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好きなことやって生きてきた男の残りの人生の生き方 〜今までやってきた好きなこと〜 学生時代編

こんにちは

はじめましてというのがいいのかな?
このnoteっていうやつで、ブログみたいな記事というか、日々思ったことを
ぼちぼち書こうと思う。

今日は2021年3月1日月曜日。
何か始めるのにはキリのいいタイミングだし。

あとタイトルも色々考えたが、
「好きなことをやって生きてきた男の人生後半の生き方」 をタイトルにすることにした。

タイトル通り、60年間の約三分の二に当たる約40年間、今から考えるとかなり好きなことを好きなようにやって生きてきたと思う。
仕事も遊びもどっちも...

ということで、初回は少し昔の学生時代を振り返ることにしようと思う。

今から思えば、あまり裕福ではない底辺サラリーマンの家庭に生まれ、義務教育の期間は普通に育ったものの、勉強大嫌いで遊びが大好きな僕は、中学ではほとんど勉強せずに、部活のラグビー部でかなりヤンチャしてた。

ラグビー部の試合の後、相手先の中学の校門にさっき試合した別の学校のラグビー部の連中が待ち構えていて、試合中のラフプレーにイチャモンをつけてくる。
そうなるとこっちも、売られた喧嘩ということで入り乱れて乱闘なんてことを繰り返してた。

そんなバカばっかりやってたから、結局高校は金のかかる私立に進学。両親には金銭的な苦労をかけたと自分が親の立場になった時、初めて実感したな。

高校も私学が故に割と自由な校風で、好きなようにやってた。スポーツというか身体を動かすのが好きだったから本来なら高校もラグビーをやりたかったんだが、その高校にはラグビー部はなくアメフト部だった。

アメフト部もいいなと思ったけど、学費の件で頭の上がらない親に、アメフト部に入りたいとは口が裂けても言えなかった。アメフトは入部時道具に費用がかかり過ぎるから。

結果入部したバレー部では、多くの素晴らしい仲間との出会いがあったし、相当なスパルタ指導だったが尊敬できる監督がいた。その監督からキャプテンをやれと言われ、そういうタイプの人間では無いのに否応無しにやった。
地獄のようなハードな練習の日々で、意識が朦朧とする練習が続く。
でも、楽しい仲間がいたから何とか続けられた。

それにこの頃、規則違反の原付バイク通学してたけど、お金無いのにどうやってバイク手に入れたのか今では思い出せない

尾崎 豊の歌詞が脳裏に浮かぶが...(笑)

高校2年の時、オヤジの会社が倒産の危機で給料がストップして、部活を一時期止めて経済的に少しでも足しにと色々なバイトもした。
朝刊と夕刊の新聞配達、高級ホテルの清掃員、宴会場カーペットのシミ抜き
郵便局の配達員、伊丹空港のフランス料理店の皿洗い、うどん屋さんの厨房やカウンタースタッフ等々

この頃までの十数年間はあまり好きなように生きたとは言いにくいが、嫌いな勉強をぜずに、バイトにバイクに部活に打ち込めたのは、少しは好きなように生きたと言えるのかも知れない。

その後、憧れた大学も経済的にも地頭的にも行ける状態ではなく、イラスト書いたりデザインに興味があったから、デザイン専門学校に進学した。
結構時間もできて遊べる時間も増えるんだろうなと、気軽に考えていたが、これが大誤算。
度重なる課題の提出があり、厳しい提出期限にとても、遊ぶ暇なんてなかった。この時は初めて毎日が苦しいと思った。

この頃ってまだパソコンという神器が無かった時代で、デザインは全て手書き。書き損じイコール最初から描き直しになる。
何度イラついて画用紙をビリビリに破って捨てたことか...
こんな事に時間を費やしていると、提出期限までに課題なんて完成するはずもなく...
先生に怒鳴られ、毎度の再提出期限に滑り込みセーフだった事が思い出されるな。

結果的に、かなりの生徒がふるいに掛けられ、卒業制作も着手できずに、甘い気持ちで入学した生徒は途中でやめていく。
そんな厳しい専門学校生活だったが、何とか卒業制作もクリアして無事卒業でき、就職先も大手スーパーのJUSCO(現イオン)の販促部に決まった。

色々苦労した専門学校時代だけど、イラストを描くのが大好きだったから、あの苦労に耐えられたのかもなー。
あの時、今のようにパソコンでデザイン(今でいうDTPやWEBデザイン)が勉強できていたら、もっと楽しかったんじゃ無いのかなー。

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