『狭き門』ジッドにプリマヴェーラの試練を重ねて
ジッドの『狭き門』を久しぶりに読み返したあと、ジェロームとアリサのことではなく、狭き門へと向かうアモールとプシュケ(*1)を想像しながらアトリビュート(*2)は矢と蝶の翅なのだろうか、と唐突にそんなことを考えた。
*1 ギリシア/ローマ神話でエロース(アモール)は愛欲の神アフロディーテ(ヴィーナス)の息子とされる。クピド(キューピッド)とも呼ばれる。アプレイウスにより二世紀アモールと絶世の人間の美女プシュケの物語が書き残され、ふたりをモチーフとしたさまざまな芸術作品が残された。
*2 アトリビュートとは、彫刻や絵画において、個人を特定するアイテムのこと。
『狭き門』は高潔さと人間らしさとの葛藤をジッドの冷徹な視線で描かれている。ジッドの半自伝的な短い物語である。かなり宗教的な内容ではあるが随所にラシーヌ(*3)やボードレール(*4)などの詩や聖書の美しい詩篇が計算されて散らされてもいるため深くて美しい。気品の中に深い俗的愛を懇願している春の花たちのようにも思えてならない。
*3 十七世紀のフランス劇作家
*4 十九世紀のフランス詩人
ジッドのこの物語の主役ふたり、ジェロームとアリサは、信仰心の強い美しい男女である。彼らの十代〜二十代までをジェロームが三十か四十歳近くになって回想している。
キリスト教の信仰と人間らしさとを対立させて全体としての人間像を描いている。
この作品では、アリサに押される形でジェロームは世俗から離反しようとする。
神への忠誠心あるいは信仰が、ひととひととの愛に対立させられて描かれているものとして、グレアム・グリーンの『情事の終り』もあるが、ジッドの『狭き門』はストイックな信仰を持つアリサが特徴的だろう。
僕はカトリック信徒ではあるけれど、ひととひととの愛と信仰をひと続きにして見ると、やはりアリサの信仰にはやや独りよがりに見えなくもない。(僕が現代を生きているから簡単にそう言えてしまうのだろうけれども)
ジッドがアリサの信仰の崇高さや沈思黙考に物語を照射することによって、崇高さと人間らしさを大事にすることと引き換えにしてしまっては元も子もないことに気づかせてくれている。
崇高と俗、どちらもとても大切であることに変わりはない。
ボードレールが『沈思』という詩を残しており、堀口大學の素晴らしい訳を想い出した。
ひとの愛は信仰より小さいと信じるアリサ。彼女に潜むニヒリズムを考えさせられたりもする。
信仰の内にひとへのかけがえのない愛が湧いてこそ、光さすところへと向かえるのではないだろうか。
世俗とは一概に悪いことばかりでもなく、地に足をつけてしっかりと身近な小さくともかけがえのないことそのものであったりもする。
崇高さと俗さはやはり相反するようでいて似たり寄ったりでもあろうか。
未熟な僕の中ではいまだにバランスをとることの難しさがある。
蝶は魂のメタファーでもある。
世俗のメタファーがプシュケという女性そのものとして、そこに嫉妬渦巻くアモールの母アフロディーテ(ヴィーナス)からのいくつもの試練。乗り越えるプシュケ。そして俗世界の純度の高い魂かのようなプシュケを抱きしめながらも崇高な世界へと舞い上がるアモール。
愛が心の中で大理石のふたりに血色を与えるかのような、生そのものを感じた。
春といえば、アモールの母でもあるヴィーナスのプリマヴェーラを想起する。プリマヴェーラ───それは情熱あるいは苦悩の受難のようでもある。アプレイウスによる2世紀の文学『変容』では、嵐のようなヴィーナスからの試練をアモールとプシュケが乗り越える物語が差し込まれている。乗り越えたのち、少し違った風景が彼らの目に映るのではないだろうか。春の嵐の予感は生の息吹の証のように感じる───感傷的ロマン主義。
目を瞑るとこのふたりの彫刻がまぶたの裏に現れて、僕はしっとりとした大理石の彼らの頬を撫でた。
すると、アモールとプシュケの肉体に赤みが差し、血潮の脈打つ鼓動とともに、ふたりが永く閉じ込められていた夢幻から解放された。
僕を見つめるふたりに僕は照れながらさよならをする。
矢と蝶の翅の影が足元に落ちていた───アモールとプシュケのアトリビュート───春の夢。アモールがプシュケを抱きながら舞う森の大地の息吹や海の波の音が聴こえる。
ただ、ただ、生のあるがままに芽吹き、美しいものが美しいままであってほしい。それ以上に勝りたるものがあるだろうか。
週末、ギリシア、ローマ神話にジッドの『狭き門』を重ね合わせた。
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