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鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』(ナナロク社)

一刻もはやくこの本をぶん投げて、読むのをやめてしまいたい。

とか書くと鹿子さんがえんえんと泣いてしまい、それを見た担当編集ネギー川口氏がネギどころか大根で鹿子さんの尻を叩き、その様子を見たナナロク社社長村井さんが会社資金を売り払いハワイに逃げる、なんてことが起こるかもしれないが事実なのだから仕方がない。だって1ページ読むごとに「ブードゥーラウンジに行きたい」という感情が抑えきれなくなり、でもここ千葉にはブードゥーラウンジはないし、鹿子さん同様しょうもないことばかりやってお金にならない人生を過ごしているから暇もなく、おいそれと福岡まで行くこともできない。だからもうこの本を読んで疑似体験するしかないのだけど、やっぱり1ページ読むごとに「ブードゥーラウンジに行きたい、いやもはや行かせろ、このおたんこなす」と誰に向ければいいかわからない怒りすら芽生えてきて、さらにこの分厚さ、なんなんこれ。怒りだけが蓄積していく。もはやブードゥーラウンジが実在していることすら憎々しい。しかしページをめくる手は止まらない。きっと僕も「はみだしもの」なのだ。だからどうしてもブードゥーラウンジに集ってしまう。どうにかして本のなかで集おうとしてしまう。電話相談室に電話をして相談することができない悩み、不満を、ここでどうにかしようとしている。

ブードゥーラウンジに集うものたちはみな「はみだして」いる。なにが?と訊かれたら「ヨコチンが」としか言いようがなく、いやそれただの変態じゃん、となってしまうのだけど、でもやっぱりそれ以外の言葉が見つからない。

「たとえば遊びに夢中になりすぎた子どもは、パンツの横からちんちんが出ていても気がつかないまま遊んでいますよね。熱中するあまり、便意や尿意も危険水域まで我慢して遊びますよね。場合によっては何かの弾みで『にょろっ』とそれが出たりすることもありますよね。俺はね、そういうものを見るのか大好きなんです。それぐらいなりふり構わず何かに没頭している姿ーーーあるいはその夢中熱中の結果、どうしても世間の領域から『はみだし』てしまった何かにこそ、美しいものが宿ってるんじゃないかって思うんです。ああ、人の成すべき芸術の基本はそこにあるんじゃないかって。そうであるとするなら、そうした『はみだし』は、叱ったり取り締まったりパンツの中に収めたりせずに、大いに肯定するべきなんじゃないかって。俺が『ヨコチン』と呼んでいるのは、そういうことですよ」

「ヨコチンレーベル」を主宰し、ブードゥーラウンジにて人々を熱狂の渦に巻き込む男、ボギーさんはこう語る。この説明にピンときたひとは本書を読むことをオススメする。ピンとこないひとは、きっといまは「はみださずに」すんでいる時期なのかもしれないから、無理して読む必要はない(でも記憶のどこかにとどめておいてほしい、人間なにがきっかけで「はみだす」かなんてわからないのだから)。

はみだしかたや、なにからはみだしてしまっているのかは、もうほんとうにひとそれぞれで、ゆえに「これ」と決めつけてかかれる救いの手もない。きっと誰かから与えられるものでは、はみだしたものはどうにもならない。いや、はみだしたものを収めてはならないのだから、はみだしかたを見つけていく、ということになるのだけど、とにかくそれは自分で見つけるしかない。そしてそれが見つからないから辛いのだ。世界で俺はひとりぼっちなのかもしれない。そんな思いに身を引き裂かれる夜があるのだ。

かつてブーツィー・コリンズは「なぜ、そんな大きな音でベースを弾くのですか?」という質問にこう答えた。「それはね、さびしいからだよ」と。

ブードゥーラウンジに集うものたちの声や音もまた、大きい。「なんか『しまえ』って言われたんだけどさ、しまいかたがまったくわからないし、そもそもなにをしまえばいいのかわからないし、ていうかしまう必要なんてないよね、なんでしまわなくちゃいけないのかな、ねえ、俺どうしたらいい?」という思いを、やはり電話相談室のひとには相談できないモヤモヤを、とてつもなく大きな声と音で吐き出しに来ているのだ。

だがその大きさゆえに、思いも寄らぬところまで届いてしまうのだ。社会から「しまえ」と言われて困っているひとに。ほんとうは「はみだし」たくて仕方がないのに無理して「しまって」いるひとに。そして、いままで特になにも意識してなかったけど、本書をなにげなく手に取ったことで「そうか、俺ははみだせるんだな」と思ってしまったひとに。

届いてしまったらもう避けられない。「いますぐブードゥーラウンジに行かせろ」という思いがあなたのなかに生まれてしまうことは。お前らの「はみだし」を聴かせてくれ。そして俺の「はみだし」を聴いてくれ。「はみだし」すぎた奴らは、ゆえに「はみだし」たぶんだけ繋がっていく。時間も距離もこえて、遠くまで。

俺たちはいつだって「はみだし」ていて、だからさみしくて、でもそれゆえに繋がっている。ああ、なんたる美しい矛盾。この矛盾を愛するものたちに、愛したいと思うものたちに、『ブードゥーラウンジ』を知ってもらおう。だから大きな声でこう言っておこう。ブードゥーラウンジにおいでよ。青い春はそのうちきっとやって来る。

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