の本を売ることである必要性が薄れると思う。不要だとは思わないけれど、そこから解き放たれることでやれることは増えるのではないかと思っている。文喫とかBSTとかそのほか副業で生計を支えながら本屋をしている人々はきっと多かれ少なかれそう思っているようには思うのだけれども。

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