おーい!落語の神様ツ 第二話
自宅から歩いて五分もかからない場所にある居酒屋『いつきや』の暖簾をくぐると、いつものように大将が「いらっしゃいっ」と愛想よく迎えてくれた。咲太は思わず大将の肉付きの良い肩を確認しながらカウンターに腰かけた。日曜日の夕方の早い時間、先客はいなかった。おかみさんもおしぼりとコップを手に「いらっしゃいまし」と迎えてくれて、すぐに瓶ビールを持って来てくれた。おかみさんの肩も確認してしまう。
「どうしたんです、師匠」
「大将、師匠はやめてって言ってるでしょ、まだ二ツ目なんだから」
落語家が師匠と呼ばれるのは真打になってからだが、『いつきや』の大将は咲太の事を最初から師匠と呼んで応援してくれている。この店に初めて来たのは確か二ツ目に昇進してすぐだから、かれこれ十年近くになる。調子が良かった頃は毎晩のように顔を出していたが、最近はぽつぽつと入る仕事の日ぐらいしか顔を出せていなかった。
「だって師匠はもうすぐ本当に師匠になるんだし」
そう言う大将の笑顔がいつもと違って見えた、ような気がする。
咲太は昼間の事を言おうかどうしようか考えて、やっぱり言わないことにした。急に貧乏神がどうのと言い始めたら頭がどうかしたんじゃないかと思われるのがおちだ。佐賀の一件だけ掻い摘んで話すことにした。
「仕事が入って良かったじゃない。そのお母さんも息子さんも見る目あるよ」
「いや、俺はそんな風に思われる資格なんかないよ。あれだよ、虎柄の服を借りた狐。師匠の人気を、すっかり自分の実力だと勘違いしてさ。気が付いた時には客も仲間もいなくなっちまったし」
「師匠、それを言うなら虎の威を借る狐じゃ……」
「とにかくいやンなっちまったってこと」咲太はコップに残っていたビールを煽って、お通しの小鉢に箸を入れる。鰈の卵だろうか。甘辛く煮てあって歯ごたえがいい。
「今、流行ってる若手さんのどこが面白いかわからないけどなぁ」
大将は腕組みをしながら考え込む。その少し大げさな仕草が、大将の優しさに感じられて咲太は申し訳ない気持ちになって思わず、ありがてえなぁと呟いた。
咲太の声が聞こえたのか聞こえなかったのか大将はテレビの画面を見ながら始まったよと言った。民間放送で唯一生き残っている国民的演芸番組だ。
お馴染みの大喜利のコーナーが始まる。咲太の目が、画面の中の真ん中にいる先輩の肩に釘付けになった。あの貧乏神が、足をぶらぶらさせながら司会者の方を見て笑ったり、難しい顔をしたりしている。どうやら出演者と一緒に大喜利の答えを考えているようだ。心なしかモギー鳥司の肩にいた貧乏神よりも一回り大きく見えた。テレビ画面だからだろうか。
「はい、お待ち」大将が見繕ってくれた刺身の盛り合わせを咲太の前に出した。びくっとした咲太の様子を見ておかみさんが「師匠、今日はなんか変ね」と笑った。
「この番組が始まった頃は二ツ目さんがテレビで活躍していたらしいけどね」
大将は咲太よりも一回りくらい歳上だったはず。大将の世代だとテレビで活躍している落語家と言えば、真打ばかりだ。二ツ目でテレビに出ていたと言えば、人気が落ちる前の咲太ぐらい。その頃の咲太のサイン色紙が店内の一番目立つ場所に飾ってあった。
咲太はこの番組に出てる師匠達の凄さをよく知っていた。柳咲が出演する落語会で度々一緒になっていたからだ。落語会の主催者の顔付け(キャスティング)は、みな似通っている。テレビで名前が売れている落語家と通好みの落語家の組み合わせが大半だった。咲太は前座時代、売れてる師匠達の高座を沢山聴いて勉強した。師匠達の誰もが、目の前の客が求めてるものを瞬時にキャッチして笑いにしていた。それも落語という芸から逸脱せずにだ。咲太は「これが一流だ」と感動しながら舞台袖で聴いていた。そんな恵まれた環境だったからこそ、他の仲間から妬まれもしたのだった。
そして当時も今も楽屋でいくら疎外されても、この店で大将たちに温かく迎えられると嫌な気分をリセット出来て、次の日からの仕事を頑張れた。佐賀の紳士もそうだが、応援してくれる人の存在を忘れて、すぐに死んでしまおうなんてやけくそになる自分が心底情けないし嫌だった。
「アジャラカモクレン、キューライス、テケレッツノパア」
突然、咲太が落語「死神」の呪文を唱えて手を二度叩いたから今度は大将とおかみさんが驚いた。
「師匠、なんです?」
「明日『死神』を演るんで、ちょっとさらったの」
口から出まかせだった。咲太はお勘定を済ませて店を出た。大将とおかみさんの「ありがとうございました」の声を背に、入り口の赤提灯に目をやると入った時よりも明るく見えた、ような気がした。
「さて、稽古でもするか」
咲太は大変な荷物を背負ってしまったんじゃないかという不安や後悔を振り払うように、とっておきの稽古場まで風を切るように歩いた。
昼間、浅草であの爺さんに貧乏神の話を聞かされた時は耳を疑った。目も疑ったし頭も疑った。爺さんに誘われて初音小路にある千ベロの店『梅よし』に連れていたかれた時には夢なんじゃないかと思い、これが落語なら、遠慮せずに呑まないと良いところで起こされるなと考えた。でもその時点で夢じゃない事はわかっていた。
『梅よし』にいるほとんどの客の肩に、例の青白い顔の小汚い小さい爺さんが座っていて、同じ顔した者同士で互いににこにこ挨拶している。
「さしづめ貧乏神の寄合所だな、コリャ」爺さんも楽しそうにしている。
「なんじゃ、コリャ」咲太は異様な光景に圧倒され、優作然とした。
酔客達はみんな、連れや居合わせた客同士で楽しそうに呑んだり食べたりしている。それはもう幸せの絶頂にいるような陽気さだ。しかし実際はほとんどの客の肩に貧乏神が憑いている。その貧乏神も楽しそうに笑っているので、シュールではあるけれど悲壮感は皆無だった。
「これがみんな落語の客だったらなあ。なぁ、あんちゃん」
「え、いや、でもこんなに貧乏神がいたんじゃ落語どころじゃないっすよ」
「あんちゃん、ちょっとここで『死神』の呪文をさらってみ」
「なんでですか。いやですよ、こんな大勢の前で」
「誰も聴いちゃいねえよ」
爺さんの言葉には逆らえない威圧感があった。咲太は仕方なく口に出す。
「アジャラカモクレン、キューライス、テケレッツノパア」
パン、パン。咲太が手を二度叩くと一瞬強風が吹いたように感じ、場が静まり返った気がした。だがすぐにまた客達の陽気な声が戻ってきた。
「客を見てみ」
いつの間に頼んだのか冷や酒を煽りながら爺さんが顎を動かした。
咲太が言われるまま客達を見ると、さっきまで肩に乗っていた貧乏神が一人残らずいなくなっていた。
「これって……」
「そうよ」
「もしかして、あの呪文て、自分の頭を正気に戻す呪文なんすか」
咲太が大真面目な顔で尋ねると、爺さんが酒を吹き出した。
「バカやろう……あぁ、見ろ、変な事言うからこぼしちまったぃ」
「だって、唱えたら貧乏神が見えなくなったんすよ」
「当たり前だろうが、貧乏神を追い払っちまう呪文なんだから」
「でも、あれって『死神』を追い払う呪文じゃないんすか」
「だから、落語はあながち嘘ばかりじゃねえのよ。本当は貧乏神を追い払う呪文を、誰かが死神に変えたんだろうよ」
「だとすると円朝ですよね」
「円朝かもしれねえし、そうじゃねえかもしれねえな」
円朝とは三遊亭円朝の事で、人情噺や怪談噺の数々の名作をこの世に残した落語中興の祖である。この爺さん、やっぱり落語家だなと確信した咲太だが、一向に名前が出てこない。家に帰って東京瓦版が発行してる『寄席演芸家名鑑』で確認しようと思っていると、爺さんが「じゃ、そういうことで」と言って立ち上がって帰ろうとする。
「師匠、そういうことって」
「お前も察しが悪い野郎だね。あんちゃんは貧乏神が見えるようになったの。そんでもって他人の貧乏神をいつでも追い払えるってぇこと」
「ええっ!」
「まあそういうこったから」
「師匠はなんでそんな事がわかるんすか。ねえ、師匠、待ってくださいよぉ」
半分泣きべその咲太を置いてどんどん浅草寺の方へ行ってしまう爺さん。なんだかさっきから両肩やら頭上に何かがいる気がする。爺さんがふいっと振り向いたかと思うと「大事な事を忘れてた」と言って「アジャラカモクレン、キューライス、テケレッツノパア」と手を二度叩いた。
「あのなぁ、いつでも貧乏神が追い払えるんだけども、追い払った分、てめえんとこに来ちまうから、気ぃつけろよ」
「え、じゃあ、さっきの大量の貧乏神、俺の肩にいっぱいいるってことっすか」慌てて咲太はフケでも払うように肩を払う仕草をした。
「だから、今、アタシが追い払ったの」
そう言って、咲太を置いてまたすたすたと行ってしまった。待てよ、てことは、あの爺さんに貧乏神がいっぱい憑いてなきゃおかしいじゃねえか。咲太は狐に化かされたような気持ちで眉に唾をつけながら店を出ようとした。
「お客さん、お勘定がまだだよ」
「やられたぁ」
爺さん、あんたが貧乏神じゃねえか。そう叫びたかったのを咲太はぐっと堪えた。
それが昼間の出来事だった。
『いつきや』から半ば異常な現実から目を背けるように歩き稽古(独り言を言いながら歩いてるように見える稽古スタイル)をしながら咲太が久しぶりにやってきたのは、線路を見下す高台にある神社の境内だった。この時間にはほとんど人は来ない。電車の音が響くので、声を張る稽古にもちょうど良かった。
「懐かしいねえ、ここ」
またもや急に話しかけられて宙に浮く勢いで驚く咲太。
「いつも急に来るからびっくりしますよ。まさか『いつきや』から付けてきたんすか」
「ふん。よくわからねえな」
どうもこの爺さんは臭う。酒臭いばかりじゃなく、つい爺さんのペースに巻き込まれてしまう独特の空気を持っている。
「師匠、さっきは酷いじゃないっすか。てっきり師匠が払ったもんだと思ってましたよ」
「えー江戸は文化文政といった時分に、大変に人を助けた賊で、えー鼠小僧という人がいた。この人は本当の義賊だそうですな……」
文句を言う咲太の声を遮るように爺さんの『しじみ売り』が始まると、咲太はビリビリっと身体中に電気が走ったようになって動けなくなった。咲太はまだ持ってないネタだが、もちろん他の落語家で聞いたことはあった。その誰とも違う『しじみ売り』が始まった。
鼠小僧次郎吉が、雪の日に十歳くらいの小僧のしじみ売りと出会って、身の上話を聞くところから話が動きだす。こんな寒い日に家族を養うために幼い子供がしじみを売っているにはちゃんとした理由があった。しかもそれは三年前に、次郎吉が首を突っ込んだもめごとと関係があったのだ。親切をしたと思っていたら返って仇となり、目の前の小僧の身に不幸がおっかぶさっていたと知るのである。
爺さんの演る次郎吉はさりげなく粋だし、小僧は愛嬌があって嫌味のない可愛さがあった。何より「銀杏歯の下駄」だとか「芸者」だとか「碁」、「イカサマ師」や「ちょぼいち」や「芋のへた」という言葉が、寄席で聞く師匠達の発する同じ言葉とは何かが違う。聴いた事がないはずなのに、耳には馴染みがあるような錯覚に陥った。
「あんちゃんも損な性格だなぁ。せっかく追い払ったのにどっかからまた貧乏神をくっつけてきちまいやがって」
爺さんの落語を聴いて呆然としていた咲太は、声をかけられて正気に戻る。
「ええまあ」
咲太は『いつきや』の大将の肩にいた貧乏神を追い払って、引き受けていたのだった。
「でもほら、師匠にまた追い払って貰えればいいじゃないすか」
「元ンとこに戻るけど、それでもいいのか」
「え? いや……というか、どうして師匠は貧乏神を追い払っても自分に憑かねえんすか」
咲太は昼間、疑問に思った事を口にしてみた。
「どうでもいいじゃねえか」
「よくないですよ。もしかしてやっぱり貧乏神の親分とかなんすか」
「アジャラカモクレン……」
「師匠、やっぱりこのままでいいです」
両手を前に出す格好で咲太は爺さんが貧乏神を追い払うのを制止した。さっきの話しだと追い払ったりしたらまた『いつきや』の大将んとこに戻ってしまうのだ。
「なんだい、このままでいいってぇのは」
咲太の顔をじっと見た爺さんは溜息混じりに、しょうがねえなと吐いた。
「せいぜい貧乏神がいなくなるようにがんばんな」
「どうすりゃいいんすか」
「アタシもよくわからねえんだよ。ある時、ぷいっといなくなっちまう」
それを聞いた咲太はなんだかずっしりと右肩が重く感じた。
「しっかりやんなよ」爺さんは置き土産に一発屁をこいて、参道を降りていった。
「神社で屁をこいていいのかよ」
あの爺さんの落語が頭から離れなかった。凄い落語を聴いた。余韻に浸っていると、貧乏神の事はどこかに追いやられてしまった。とにかく落語の稽古がしたくてたまらなくなった。咲太は線路を下に見ながら大きな声で稽古を始める。右肩にいる青白い顔をした小さな貧乏神が落語を聴きながら笑っていた。
つづく
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