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【#しおりを挟む】(2)大塚久雄『社会科学における人間』をめぐって②

こんにちは。

今回も、岩波新書の『社会科学における人間』(大塚久雄)をめぐっての記述を少ししたいと思います。いかんせん、大昔に読んだ本であって、再度読み返さないことには、書くことははばかられるわけですが、お許しをいただいて、「読み進めながら」の記述を進めていこうと思います。このnoteでは、記憶を頼りとして、この本の全体についてのイントロダクション的なことを書いていこうと思います。

まず、本の標題にある「社会科学」ですが、これは概ね「自然科学」に対置される学問分野とお考えくださればいいと思います。自然科学とは、物理学や化学、生物学といった「自然現象」について科学的方法*で扱う学問です。一方で、社会科学とは、経済学、政治学、法律学、社会学等々、「社会現象」を科学的方法で扱う学問ということです。

*ここでは「科学的方法」については「詳述」しません。とりあえず、論理的・因果論的に記述を進める専門分科した学問とお考えください。

また、「人文科学」という言い方もありますが、ぼくはこの分野については「人文学」と言うのがより適切であって、「人文科学」と言うのはなじまないのではないかと考えるものです。この分野には、哲学や歴史学、文学等が配されます。

ですので、この「社会科学における人間」という標題には、「経済学や社会学等の学問分野において、『人間』がどのように位置づけられ、考えられてきたのか」という含意があります。実際、著者の大塚もそのように述べています。

この著作は、1976年(!)に行われたNHKの市民大学講座で25回にわたって行われた講演が元となっています。ぼくが最初に読んだのは1982年でした。こんなに「古い」本の読書体験について語ろうとするのに、果たして意味や有効性があるものなのか、いささか疑念も湧いてくるのですが、先述しているように、この本を読んだことが、ぼくの読書をある程度方向づけた原型となっているので、むしろ言及は避けて通れないものと考えます。

さて、この本の柱は3つあります。つまり、
①デュフォーの『ロビンソン・クルーソー』に見られる人間類型論、
②マルクスの経済学における人間の問題、
③ウェーバー**の社会学における人間の問題
の3点です。この3点を通して、大塚は「社会科学」という学問領域において、「人間」がどう扱われているのかについて論考を進めていくわけです。

**本著での記述では「ヴェーバー」となっていますが、ここでは「ウェーバー」としておきます。

この講座が行われてから、早くも50年が経とうとしています。その間、社会科学はもちろん、学問全体も大きくその姿や性質を変えてきました。これから先、何回かにわたって、この著作から今もって学べる点は何だろうかという点についても考えながら、お話しを進めていきたいと思います。また「本題」まで入れませんでした。すいません・・・。

この内容はstand.fmでも聞けます!


今回は以上といたします。次回は、「ロビンソン・クルーソー」物語について言及する予定です。どうぞよろしくお願いいたします。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!




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