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よくよく、沃野 肉の野

わたしは「リアスひとり歩き」と勝手に名前をつけ、日本のリアス海岸を歩いています。リアス歩きを始めた理由は、2011年に岩手県の宮古市に移り住んだ時、その海岸沿いの豊かな文化に触れた事や、日本の原発がリアス海岸に多い事。まずはとにかく歩いてみようと東北は三陸沿岸から福井県の若狭湾、愛媛県の西予市の沿岸を歩いてきました。

↑小浜からおおい町のある大島を望む景色

↑西宇予市明浜町狩浜を望む景色

2018年の夏は福井県の小浜を訪ねました。現地で地図を眺めていると、「八百比丘尼入定の洞窟」があるという空印寺を見つけました。八百比丘尼とは、人魚の肉を食べてしまい800年生きたという女性の名前です。800年の間に椿の木を植えながら日本中を歩いたという伝説があり、小浜に帰り亡くなったのが前出の洞窟なのだとか。八百比丘尼の伝説は日本各地に残っていて、わたしが住んでいた栃木県にも彼女を祀る神社が存在します。

↑ 栃木市西方町真名子にある、「八百比丘尼公園」

栃木県の八百比丘尼公園には、18歳の時に不老不死の貝の肉を食べ800年生きたという八重姫が、尼になった自分の姿を彫ったとされる八百比丘尼尊像が安置されている八百比丘尼堂や、800年が過ぎてなお変わることのない自分の姿を映したといわれる真名子八水の一つ姿見の池があります。その土地土地で不老不死の肉は、人魚だったり貝(九穴の鮑)だったりするようです。

柳田國男の「雪国の春」の中にも、山伏が皮のない朱色の魚で"ニンカン(一説では感人羹カンジンカン)"という名前の肉を調理して出したという記述があります。これも人魚の肉で、食べたものは長命であったとの事。

わたしの実家は薬屋で、勉強のため様々な漢方薬が家に置いてあった時期がありました。薬、というと現代は顆粒の粉だったり錠剤だったり、デザインされたものを渡されるのでなかなかイメージ出来ないけれど、そもそもは食べ物を食べることと変わらないんですよね。よくお客さんが言う、「俺は一生薬を飲み続けなきゃならないのか?」「薬漬けだ!」。薬も食べ物として考えると見方が変わってくるのではないでしょうか。人魚の肉の話も、薬を売るために作られた物語かもしれないけれど、それだけでは収まりきらない、体の底からぞくぞくしてくるような欲を感じます。

わたしはここ数年、岩手県の宮古市や一関市の千厩町に暮らしていましたが、その土地その土地で独特の食べ物、食べ方がありました。最近見つけて惹かれたのは、葛巻町の「ほっぺた餅」という名前のおやつです。

↑葛巻町の産直で見つけた「ほっぺた餅」

岩手県では様々な餅の食べ方があります。産直の方になぜこの名前なのか聞いてところ、応えは「子どものほっぺたみたいでしょう?」との事。確かにあずきの部分が小さい子の上気したほっぺたみたいです。優しく子の両頬を包むようにつくられているのだと、子の健康を祈る母親、おばあちゃんの気持ちが伝わってくるような形です。実際に食べてみた時、おやつを食べているという感覚とは何か外れた、ただならぬ気持ちが湧いてきました。逆に健やかな子から命を分けて貰えたような、与えてあうような感覚です。あまりに可愛すぎて食べちゃいたい、わたしたちの深いところを流れる、野性の一端が起き上がってくる思いがしました。


「よくよく、沃野 no.37」
2019
530㎜×780㎜
アクリル、サショー紙


「よくよく、沃野 no.36」
2019
1600㎜×1060㎜
アクリル 、サショー紙

今回のCygに出品している「よくよく、沃野」と名前がついている作品達は、人魚の肉から、食べること、食べられることを考えながら制作していたと思います。食べたり食べられたりというどろどろに溶けて混ざり合う感覚。もっと怖がらずに触れていきたいです。

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