雪組『f f f -フォルティッシッシモ-』 ~歓喜に歌え!~ 感想と覚書
1/5に大劇場で観劇しました。
一回限りの観劇の予定でしたが、ご縁があってもう一度観られることになったので一度目の記憶を残しておこうと思います。私自身の第九の解釈と重ねた覚書です。
1. 第九
冒頭に天国の門番ケンプが登場し作曲家たちを阻むシーンなどは、佐渡裕さんの第九の解釈を思い起こさせました。
「ここまでのストーリーでは、僕たち登場人物は『音楽の神殿』に向かってきたけれど、ケルプという門番がそこに入ることを許してくれないんです。この男性パートは、再びそこに向かって一人一人の民衆が行進しているシーンだと考えてください」
時を経るごとに声が調和していく様子は、佐渡さんが目指す「ベートーヴェンが描いた音楽の神殿」そのもの。佐渡さんは練習中、「ケルプという天使は途中、音楽の神殿への道を妨げる。だけど、あなたたち英雄が再びそれに向かうことで、その門は開けてくる、そんな様子を第九は描いている」と話した
有名な話ですが第九の四楽章の構成はこうです。
ファンファーレ(三楽章からのつながり)(不協和音)
重厚な一楽章のテーマ => 否定のテーマ(低音)
緊迫した二楽章のテーマ => 否定のテーマ
美しい三楽章のテーマ => 否定のテーマ
一~三楽章のテーマが順に現れ、チェロとコントラバスの低音のラインがどれも否定します。「こんな音ではない!」と苦悩の低音のなかで現れた四楽章のテーマもベートーヴェンは否定します。ここはナポレオンに向かって暗い思いを吐露するシーンとも重なり、ベートーヴェンはもう何も持っていません。
しかし今度はその低音が静かに、おそるおそる四楽章のテーマを奏でます。すると中音、高音の楽器が少しずつ集まりハーモニーになり打楽器も加わり力強く進み始めます。一つのメロディが重なり、隊列を組んで行進します。
四楽章のテーマ => 否定のテーマ
低音が四楽章のテーマ => 中音が加わる => 高音が加わる => 打楽器が加わる
こうして四楽章のテーマは認められます。実際には四楽章のテーマは一~三楽章のなかにも隠されていて、今まではそれを見つけられなかったのか、無視していたのか。
余談ですがベートーヴェンの「人の声が聞こえない」というのは史実でありながら、「人の意見や話を聞き入れることができない」という意味でもあり、唯一耳に残った過去の声(父親の罵倒、ロールヘンの優しさなど)に囚われているということでもあります。
話は戻って四楽章は、また不協和音のファンファーレに戻ります。このファンファーレは最後の審判を表すとも言われ、強敵の出現にバリトン独唱が「おお、友よ、この調べではない!」と立ち上がります。この独唱に男性合唱が応え、いよいよ大合唱へと向かいます。
ファンファーレ(不協和音)
バリトン独唱 => 合唱が応答
この後にも戦い、凱旋と物語は続き交響曲というよりオペラ的です。舞台には詩を書いたシラーは登場しませんが、これは歌詞をベートーヴェン自身の言葉とするためだと思っています。
2. fff
fがひとつ増えるたび、その強さは2倍になります。fからffで2倍、ffからfffでさらに2倍。指数関数的に、爆発的に強くなります。
そしてfは「大きく」ではなく「強く」。人の声がfffの強さ、爆発的な強さ、それはそのまま民衆があげる声の力を意味し、民衆は「vor Got!!」と合唱します。
雪組さんの第九の大合唱は圧巻でした。歌詞は一部オリジナルで日本語がつけられていましたが、「vor Got!!」はシラーの歌詞のままでした。民衆は声を挙げ神をも動かし、ついには音楽の神殿の扉を開けます。世界は平等になり舞台からも段差がなくなります。
3.謎の女の名前
謎の女は言わばベートーヴェンのイマジナリーフレンド。ものごとは認知されて初めて存在します。不幸だと思うベートーヴェンや人間がいてこそ人類の不幸は存在するのです。
そして名前を付けることは存在を定義することです。ある存在がある宗教では神、ある宗教では悪魔とされるように、認知する人がどう捉え、どう扱うかでものごとは変化します。
彼女は「女」で、もしかすると「才能」かもしれない、と考えたベートーヴェンに対し彼女は「家事をして健康に気を遣いうるさく口を出す」存在になりまた「外界との仲介の役割」をします。
その存在を恐がったときそれは恐ろしいものになり、それを嫌ったときそれは嫌なものになります。モーツァルトたちは彼女を不幸と呼び、嫌います。一方で不幸を受け入れたとき、不幸は人々を覆うものから抱かれるものへ変化します。この変化はベートーヴェンやナポレオンが望んだ固定概念や既存の価値を壊す、ということにも繋がっています。
4. エンディング
ベートーヴェンが最後の審判で許されたのか、天国に受け入れられたかは重要ではないと思っています。民衆は神をも動かす力を持ち、ベートーヴェンは不幸を、己の人生を受け入れました。もはや神に認められる必要はありません。しかしそれでも民衆は「vor Got!!」と歌います。人間賛歌で神に呼びかけます。それは神や理不尽を受け入れ、それでも人間を讃える強さです。
全体を通して概念的というか、曲との対話の擬人化のような物語で、エンディングが何だったのかは正直よくわかっていません。
抽象的な文章になりましたが、以上が私が初めての観劇で感じたこと、みた幻覚です。
無事に多くの皆さんが雪組さんのvor Got!!の合唱を浴びられますように。
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