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とりとめのないこと2022/11/13

一時期、サブカル的な感覚で安部公房さんの作品にハマっていた時期があった。
多分19歳とかそれくらいの頃だったように思う。

当時、付き合っていた女の子が僕とは比較にならないくらいに本が大好きな子だった。
彼女に教えてもらった作家はフランソワーズ・サガンさん、マルグリット・デュラスさん、村上春樹さん、江國香織さん、そして安部公房さん。

江國香織さんは『落下する夕方』を彼女がブックオフで見つけてきて数日後、「とにかく何も考えずに読んで欲しいの。私の気持ちが書いてある気がする」とかそんなことを言って僕に貸してくれた。
僕は彼女の気持ちを探そうとした。
離れ難いのに、緩やかに離れて行くとはどう言うメッセージなのか?と。
ストレートに「俺に別れたいって言いたいわけ?」と聞いたと思う。
すると、彼女は「ハマってるだけだよ、今は『号泣する準備はできている』を読んでるから、読んだら貸すね」と言った。
今思うと、自己中心性が今よりも強かった僕に辟易としていたのとか、色々僕の不甲斐なさに気付いて欲しかったのかもしれない。
そうして、またしばらくして、彼女が今度は江國さんではなく、安部公房さんの『砂の女』を僕に貸してくれた。

僕はその時はただゾワゾワする作家だなとしか考えず、不思議と代表作品を色々と読み始め、彼の社会批判の鋭さを感じながらもミステリアスな作品群に惹かれていただけだった。

その頃には村上春樹熱も冷めて、丁度、アントニオ・タブッキさんやパトリック・モディアノさんらに傾倒し始めていたから、安部公房さんより、身体の何かがタブッキ作品のような境界文学を求めていたんだと思う。

今日、久しぶりに『砂の女』を読み、その頃ぼんやりとしか感じられなかった社会批判、社会風潮への迎合、自由の様相などを僕なりにくっきりと感じることがなぜかできた。

あれから悩むごとにドストエフスキーを何度か再読したり、ヤスパース、サルトルらの実存哲学を読み込んだりしてきたのと、今の僕の身を置く環境が大きく当時と変わったからだろう。

特に、家族ができて増えたこと、家族の故郷の事情などが僕にもたらした影響は本から得たものよりも大きい。おそらく、それがなかったらどこまでも楽天的でいつまでも自己中心性が高く、社会に対して全く意に関せずな人間だったと思う。
それくらい価値観が変わった。

安部公房さんだけではない。
何度も読み返してきたドストエフスキーの作品や大好きなタブッキ作品も読み方が変わったと思う。

僕の妻はそんなに目クジラ立てて本を読まない。
彼女は数ヶ月かけて一冊読むか読まないかだろう。それでも日本文学に興味があるらしく、好きな作家も見つけられたようだ。
夫婦だからといって、当たり前だけれど、同じ作家が好きだというわけではない。
彼女の趣向と僕のそれとはかなり違う。
僕は太宰治さんは稀有な才能の持ち主だとは思うけれど、あまり好きになれない。
ダメな主人公がダメさ加減を延々と肯定し女に頼るイメージがどうしてもついて回る。
けれど、妻はその太宰治を絶賛しており、

「強く居られるひとばかりじゃない、弱くてどうしようもないひとだっているし、そういうひとは自分で本当はどうにかしないといけないのもわかってるけれど、上手く立ち回れない。そういうひとに寄り添うのが太宰治さんの文章なのよ」

と、ピシャリと言った。
なるほどな。そんなマリア様みたいな観点で読むのか、と少し驚かされた。

僕はドストエフスキーさんが好きだけれど、彼女は「暗すぎる」ため好きではない。「トルストイさんの方がまだいい、でもプーシキンさんの詩で充分に思う」───プーシキン作品をほとんど僕は読んだことがない。

僕は帰ったら妻に安部公房さんの作品をホラー的に読み聞かせたい。どんな感想を持つのだろうか。

妻は色々と大変なのに、僕は出張先で羽を伸ばしている気分にもなる時がある。
少し後ろめたくもなりながら、今日は安部公房さんの『壁』をパラパラとめくっていた。

まだ2日しか経っていないのに、何故かここまで書いていて、ホームシックになりかけた。

昔と全く違う視点をいくつか持ち合わせながらページをめくる。
考えのベクトルに大きな変化をもたらしてくれた家族のおかげだろう。

この事を僕は直接妻に伝えたい。

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