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おーい!落語の神様ッ 第十三話
梅雨明けの夏空。遠くに入道雲が見える。今日も暑くなりそうだ。
すでに玉のような汗を掻いている咲太は朝からトイレに籠っている。初トリの芝居(寄席興行)の大事な初日だというのに腹を壊しているからだ。昨日冷たい物を食べ過ぎたせいかプレッシャーのせいか、はたまたその両方か。
考えてみれば中学の時の初デートの日も、高校受験の日も、落語研究部の初落語会の日も、そして初めて前座として寄席に上がった日も腹を壊していた。
「あの子は元気にしてるだろうか。夏の恋トイレの水に流しけり、か」
初恋の思い出に浸っている場合ではない。
いつもの高台に行けばひょっとするとあの爺さんの顔を見られるかもしれない。あの爺さんの顔を見れば少しは緊張が解れるかもしれないと思ったが、あの場所は近くにトイレがないので諦めた。
前座が上がってる頃だろうか、モギー鳥司はトリまで残って打ち上げに来るだろうかなどと悶々としながら夕方までの時間を過ごし、薬が効いてくれたのか腹の調子がなんとか落ち着くと、咲太は荷物を確認して神棚に手を合わせて新宿へ向かった。
寄席に着いた咲太は『いつきや』から贈られた幟がはためくのを眺めてから楽屋に入った。漫才のジミー&ゴールドの二人とベテラン真打の林々家時藏がいる。三人の肩には一体ずつ貧乏神が乗っていた。高座では一緒に真打に昇進する予定の夏風亭がんもが『ちりとてちん』に入ったばかりだった。それを聴いた立て前座(一番古株の前座)がネタ帳に演目を書き込んでいる。
「兄さん、おはようございます」
今日の二ツ目の出番のきょう柳が出迎えてくれた。咲太は半年ぶりくらいにきょう柳の顔を見て安堵した。以前は身長が二メートル近くあるきょう柳が楽屋にいると、それほど広くない楽屋が窮屈に感じられたが、今はその圧迫感が「身内」だという安心感に変わっている。
「きょう柳、色々とありがとな」
咲太がそう言って頭を下げたもんだから、きょう柳は目を丸くした。それから柳咲から事情を聞いているのだろう、深刻そうな顔で「大変な事になりましたね」と続けた。
「まあな。でも自業自得ってやつよ。もうなるようにしかならねえしな。それより客入りはどうよ」
きょう柳の顔色が曇った。咲太は一応自分でも舞台袖の簾内から客席を確かめてみると案の定ガラガラだった。全部で二十名くらいか。二階も含めて二百席ある客席のほとんどが空席で、前列から詰めて座ってるわけではなくバラバラに座っているので、芸人は演りにくいだろうなと思った。
「俺に憑いてる貧乏神達を客席に座らせてえよ」
「兄さん、何か言いました?」
きょう柳に憑いてないのを確認しながら咲太は何でもねえよと返した。
「お先でしたぁ」
夏風亭がんもが咲太へ目もくれないで楽屋に戻ってきた。このがんも、みかんの兄弟子でとんびの弟弟子だ。
「お疲れ」
咲太も適当に返す。がんもの両肩に貧乏神がいたので思わずガッツポーズをとると、がんもがちらっと不審そうに目を向けた。そんながんもの態度を見ていたきょう柳が何か言いたそうにしたが何も言わなかった。
ジミー&ゴールドの漫才中に、とんびとみかん、そしてがんもの師匠・夏風亭さん太が楽屋入りしたので、咲太は礼を言った。さん太は物腰が柔らかくいつもにこやかだが目の奥に鋭さを持っていた。
「うちのみかんがいつもお世話になってるそうで」
反対にそう返されて咲太は恐縮した。素早く着替えを済ませたさん太は、時蔵が下りてくるとそれほど間を置かずに「お願いします」と言って高座へ上がった。下座さんが出囃子を引く。それに合わせて前座が鉦や太鼓を鳴らす。さん太も時蔵同様ベテランの貫禄と愛嬌を兼ね備えた実力者だけあって、程よい軽さの噺で重い客席を湧かせていた。咲太は袖で聴いていてさすがだなと思った。きょう柳も一緒に聴いていた。
「時藏師匠もさん太師匠も絶妙だな」
「本当っすね」
きょう柳とこんな会話をしたのはいつぶりだろうか。咲太は嬉しかった。
しかしトリ前の太神楽が終わった後、悲劇が待っていた。なんとトリの咲太を待たずに客の半分以上が帰ってしまったのだ。それを見て咲太はまた腹の調子が怪しくなってきた。
咲太は佐賀でもかけた『船徳』を演った。演っているうちに腹の具合は気にならなくなっていた。咲太の貧乏神達が本当に空席に陣取っていたのでガラガラのはずの客席がまあまあ埋まっているように見えたし、人間からはクスりとも笑い声が聞こえて来なかったが、貧乏神達は笑い転げていた。『船徳』は佐賀の時とは違う手応えを感じていた。
「お疲れ様でした。兄さん、凄かったっす」
きょう柳は興奮気味だった。やや恥ずかしそうなのがきょう柳らしい。咲太は嬉しくて「よせよぉ」とだけ答えたが、噺自体には手応えはあったもののまだまだ課題があるなと感じていた。
「それより、誰も残ってねえし今日はコレ、無くていいよな」咲太が酒を飲む所作をして確認した。
「そうっすね」
きょう柳が暗い声で相槌を打った。本当なら初日と中日と楽日には、その芝居に出ている芸人達が打ち上げに参加するために最後まで残るのだが、きょう柳以外は誰も残っていなかったので打ち上げをよしにした。咲太は着替えると前座達に謝金を切って寄席を出た。
謝金は楽屋働きをしている前座達へ渡すおこづかいのようなもので、中身は千円だとか二千円だが、今の咲太にはかなり痛手である。あまりにも当たり前のように受け取る前座には思う所もあるが、かと言って恐縮され過ぎても同情されているようで面白くなかった。咲太はそういう所が面倒くさい男であった。
飲みてえ飲みてえ飲みてえ、もう飲みてえ。こんな日は飲んでイイでしょ。飲むべきでしょ。咲太の中の悪魔がささやき出す。咲太が『いつきや』に寄ろうかどうしようか迷っていると電話が鳴った。みかんからだった。
「兄さん、初トリ、お疲れ様でした!」
「おう、全然入ってなかったけどな」
「そうみたいっすね。でも今日演った『船徳』、めちゃめちゃ評判良いっすよ」
「どうして」
「SNSにあがってるんですよ。ほら、瓦版で書いてる浪口っていう演芸ライターが兄さんの高座を聴いたみたいで、べた褒めしてますよ」
「へえ」
きっと最後まで残っていた少数精鋭の客の中に居たのだろう。それにしてもベタ褒めって。そうなら少しぐらい笑えばいいじゃねえか。
「でも変なこと書かれるよりはましか」
「明日は客入りが良くなりますよ」
「どうもネットって信用出来ねえからなぁ」
落語マニアしか読まないであろう演芸専門誌で書いてる演芸ライターがSNSで何か呟いたところで客が来るとはどうしても思えない。
「じゃあ、明日も頑張ってください。お疲れ様でした」
みかんに救われた気持ちだった。感謝の気持ちを込めて「おつかれさん」と言って電話を切った。飲みたい気持ちはすっかり収まっていた。
二日目の客入りも初日と大して違いはなかったが、トリの前に帰る客はいなかった。昨日の演芸ライターのつぶやきの効果かどうかはわからない。
この日咲太は『黄金餅』をかけた。
貧乏長屋に意地汚い吝嗇な坊さんが住んでいた。行く先々で色んな宗旨の念仏を唱えて金をしこたま貯めていたが、風邪で寝付いてぽっくり逝ってしまう。この坊さん、あの世まで金を持っていこうってんで、死ぬ直前に貯めた金を餅にくるんで全部腹に納めてしまった。それを覗き見ていた隣家の男がその金をせしめようと行動を起こし……。どこか芥川の羅生門とも繋がるどろっとした噺だが、貧乏長屋の人々が滋味深く滑稽さを生んでいて、咲太は好きな噺だった。何よりあの爺さんが演った落語に少しでも近づきたいとネタ下ししたのだった。
「兄さん、凄いっす! 誰の『黄金餅』っすか?」
おそ咲が目をキラキラさせて誰から習ったのかと聞いてきた。今日の二ツ目の出番はおそ咲だ。おそ咲はきょう柳とは真逆のずんぐり体形で、落ち着きない仕草に何とも言えない愛嬌があった。
「ちょっとな」
もったいぶった言い方になってしまって気持ち悪かったが、実際どこの誰だと言えないので仕方ない。
「誰も残ってないよな」
咲太は昨日に続いて打ち上げは無い事をおそ咲に確認した。
「そうっすね。でもモギー鳥司先生が、楽日は打ち上げ行くから宜しく伝えておいてって言ってました。あの先生って打ち上げとか来る感じでしたっけ」
「そっか。何考えてるのかわからないし、気まぐれなんじぇねえか」
咲太は適当にごまかしたが、おそ咲には言ってしまってもいいような気がしてくる。
「あ、兄さん、『芸点』の新しいメンバー決まりましたよ」
「誰?」
「じゃーん!」
おそ咲が間抜けな声で効果音を付けながらスマホの画面を見せた。
「うわ、マジか! あいつ、なんも言ってなかったぞ」
ネットニュースには「国民的老舗演芸番組の新メンバー!! 史上初の女流落語家に決定!!」と見出しがあって、夏風亭みかんの写真が載っていた。みかんの場合、女流落語家ってだけじゃなく、まだ二ツ目なのだ。それなのに全国区の地上波のテレビ番組のレギュラーが決まるなんて、大大大抜擢である。とんびの口利きだろうか。いや、口利きがあったにしても、番組側に時代的な忖度があったにしても、最後は本人の力次第だ。それがなきゃそう簡単には決まらない。娯楽がネット中心になり、テレビはオワコンと言われて久しいが、相変わらずテレビの影響は大きい。咲太はその事を身を持って知っていた。
「みかんのやろう」
咲太はスマホの画面を見ながら危うく泣きそうになった。慌てて上を向く。
「どうしたんすか、兄さん」
おそ咲が心配した。
「何でもねえよ」
咲太はおそ咲と一緒にラーメン屋に行って解散した。
「兄さん、明日からも頑張ってください」
おそ咲が別れ際に真面目な顔で言うので、咲太は「生意気言うな」と笑った。
飲みてえ飲みてえ飲みてえ、もう飲みてえ。今日はホントに飲んでイイでしょ。飲むべきでしょ。咲太の中の悪魔がささやき出す。咲太が『いつきや』に寄ろうかどうしようか迷っているとまた電話が鳴った。とんびからだった。
つづく
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