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しんぐ・あろんぐ しんぐ・ふぉ・あ・ろんぐ

Sing along, Sing for a long.

はじめに

 これを書いているのは2021年12月4日の朝である。空には綺麗な青空が広がっており、太陽が出てもなお空気は冷えている。早朝に第三回Vtuber楽曲大賞が発表され、もしかしたら自分の関わった楽曲も入っているかもしれないと思っていたが、無かった。第二回の『星凪の地』の時は無いだろうと思ってトイレに入り、出てからMV部門6位だと知らされるという事があったので、つくづく期待と結果という物は難しいなどと思う。
 さて、企業に所属しない、いわゆる個人勢と呼ばれる人々がランキングへほとんど入らなかった事が各所で言われているが、先に言っておくと、これについて人々は全く悲観する必要が無い。
 まず前提として、少なくとも前回は個人勢もファンに対してロビー活動を展開していた末の結果なのであり、その点で企業のVtuberと平等であった。条件が平等であるからこそ、そこに豊かな未来を見たのである。第三回の結果は個人で活動するVtuberにとって絶望的で、圧倒的な現実が示されたのだろうか? 答えは否だ。
 あるいはもう少し言うと、わざわざこの記事を開いたような人は、もしかしてこう思っていないだろうか? どんなに面白くて、クオリティが高い曲やMVを作る人がいても/作っても、もう何をしたって、日々追加される膨大なコンテンツの流れの中に埋もれてしまうのだと。答えは断じて否である。依然として未来の輪郭は示されており、陰ることは無いという事を、過去こそが教えてくれる。
 この文章では、アニメーションと音楽の関係を追い、いかにして現在のアニメーションMVが形成されていったかを考えたい。もちろん、Vtuberのオリジナル楽曲MVは手描きのアニメーションに限らず、もっと様々な表現が許されているし、そこが魅力だ。アニメーションMVは全体のほんの一部分でしかないが、同時に、これを書いている人間の大きな部分を占めているコンテンツでもある。どうかお付き合い願いたい。

アニメーションと音楽 アニメーションMV以前

 愉快に動き、トーキー技術によって音を鳴らす『蒸気船ウィリー』を始めとしたサウンド・カートゥーンが、うさぎのオズワルドと大半の社員を失ったウォルト・ディズニーの窮地を救ったように、また、それよりも早くフライシャー兄弟が『ソング・カーテューンズ』にて”バウンシングボール”による観客参加型の子供向け短編映画を作り、人気を博したように、元々商業アニメーションの歴史において音楽は非常に重要な位置を占めていた。特に後者に至っては、長編トーキー映画としては世界初となる1927年の『ジャズ・シンガー』よりも早い段階で短編アニメーションに音を付けていたのだから、1920年代のアニメーターたちがいかに音の要素へ注目していたのかが伺える。
 これはなぜなのだろうか? ウォルトがミッキーマウスを創造したとき、そこにはあきらかな児戯、無邪気さへの視線があったとの回想が残っている。(当時のカートゥーンのすべてが子供向けだったかと言うと決してそうではなく、例えばガムでおなじみ”フィリックス・ザ・キャット”のアニメーション第一作のラストは、世界に絶望したフィリックスのガス自殺で終わる)
 画面に登場するあらゆるものが愉快に音を発する、”ミッキーマウシング”は、子供がおもちゃで遊び、その反応を楽しむ様子とリンクしているのだ。トーキー技術の登場によるミュージカルへの接近は当時の映画全体に見られた現象であるが、アメリカ商業アニメーションの世界ではとりわけ子供向け作品のために豊かな音の世界が探究された事を覚えておきたい。この影で、ミッキーマウスにも喜劇的要素として引用されたチャップリンらサイレント時代の巨人たちは、トーキーという時代の大きな流れに乗れず、最終的に没落していく事になる。

 さて、賞の話である。賞と言ってもアカデミー賞短編アニメーション賞の話だ。1932年の第5回アカデミー賞からこの賞は設置されたが、それ以後1937年の第十回に至るまで、全てディズニーの『シリーシンフォニー』シリーズが受賞している。シリーシンフォニーは自然や子ぶた、風車小屋や音楽の国など様々な者たちが主役キャラクターになり、ミュージカルを繰り広げるアニメーションシリーズである。アカデミー賞短編アニメーション賞受賞第一作となった『花と木』は三色テクニカラー方式による世界初のカラーアニメーションであるなど実験の場としても機能し、ディズニーの戦前における芸術的な側面を大いに補強した。その成果が1940年の空前の大作『ファンタジア』へと繋がっていく。そしてこれ以後は『ダンボ』『バンビ』など新たな動物キャラクターを主役にした作品や、時勢を汲んだ軍事色の強い仕事が目立つようになる。戦争がやって来たのだった。


戦争・テレビ・ロックスター・アニメ

 『白雪姫』、『ピノキオ』、『ファンタジア』、『ダンボ』………、ディズニーの技術と人気は頂点に達し、『ガリバー旅行記』、『ポパイ』、『スーパーマン』などを発表し対抗馬であり続けたフライシャースタジオは、1941年の太平洋戦争直前、『バッタ君町に行く』の公開と失敗を最後としてパラマウントにより買収され、その後栄光を取り戻すことは二度となかった。『バッタ君町に行く』のラストのようなファンタジーは、ファンタジーのまま終わってしまい、ここに趨勢は決した。ディズニー社は企画力、技術とクオリティ、政治力の全ての分野で勝っていた。
 そして戦後、プロパガンダからのアニメーションの復員とでも表現すべき時代がやってくる。第二次世界大戦からの復興を経て、イギリス、フランス、イタリア、東欧、ソ連、日本など各地で独自のアニメーションの探究が盛んに行われた。東欧の人形劇文化を参考に人形アニメーションを創始したチェコのイジー・トルンカや、フランスのポール・グリモー、ソ連のソユーズムリトフィルムの名前は『チェブラーシカ』で聞いたことがあるのではないだろうか。どの国もディズニーの模倣から出発し、やがて独自の表現を模索していった。この動きは戦争前後のアメリカ国内でも巻き起こっており、力をつけたMGMがトムとジェリーシリーズで1940年代のアカデミー賞短編アニメーション賞へ姿を現し、長編路線のディズニーに取って代わって、短編アニメーションには猫と鼠の時代がやって来た。次いで『ダンボ』制作時、ディズニーのスタジオ内で巻き起こっていたアニメーターたちの労働争議の末、ディズニーを離れたアニメーター達が制作スタジオUPAを設立、平面的でデザイン的なアニメーションの旋風を巻き起こす。これはディズニーですら1953年の『プカドン交響楽』でUPAスタイルの模倣を行うほどであり、全ては後のテレビ作品とリミテッドアニメーションの時代へ向けての準備となった。
 そう、戦争から帰って来たアメリカのアニメーションたちには新たなフロンティアが待っていた。テレビ、そしてロック・スターの登場だ。

 ミュージック・ビデオの始まりは、ビートルズが生出演できないテレビ番組向けへ、編集した演奏映像を提供したところからだと言われている。ビートルズの人気はアニメーションの世界にまで及び、1965年からABC放送にてビートルズを主役とした『アニメ・ザ・ビートルズ』が放映された。そしてスタッフの一部は後に1968年のアニメーション映画『イエローサブマリン』を制作する。

 それまではいくらミュージカル・アニメーションと言っても、あくまでアニメーションが主であり、音楽は劇伴という形で従の位置についていたものが、ビートルズの強力な音楽性、スター性によって逆転したのだ。演者とその音楽が主であり、主役であり、その場においてアニメーションはプロモーションのためのメディアになった。元々広告に供される機会が多かったアニメーションにとって、音楽自体がプロモーションする対象になったその時、アニメーションMVの萌芽が生まれた。アニメーションMV紀元ゼロ年と言えるのではないだろうか。

  ところでその頃の日本のアニメーションはどんな様相を呈していたのだろうか? 戦後、劇場用長編を手掛ける東映動画が設置され、『白蛇伝』をはじめとして多彩な作品を制作し、また黎明期の人材育成に寄与した。一方、TCJはセイコー社をはじめとした企業のテレビCMを手掛け、テレビにアニメーションが流れるその基礎を作った。そして1963年、手塚治虫によって虫プロが設立され、手塚自身の漫画を原作に、日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』が放映を開始した。手塚が漫画を描く傍ら、ディズニーのアニメーションに焦がれ続けていた事は覚えておきたい。あの印象的な主題曲も含め、手塚の関わったアニメーションにはしばしばクラシック音楽がかかる。
 やがてTCJと東映動画が次々とテレビアニメーションへ参画し、また人材の育成と流動化が進んだことによって、多種多様なテレビアニメーション作品が放映されることとなる。同時に、日本アニメーション業界においての漫画原作の強力さは、あの『風の谷のナウシカ』ですら漫画の雑誌連載が前提であった事などに色濃く表れている。テレビ玩具の好調はホビーアニメを生み、ホビーアニメが培った視聴者層の土壌は、後に青年向け作品への道筋を付けた。こうした日本の商業アニメーションの、欧米とは異なる特殊な産業構造は、やがて”アニメ”というアイデンティティを生むことになる。アニメはアニソンを生み、小説やサントラ盤などと協働するメディアミックスが展開されるようになった。
 1980年代、アニメとそのコアなファンの発生は、ビデオテープを購入することでしか観ることのできないOVA作品という形態を産み出すことになる。1983年、却下されたテレビアニメ用企画をビデオ向けに制作し販売した、鳥海永行と押井守の監督による『ダロス』がその始まりである。
 ところで、アニメーションMVのオーパーツとも言うべき作品が存在する。スタジオジブリと宮崎駿による1995年の『On Your Mark』PVだ。CHAGE and ASKAの同名の曲のMVだが、完成された世界観とジブリ流のアニメーションが画面に横溢していつつ、歌詞の拾い方や主人公たちの造形などで楽曲との美しい調和がとられている。個人的な感想だが、私のアニメーションMV観の核のあたりにはこの作品がある。

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民主化の時代

 この頃、MVは新たなスターたちを迎え躍進していた。1981年にはアメリカのケーブルチャンネルとしてMTVが開局され、24時間ノンストップでポピュラーソングのMVを放送し続けるほど、既にMVという存在は普及していた。ラッセル・マルケイの監督による『ラジオ・スターの悲劇』MVがスタートを飾り、1983年にはかの有名な『スリラー』MVが放送され、熱狂的な話題を呼んだ。ラッセル・マルケイはMV制作からその主なキャリアをスタートさせた人物である。既にMVというジャンルが才能を生む源となっていたのだ。
 一方、1970年代から1980年代にかけて、フィルムを利用した映像カメラに取って代わる形で民生用ビデオカメラが普及したことは、個人の映像作家たちに広くビデオアートの道を開き、また音楽業界により広いプロモーションの可能性を示した。この時初めてMVは高価な撮影機材や映画フィルムを消費できる一握りのスターたちの物ではなくなったのだった。

 ツールの変化は続く。1990年代にはパソコンとデジタルツールが普及しはじめた。FLASHで制作され日本の掲示板で共有されたアニメーション群は有名だが、アニメーションをパソコンで作ろうとする動きは、Macintosh、AmigaやMS-DOS搭載マシンの歴史の初期から積極的に行われてきた。
 同時に、アニメーションの世界でも仕上げ・撮影・編集のデジタル化が始まった。最初は主に実験的な映像を求めて取り組まれていたが、アニメーション・セルの生産が絞られてしまうと、純粋な意味でのセル・アニメーションは絶滅するようにして姿を消した。印象的な作品を上げておこう。2000年の細田守『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は東映アニメーション初のデジタル劇場作品であり、沖浦啓之の『人狼 JIN-ROH』はProductionI.Gとして最後の長編セルアニメ作品だ。
 この誰にも止められない大きな流れの中、動画投稿サイトYoutubeが2005年にサービスを開始した。日本ではニコニコ動画が2006年にサービスをスタートさせ、掲示板のFLASH文化の流入が起こった。
 ここでようやく2つの世界が交差する。インターネット上で個人制作アニメーションを公開している作家の中から、後にWEB系と呼ばれる沓名健一、りょーちも、山下清悟らアニメーターたちが商業アニメーションの世界へスカウトされる流れが2004年から2007年にかけてあり、テレビアニメ『ぼくらの』などを中心としてFLASHによるデジタル作画とその表現が現場へと持ち込まれた。『鉄腕バーディー』、『電脳コイル』、『ヤマノススメ』といった作画にこだわりや実験を持つ作品の一部を作り上げることになる

 デジタル化・ネット化による変化は音楽の方面からも起きる。2007年、VOCALOID「初音ミク」が販売を開始し、ボーカルをVOCALOIDに任せた音楽がニコニコ動画上で話題になり始めた。初音ミクにはソフトの歌声をイメージしたイラストが付随しており、翠の髪色をしたツインテールのアンドロイドという個性は、ボーカロイド楽曲のビジュアル化という点で大きな役割を果たした。オリジナルのJPG画像を公式サイトからダウンロードできた事から、同じ静止画が使用された動画が数多く投稿されたが、同時に、キャラクターを投稿者自身か、他者に委託する形で描く事も盛んだった。
 2008年に投稿されたオリジナル楽曲『サイハテ』の動画は”アニメ風PV”と題されており、作曲者自身によるデジタルイラストがパーツ分けされ初音ミクが作画に頼らない方法で動く他、拡縮やスライドを使った映像表現が試みられている。動画投稿サイト発の音楽カルチャーにおいて、MVは当初からしばしば商業アニメ風のルックを志向していたが、その方法論はFLASH以来の文脈にある。
 2011年にはじん(自然の敵P)により、『人造エネミー』に端を発するVOCALOID楽曲が一連のカゲロウプロジェクトという物語として投稿された。MVに登場するキャラクターは基本的にVOCALOIDのキャラクターとは関係なく造形されており、大きく表示された歌詞、イラストをモーショングラフィックスによって動かす事によって、作品世界を表現している。シリーズ5作目である2012年の『想像フォレスト』では部分的に手書き作画によるアニメーションが使用されており、また7作目の『如月アテンション』MVでは手書き作画がさらに増えほとんどのカットに動きが付けられており、短編アニメという形へ接近しようとしている様子が見て取れる。ただ重要なのは、ただテレビアニメへ接近しようと定方向の進化を続けているわけではなく、モーショングラフィックスと常に関係を保ち、作品によって適切な配分を探ろうとしている事だ。VOCALOIDの声質と特有の早口に圧縮された歌詞を楽しむためにはモーショングラフィックスが重要な役割を果たしていると同時に、ある時期を境に、インターネット発楽曲のスタイル、アイデンティティとして認識され、現在まで発展を続けている。

 じんとアニメーションMVについて、もう一つ触れておきたい。2013年の『日本橋高架下R計画』はMV全編が未知に富んだアニメーションで構成されている。細金卓矢を監督として、先述したりょーちも、山下清悟を含む気鋭のWEB系アニメーター達が多数参加しているという点で、1990年代後半から2010年代前半までに起こった一連の流れを俯瞰できる作品と言えるのではないだろうか。アニメーションとアニメーションMVが個人作家によって民主化された時代であり、その成功の結果として、大きな商業システムに回収される予感を孕んだ時代へと入っていく。ハチがボカロPとして活動し、米津玄師としてメジャーデビューした時期もちょうどここに重なる。


Vtuberの登場とコロナ渦

 2018年に登場したずっと真夜中でいいのにのMVにおけるアニメーターWabokuの存在や、MVにおいてコロリドなど商業スタジオから『春ひさぎ』『又三郎』の勝見拓矢による非商業スタイルのアニメーションまでを内包するヨルシカ、2019年に『夜に駆ける』のアニメーションMVで一躍ヒットを遂げたYOASOBIなど、ここ三年間の音楽シーンは、常にアニメーションMVと共にあるように感じる。これは2019年以来のコロナ渦にも影響を受けており、実写MVの撮影が困難となった時期にもコンスタントに発表を続けられる理由となった。VOCALOIDと歌い手文化を母体に持つAdoが、『うっせぇわ』にてモーショングラフィックスに僅かな作画という、動画投稿サイトが育んだスタイルを継承したことも印象深い。

 そしてもう一つの流れとして、2016年の末にキズナアイが登場し、そして5年が経った。おそらくこれを読んでいる人達の方が詳しいから省くとするが、Vtuberの傍には音楽があり続けた。
 にじさんじとホロライブのオリジナル楽曲、Vtuber音楽シーンにおける花譜を筆頭とした神椿の台頭、KMNZとワニのヤカとsomuniaなどに見られるヒップホップ文化の参加。電音部など周縁文化の発生、個人勢と企業とユニットと箱と。そして彼らは、過去の幅広い楽曲をカバーすることを通じ、Vtuberを過去の様々な文脈へと接続していった。そこにはVOCALOID楽曲やアニソンから、J-POP、ヨーロッパやアジア、相対性理論や平沢進やYMOやみんなのうたやジャズまですべてが存在する。カバー曲に新たな解釈でイラストやMVを付ける事によって、そのイマジネーションまでも導入し、翻案しようとしている。2020年代のVtuberというジャンルにおいて、カバーという行為には、従来とは異なる意味が付与される事を強調しておく。

 『蒸気船ウィリー』が発表された1928年から2021年現在まで、実に100年近くの歴史を俯瞰し、現在のアニメーションMVがどのようにして成り立ってきたかを見てきたわけだが、どうだっただろうか。個人的なメモ書きの感覚で書き始めたため、データや時系列などに誤りがあったら申し訳ない。出典も一切明記していないため、資料的な使い方はせず、あくまで私家版と割り切って受け止めていただけたら幸いである。自分がいまどこに立っているのか、一度見直してみたかったのだ。
 さて、こうしてみてみると、アニメーションMVが普遍的なものになったのは、映像や通信にまつわる様々なツールが開発、普及され、それを生かそうと四苦八苦したクリエーター達がいたからだ。トーキーを生かすためにサウンドカートゥーンが生まれ、テレビアニメとスターからアニメーションMVが生まれ、ディズニーから国産アニメが生まれ………。誰かが新たな手法や表現を開拓すると、いくら荒れ果てたとしてもその道を試してみる者が必ず現れ、そして次に受け継がれていく。
 発想力というレベルでは、マジョリティもマイノリティもまったく関係ない。あなたの手元にもしコップ一杯の水があるのなら、止まることなく永遠に流れていく川へ、それを注ぐ事ができる。注がれた水は、未来へと永遠に流れていくのだ。

 ところでアニメーションとかインターネットだとかいう、大きくて情報量の多い不透明な川を覗き込むと、川面へ映った自分の顔が見えてくる気がする。個人的な話をしよう。自分がアニメーションを作り始めたのは2015年、高校生の時だった。今は恥ずかしくてサムネイルすらまともに見れないが、GIMPとムービーメーカーと使い慣れないペンタブで、懸命にやっていたことを覚えている。確かジブリに憧れていた。Pixivのめちゃくちゃすごいイラストにも憧れていた。それから2年余りの間、絵を書いたり、ノベルゲームを作ろうとしたり、シェアワールド企画に参加してアニメを作ったり、文を書いたり、文をアニメにしようとしたりしてきた。インディゲームの制作に参加し、2分か3分ほどのアニメPVを作った後にプロジェクトが大崩壊した時、二度とアニメなんて作るか、と思ったりしたことを覚えている。だがVtuber界隈で色々をやっている間に人から声をかけられ、2020年に『Born To Be』や『星凪の地』のアニメーションMVを制作した。Vtuber2人、演奏家1人、アニメーター1人のチームだった。
 楽しかった。あの時の仲間はバラバラになってしまったが、どうか元気でいてほしいと思っている。2021年はお仕事をいただく形で『アノニマス』、『いたいよ』のMVを作ったが、これも楽しかった。

 『いたいよ』はアニメーションでは無く人形劇だが、わざわざMVに人形劇という手法を選択したのは、2018年から続けていた「Vtuberの表現により多くの可能性を持たせる」という投機の実践をしたかったからだ。他の三作は全体的に、歌っているVtuberが登場するものの主役ではなく、それぞれ固有の登場人物が存在する短編アニメーション寄りのしあがりになったが、これはMV含むコンテンツが属人的になりがちなVtuberというメディアに対して、より広い表現の可能性を持ち込もうとした結果だった。Vtuber自身の物語に収れんされない部分を作ろうとしたのかもしれない。歌手が自分の事しか歌わないわけではないように。常にジブリ作品を意識し、フライシャー兄弟の手法を引用した事も、より広い範囲の文脈へ接続したかったからなのだ。これは川の下流から水を汲んできて、上流へと流してみる行為だと言える。

 気付いたらもう5日の朝になっていたので、ここらへんで切り上げる事にします。延々と一万字近くありがとうございました。これからもコップでドバドバしていきます。

 終


 
 

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