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真摯な本にふれる

「ふつう」とか「常識」とか「世間」みたいなものの呪縛から逃れられるような本、というのを意識して扱いたいと思っている。ゆえにこだまさんの『夫のちんぽが入らない』は読後すぐに「生涯店頭に置きつづける」と誓ったし(そのときはまだ棚担当を持った書店員ではなかったけど)、この本が自分の「本屋とは」という問いへの答え、軸になるものだと思った。

あれから数年が経ち、そういった「誰かの光/救いになるかもしれない本」をたくさん見てきて、読んできて、改めて思うことは、これらの本には何かしらの「真摯さ」があるということだ。たとえ中身が笑いに満ち溢れていようと、しょうもないことばかり書かれていようと、そこに「真摯さ」が感じられる本であれば、おそらくその本は読んだ者の「その後」を照らす。

真摯さ、とはなんだろうか。

まずは書き手が書き手自身の人生をきちんと生きているということだ。人生に対して正面から、あるいは横からでもいいが、自分なりのやりかたでちゃんと向き合っている。しあわせになりたいとか、苦しみから逃れたいとか、理由はなんでもいいのだけど、とにかく必死になって生きている、生きてきた、そういう積み重ねがまず、前提としてある。

その積み重ねを、過去を、改めて目の前に取り出して眺めてみる。真剣に。あのときの感情は。あのときの言葉は。あのときの行動は。自分にとって、いったいなんだったのだろうか、どういった意味があったのだろうか、なぜそうしたのだろうか。きっとその根本には、やはり「しあわせになりたい/苦しみから逃れたい」といった大きな概念が存在しているのだろうけど、その下位概念、あるいは構成要素のようなものを丁寧に分解して、みつめて、自分の過去=人生を「物語る」。

そうやって生み出された「物語」というものは、当然のように真摯さを持っている。その「物語」を紡ぐために書き手が選んだ言葉たちには、書き手の真摯な人生と、その真摯な人生に対して真摯に向き合った結果が反映されているのだから。その「真摯」のかたまりを受け取ったとき、ひとは光を感じるのだろう。

その「真摯さ」は決して、わかりやすく激しい、あるいは感動的なものであるわけではない。「どんな人生、できごとにも意味がある」という言葉はそれ自体のみでは陳腐なものに思えることが多いけれども、真摯にそれを生き、真摯にそれに向き合い、真摯に「物語」られたそれには、表面的なわかりやすさとは隔絶したところにある光が、救いが、しあわせがある。静謐な言葉たち、静謐な物語、静謐な......。でもそこには確かに存在しているのだ。圧倒的な熱量が。受け手の魂のなかに入ったときにはじめて破裂し、受け手のそれへと浸透し、やさしく包み込む、書き手の魂が。


戸田真琴『あなたの孤独は美しい』(竹書房)と星野文月『私の証明』(百万年書房)は、前述したこだまさんの本と同様にそういった本のひとつだ。彼女たちの人生(とその途中で起きた様々なできごと)は確かにドラマチックなものかもしれない。いわゆる「ふつう」とはかけ離れた人生、ある意味では「ヒロイン」的な要素すら含むものと捉えられ、僻み妬みを受けることもあるかもしれない。だけどこれらの本(というか、本というかたちをとった彼女たちの人生)において重要なことは、評価すべきことは、やはり人生に対する「真摯さ」である。ドラマチックなできごとや感動的なできごとに対してのみならず、ごく日常の、変哲のないできごとに対しても、真摯に向き合う。そのことで生まれる感情や価値観、考えかた、生きかた、それらを真摯に言葉にしている。そのことが、これらの本が読者の魂にふれる理由のひとつだ。自分自身に対して真摯に向き合い、真摯に導き出されたものを真摯に物語ったとき、たとえそれが書き手自身に対して向けられたものであっても、受け手は「これらの言葉たちは自分に向けられている、自分のことを思ってくれている」と感じることができるのだろう。自分自身に対する真摯さが他者にとっての真摯さとなって届くとき、書き手も受け手も光を感じることになる。

その橋渡しをできることが、とても愛おしい。

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