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「サイレンスの終わりに」

手元の時計は、早朝3時。
……せっかくの休暇だと言うのに、なぜこんな早くに。タケルはまどろみの中で呟く。
無理からぬこと、ではある。山あいの新緑が美しい温泉地で、散策する中で見つけた遊歩道の先にあった吊り橋での体験が、思ったより尾を引いているからだ。

   文豪たちがこの地の美しさを短歌や作品に読み込んだことを伝える石碑や案内板を見ながら、川に渡された吊り橋を踏み出す。微かに揺れるその橋に足を進めながら、彼はとある心理実験の話を思い出した。
   ランダムに選んだ男女を、最初は1人ずつ、次はお互いすれ違うように歩かせる。すれ違うように歩かせた男女は、その後お互いに対しての関心が高まると言う。吊り橋が揺れると言う恐れの感情と、相手に対しての恋愛感情を脳が錯覚する、と言うのが定説らしい。

   ……だとしたら、俺はきっかけが欲しかった?
   この関係を、一歩踏み出すために。違う。錯覚したい、してほしいんじゃない。一緒に、いたい。何があっても、この手を離さないでいたいから。

   すぐ隣で、ナオトが身動きする気配がした。

「……起こしたか?」

「いや、大丈夫。……おまえこそ、大丈夫か?」

   気遣うように伸ばされた指先が頬に触れた瞬間、昨夜の記憶が蘇る。吊り橋を渡る錯覚でも構わない。二度と、離れたくない。そんなことを口走ったような気がする。

「……後悔、するぞ。」

   随分と長く続いた沈黙の後に、ナオトはまっすぐにタケルを見て、静かに答えた。

「だったら、後悔させてくれ。錯覚だって、思い込もうとしたことを。」

   意識まで焼き尽くすような熱にうかされて、吐息を絡めあい、確かめ合う。触れることの出来ない想いに手が届かないもどかしさと、伝えきれない感情を言葉にする代わりに、お互いの名前を呼ぶ、狂気じみた、それでいて深く満たされる時間。望んだこととは言え、大胆なことをした自分に、タケルは顔に熱が上るのを感じた。ナオトは少し呆れたようにため息をつく。

「そんな顔するなよ。こっちが後悔しそうだ。」

「そっ……そんなっ……」

「なんでもっと早く気づいてやれなかったって。」

「……ナオト。」

「もう試さなくてもいいから。俺も、おまえと離れたくない。」

   優しい腕がタケルを包み込む。
   吊り橋の揺らぎは、もう必要なさそうだ。タケルは心地よい眠りに身を委ねた。

おわり

おまけ

「タケル、目が覚めたら頼みがある。」

「何?」

「浴衣、もう1回着ないか?せっかく柄が選べるって聞いてたけど、浴衣着たおまえ見る前にこういうことになったから……」

「……ごめん。」

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