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とるにたらないこと2022/05/27-06/01

バベルの塔は言語が存在する理由の物語でもある。
旧約聖書では、創世記の第11章、ノアの物語のあとでアブラハムの物語の前に記載されている。「昔、人々は皆同じ言葉で意思疎通しており、天まで届く塔を遂には建造し始めた。その為、主が言葉を分断し、人々は意思疎通できなくなり、建造を中途で放棄し、各地へと散って行った。」とされる。

趣味のひとつでお話しを書くが、最近、久しぶりに書いた。内容はノンフィクションの半日の出来事を引き伸ばして300年のメジャーで測る=見つめられている、というものだ。カクヨムで地味に気が向いた時に肉付けして遊んでいる。

誰かの日記ノンフィクションは他の誰かにはフィクションに近しい。

バベルの塔に対する僕のイメージは、ラテン語で書かれた色んなひとの日記がうず高く積まれた図書館のような、そんなイメージだ。

サルバドール・ダリのいくつかの絵に触発もされた。ダリの『記憶の固執』や『波の本』と創世記のバベルの塔がある日僕の頭の中で渦を巻いた。
それで、いくつか書き始めた。

ダリの妻であり、ミューズであったガラは、詩人ポール・エリュアールの元妻でもあり、ガラはダリと再婚後もエリュアールと関係していたりもするようだ。しかし、ダリの性的倒錯というと極端かも知れないが、それが、誰かのセックスを見る、というものであった為、特に問題にならなかった。

ダリらしい性癖に思えなくもない。
凄まじい観察力の彼は『見る』ことに関して徹底的にプロでもある。だからといって自分の奥さんが他のやつとイチャコラしているのを見て性的興奮するといった性的倒錯に繋がるか?というとそんな簡単に繋げられるものではないが、ガラはダリにとってミューズであり、そのミューズのエロを観察したいというのは何となくわからなくもない。

性的倒錯は他人を通して自分の肉体を感じるために、他人を所有する瞬間のエクスタシーがどこにあるか?ということでもある。

僕はノーマルな方だが、そうしたエクスタシーの持つ爆発的エネルギーの最たるものがバベルの塔にも思えてくる。

僕は金がかからない男だな、と思う。
自分で書いてそれ読んで笑って楽しんでる変態だが、極論何もいらない。ペンと紙さえ要らない。頭の中でできることでもある。流石にそうした妄想中、外でヘラヘラしてたら心配される。筋トレ中とかやっている。

妻がやりたい!と言ってくれたら身体中絵の具塗って素っ裸で白いキャンバスにゴロゴロしながら絵を描きたいが却下された。絶対楽しいと思うのだ。絵を見る、妻と遊ぶことは僕の想像力の為に欠かせない。

シュールでリアリズムあるエロい絵と詩が好きなのも何かしら関係しているかも知れない。
左川ちかとかそういう点で僕は好きだ。

これがおかんに根暗といわれ、妻に厨二と言われる所以のひとつかもしれない。

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