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とるにたらないこと2022/11/27-30 共感や感傷

先週末、偶然にもとても大きなことに遭遇した。
自分なりに表現や思考することの大切さとともにそれが許される環境というのがいかに大事なことかと思わずにいられない。

共感されたら心地いいし感傷に浸るのも心地いい。

時々、共感されたり/したり、感傷的になるのはトゲトゲし過ぎないためにも必要かもしれない。

でもそこに価値観を見出すのは僕は懐疑的でもある。
共感や感傷というのは信頼できない。
その場その場で変わり、昨日まで共感していたものに、今日はもう興味すらないとか、共感したことを忘れたり、実は流行りに乗せられていただけだったりしかねない。
感傷だってそうだ。
立場が変われば違うものになったりもする感情だったりする。

共感も感傷も、冷静さを完全に見失いかねないリスクをはらんでいる、と僕は時々思う。

その際たるものは過去の帝国主義に浸る国家が他国を属国としようとする行為だったりするのではないだろうか。

サルトルらの時代は、サンジェルマンのカフェとかで、ざっくばらんに文学や思想のことを同じくらいの知識量であてどもなく議論できたりしたのだろう。

今は、専門家以外、動画や解説書で手短にまとめられておしまいだ。
解答が用意されてる感があって、どうしてもそうしたまとめ系を見る気も読む気もしない。

少し前に、見かけた現代哲学の先生が書いた現代思想まとめみたいな本が売れる理由がわからない。
完全にわからないわけではない。
そういうのを出しちゃうと、それが答えみたいに思って、思索の葉っぱの葉脈からたどり着いた自分なりの考えや自分なりの学びのプロセスがカットされてしまう気がする。

書いたひとは僕なんかより数倍色々考えて書いてるんだろうけれど。

自分なりの考えに行き着くまでのプロセスを論理的に体系付ける力。
1日では無理だと思うけれど、その力もそれを身につける訓練もとても大事だと思う。
そして思想哲学書を読む、本と格闘するというのはそうした論理的思考力や洞察力を訓練することに他ならない。

そこを安直に手っ取り早くなんてしていると、何か強い発言や考えがふって湧いてきたとき、簡単に扇動されたり、考えなければならない公共的な問題を他者に押し付けて、目を瞑ることを善としかねない。
そんな気がしてならない。

共感や感傷よりも、冷静で建設的な考えを自分なりに持つ方が面倒だ。
でも、後者の方が圧倒的に長持ちする充足感を得られたりもする。
また、建設的批判を恐れずに受け止めることで次の指針に繋がる可能性もある。

何かについて書くとき、どの媒体であれ、自分の頭で考えて、自分なりの信念に筋を通していれば、共感や感傷のみならず、どこかで冷静な感情を持って、結果として書いたものが自分の目の前に現れる。

書くことは自己満足でしかないけれど、筋を通さねば、エクリチュールとして息をしないし、借り物の何かでしかない。
筋を通している/いないに限らず、面白おかしく誰でもわかることや身近なことを書いていれば読まれる可能性も高いだろうし、共感も得やすいかもしれない。けれど、そうしたものは、そうした質のものにとどまり、エクリチュールとしてはどこか破綻していて翼が借り物のようにしか見えない。
書くテーマの本質から逸れたことではなければ、ユーモアやナンセンスは価値も見出せる。
安部公房はその洞察力からの比喩の飛躍と公共性が素晴らしい。

面倒くさく骨の折れることであっても自分なりの言葉を培って考え抜く手作業を大事にしたい。

書く自由、表現の自由があるというのは、考える自由があるということでもあり、その自由を、自分自身にとって、良い方向に使っていけたらと思う。

誰のために書くのかって、僕の場合は行き着くところ自分自身のためでしかないことが殆どかもしれない。

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