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うつろう景色

〈time for project - TIME FOR TEA お茶の時間 〉
増子博子個展「うつろう景色」
場所:松坂屋静岡店 北館2階 Blanc CUBE 2,3
2023年3月1日(水)-7日(火)

 私は2006年より、自然と人間との協働で生まれる盆栽の景色をペン画で制作しています。そして2011年からは、様々な土地で生活していく中で出逢ったものや人から影響を受けた作品を制作しています。
 栃木県の益子では、明治期から昭和30年代にかけて土瓶などの絵付をしていた皆川マスの描く山水の景色に出会い、その筆致に魅せられました。1日に何百と同じ絵柄を描くうちに、その景色は描く人そのものとなって現れるように感じています。

 山水土瓶は明治時代に流行し、様々な絵付師によって描かれてきました。同時代に発達した鉄道網によって、人々はより遠くの景色を観に行けるようになりました。そして自身に馴染みのある景色と新しい景色とを重ねあわせてきたのでしょう。そしてその鉄道の旅に合わせて生まれてきたのが汽車土瓶です。
 本展では、そんな山水土瓶や汽車土瓶に描かれ続けてきた景色をテーマにしたインスタレーションと、盆栽の景色をテーマにした作品で構成されます。
 汽車土瓶発祥の地と言われている静岡の地で、様々な景色の重なりや繋がりを見出せたらと思います。


上:「移ろう風景 皆川マスの絵付家より」2020  
下:「径庭no.5」2019  
増子博子
益子で作られ、静岡駅で売られていた汽車土瓶「静岡」 
撮影:増子博子 協力:益子町教育委員会
汽車土瓶

 明治5年、日本初の鉄道が新橋-横浜間で開通します。そして明治22年には新橋-神戸間がつながり、人々は一気に長距離を移動できるようになりました。鉄道の利用者が増えるにつれて駅弁が生まれ、それにお茶がつくようになります。そのお茶が入って売られていたのが汽車土瓶です。この汽車土瓶が初めて売られたのが静岡駅の駅弁屋ではないかと言われています。

汽車土瓶は益子や信楽、白石、瀬戸など様々な窯場で作られていました。益子製の汽車土瓶は、東海道線、中央線、常磐線、東北線、磐越西線、奥羽線、信越線など北は米沢駅、西の端は静岡駅で売られていました。汽車土瓶は需要が増えるにつれ、流行していた山水が描かれたものなどから、駅名や弁当屋の名前が書かれたシンプルな姿形へ変容していきます。これは汽車土瓶の需要が増え、段々と省力化が進んだことも影響しているのでしょう。
参考資料:「益子町史」、「信楽汽車土瓶・畑中英二・2007」
焼成の際くっついてしまった汽車土瓶 中に器が入ったまま焼かれる。               一度にたくさん焼けるようにとの工夫の跡が伺える
撮影:増子博子 協力:益子町教育委員会
皆川マス[1874-1962]

 皆川マスは栃木県益子の絵付け師です。明治7(1874)年栃木県真岡市西田に生まれました。マスが10歳の時に益子のトバ絵※描きだった皆川傳治郎の養女となり、陶器の絵付の修行を始めます。マスが一人前の絵付け師になった明治22(1889)年、新橋から神戸間の鉄道が全線開通し、人は今までより遠くまで移動できるようになります。 人の移動が増えていくにつれ、お茶を入れる土瓶の生産量も増えていきました。益子では、土瓶の最盛期には一人の職人が一日に500個から700個を描いたそうです。一日に何百個も同じ作業を繰り返す時、その人独特のリズムが生み出されていきます。リズムに乗ることで作業の効率も良くなるのでしょう。山水の絵柄には、山、松、水面に浮かぶ帆掛け船、東屋、橋などが描かれていますが、どんどん省略されて一見すると何が描いてあるのかわからないものもあります。しかしその筆致は、流行していた明治時代から100年を過ぎてもなお、人々を惹きつけます。

 土瓶の生産は大正期、昭和初期を過ぎた頃からガラス製やポリエチレン製の容器の登場により徐々に衰退していき、山水を描く職人も減っていきます。しかし、マスだけは生涯山水の絵柄を描き続けました。


※トバ絵 江戸時代から明治初期にかけて描かれた日常生活を題材とした戯画を指す。傳次郎は看板や灯籠絵などをよく描いていた。

参考資料:「益子町史 第5巻 窯業編」1989(益子町)、「民藝 」 1997年7月号(日本民藝協会)
皆川マス 写真提供:皆川要
山水土瓶 絵:皆川マス 増子博子蔵
土瓶絵 皆川マス作 増子博子蔵
民藝運動と皆川マス

 益子の土瓶の最盛期を過ぎ、大正年間、昭和初期に入ると土瓶の需要が徐々に減り、絵付け師も少なくなっていきました。しかしマスは、これしか出来ないとばかりに一人山水などの絵付を続けていました。
 そして大正13年、のちに益子の父とも呼ばれる濱田庄司が益子にやってきます。きっかけは師である陶芸家・板谷波山の工房で山水土瓶を見つけたことでした。濱田はそれが、自分が小学生の頃、教室でお昼などに湯を沸かしていた馴染みある山水土瓶であることに気がつき、それが益子で作られていることを知ります。山水土瓶がきっかけで益子に興味を抱いた濱田は、益子に間借り生活を始めます。濱田はマスの土瓶絵に非常に感心し、彼女の絵を推奨しました。
 間借り生活をしていた濱田は、昭和5年に益子の道祖土に自宅と仕事場を構えます。濱田の元には民藝運動の同志であった柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチ、棟方志功などが訪れ、益子は民藝運動と深い関わりを持つようになっていきます。民藝運動の騎手等は皆川マスの絵付と人柄に関心を持って付き合いました。柳は彼女を「無名の工人」と呼び、強く賞賛しました。マスの絵付を「益子土瓶絵づくし」(昭和9年)に記録として残しています。

 彼らの目によって、マスの描く山水を当たり前にあるものと気にもとめなかった地域の人々の見る目も変容していきます。昭和10年には東京の松坂屋で開催された「日本民窯展」にて絵付を実演しました。その3年後にはベルリンで開催された「第一回国際手工芸博覧会」に皆川マスが絵付をした土瓶が出品され、ヒトラー賞を受賞しました。

 濱田庄司は民藝運動に関連させ、益子に手仕事村を構想します。そして藍染や木工などに携わる職人たちに自身の構想を説きました。益子には、皆川マスの絵付けを見て昭和天皇が詠んだ歌が掛け軸になって残されていますが、歌を濱田庄司が書き、マスが土瓶絵を、表装には藍染の布や、陶器で出来た軸棒が施され、益子の木工職人が作った桐箱に収められています。「手仕事村」という濱田の理想が、それらに吹き込まれているように感じます。

 彼らとマスの交流から生まれた炎が、今も益子の土地をあたためています。
皆川マスの絵付に見入る棟方志功 写真提供:皆川要                      
昭和天皇の歌「さえもなき 媼のゑがくすゑものを 人のめつるも おもしろきかな」
書・落款印:濱田庄司
土瓶絵:皆川マス
資料提供:皆川要
皆川マス筆 益子土瓶絵づくし、1934、柳宗悦
「益子土瓶絵づくし」より上山水の図柄
昭和10年11月22日から松坂屋上野店で開催された「現代総合陶窯展」で絵付を実演する皆川マス(一番左) 提供:皆川要
皆川マスの絵を継ぐ皆川ヒロ

  皆川マスも高齢となり、彼女の絵付の継承者がいない事を、柳宗悦や濱田庄司は気にかけていました。彼らと親交が深かったバーナード・リーチもマスの技が失われてしまうのではないかと心配し、浜田に何度も相談していたそうです。

 さて、皆川ヒロは昭和7(1932)年益子町に生まれました。祖母は絵付師の皆川マスです。ヒロは小学校6年生の頃から、マスの後継者として絵付の指導を受けます。修行を10年積み、益子の各窯元で絵付を行いました。平成7年に益子町に「山水の店 みなかわ民芸」を開店します。店内にはヒロが絵付した陶器のほか、マスの絵付した土瓶や新聞記事、写真や、マスとバーナード・リーチの共作などが飾られていました。平成16年にヒロさんが亡くなったのち、令和に入った現在はお店は閉じられています。

 皆川ヒロの絵付はマスからその絵柄が継承され、一見すると違いがわかりません。「民藝」などと意識などせずにただ淡々と描いていたマスと、「民藝」として見つめられてきた絵を受け継いだヒロ。時代と人と共に変容してきた山水の景色が、それぞれの土瓶の上に広がっています。

山水土瓶 絵付:皆川ヒロ 増子博子蔵
皆川ヒロ 写真提供:皆川要
土瓶絵 皆川ヒロ作 増子博子蔵


これからの益子山水

 益子にて皆川マスさんの山水土瓶について聞いてまわっていた時、「益子の陶芸家は一度はマスさんの山水を描いてみたことがある。表には出さないが、、」という話をしてくれた陶芸家の方がいました。私はその話を聞いた時、それぞれの陶芸家が今描く山水画が心を占領していき、それらがどうしても見てみたくなりました。益子で聞いて歩いていると、益子で器などを扱う「陶庫」さんのご主人が、「ちょうどここ数年、皆川マス、ヒロさんの山水を残していきたいと考えている所だった。実際に描いてみている陶芸家がいる」という話をしてくれました。そして紹介していただいたのが、益子の陶芸家、岩見晋介さんと近藤康弘さんです。岩見さんは2016年に皆川ヒロさんが亡くなった時、その絵付が失われてしまうのではと気に掛かり、話を聞いたり、山水の陶片を集めた展示会を益子で開催したり、山水を描くワークショップを開催したりと活動をしていた所でした。

 今回の展示では、岩見さんが描いた山水を、栗谷昌克さんがデザインしたTシャツをご紹介します。皆川マス、ヒロの描いてきた山水は大量に生産されてきた中から生まれてきた景色であり、現代ではそのような絵付方法は取ることが出来ません。しかしながら、彼らの山水に惹かれ、それを描き移してみるという行為の中に、何かそれぞれの景色、繋がりが浮かび上がってきます。
株式会社 オフィスましこのね

地域振興を主な目的に様々なコンテンツ制作、企画運営などを行っている会社。
https://office-mashikonone.jp/

地域資源の調査、情報収集と発信の観点から益子山水に関するプロジェクトを発足。
2017年に道の駅ましこで開催された企画展示「土は語る -過去編-」にて山水土瓶の展示や紹介を行う。
益子山水の魅力を沢山の人に伝え残して行きたいとグッズの制作を始めました。

岩見晋介https://mashiko.com/artist/shinsuke-iwami/

1989年多摩美術大学卒。1995年に栃木県の陶産地益子にて陶芸を志す。1999年に独立。以来益子由来の原料による作陶を続けている中で、2016年に益子山水の最後の伝承者、皆川ヒロさんの他界を期に益子山水の保存に興味を持ち、オフィスましこのね代表栗谷昌克氏と共に企画展示「土は語る-過去編-」にて益子山水の展示やワークショップを企画。Mashiko Sansui Tシャツのデザインを担当。
風まかせの語り部

さて、益子の陶芸家である近藤康弘さんは、山水が描かれた風鈴を制作しています。その風まかせの風鈴の音色は「山水土瓶」という歴史の積み重なりを、語り部のように伝えてくれます。
山水土瓶風鈴について 近藤康弘

今こうしている間にも、後継者がおらず、失われていく伝統文化があります。

「やりたい事が見つからないという若者が一人でもそこに入ってくれれば、技術は残るのになぁ〜…」

なんて思っていたある日、継承者のいない山水土瓶の絵付を習ってみないかというお話をいただきました。今はまだ教えてもらう事ができる、こんな機会はない、一期一会。…という流れで、軽い気持ちでお受けし、教わる事となりました。

益子の人間にとって、山水土瓶は第一回人間国宝になられた濱田庄司氏を益子に住むことに導いた、健康的な美しさをやどした大切な存在です。その重みに山水土瓶を作っていこうという覚悟が決まらず、しかし何かの形には残したいというもやもやから思いついたのが山水風鈴です。

一日千個描かれた山水土瓶、上手く描くには相当数をこなさねばなりません。習うより慣れろ。まだ数十個にみたない制作は未熟そのものですが、早過ぎる流れの現代に少しノスタルジックにさせてくれる風鈴は、自身を含めて何かを感じてもらう種になってくれればなぁという願いがこもっています。


近藤窯  近藤康弘

1978年 大阪府千里に生まれる
1997年 京都で陶芸を学ぶ
2004年 益子 榎田勝彦氏の元で焼き物の修行を始める
2009年 益子町に築窯独立
山水土瓶風鈴 近藤康弘
山水汽車土瓶

 もう一人、以前益子で作られていた山水汽車土瓶を新たなかたちで引き継ぎ残していこうと尽力されている方に出会いました。益子の地域おこし協力隊として着任した木村晃基さんです。彼の祖父は益子の伝統工芸家の木村三郎さん。三郎さんは皆川ヒロさんが絵付していた土瓶などを制作しており、晃基さんの実家の工房にはヒロさんが来て絵付をしていました。子供の頃からその絵付に慣れ親しんできた晃基さんは、その図柄に子守唄のようなものを感じるのだと話してくれました。
山水汽車土瓶 木村晃基
山水汽車土瓶への思い 木村晃基

益子で大正時代によく作られていた汽車土瓶の形に山水を絵付しました。益子焼の歴史の中で忘れられてしまいそうなもの、なくなってしまいそうなものに光を当てる作品を作りたいと思いました。

益子焼にはおよそ170年の歴史があります。
それぞれの時代に合わせた焼き物を作り現在まで産地として残り続けてきました。
益子焼というとどっしりとした厚みがあって、ボテっとしている濱田庄司さんの影響を受けた焼き物を想像すると思うのですが、今回の展示では濱田さん以前の益子焼、濱田さんが益子にくるきっかけになった益子焼を作りたいと思いました。

汽車土瓶とは大正時代に益子でよく作られていた形で、いまのペットボトルの代わりとして駅で販売されていました。益子で出土された当時の物は軽くそして薄く作られていました。プラスチックが普及されてからは製造されなくなってしまいましたが、帽子のようなコップが上についている形はキャッチーで今の時代でも通用する形だと思っています。

山水とは里山の風景を抽象化した模様で明治時代によく作られていた山水土瓶に描かれていました。当時の絵付師さんは1日に何百個とこの模様を描いていたといいます。皆川ヒロさんが私の祖父がロクロで作った素地に絵付けするために実家の工房に来ていたこともあり、子ども頃から慣れ親しんだ模様でした。しかし、今では現役で絵付師として仕事をしている人はいなくなってしまったと思います。
私は山水を益子焼の過去にあった模様としてしまうのではなく、現在も描かれている模様、そして未来につないでいく模様にしたいと思っています。まだまだかつての益子焼の絵付師さんの線には及びませんが、一つの挑戦のあかしとしてご高覧いただければ幸いです。

益子で働き始めてから、現在まで益子焼をつないできた方々のおかげで今の益子があるということを感じます。この恩を未来につないで行くために、今の時代で自分にできることをやりたいと思います。
その一歩目として今回の展覧会で作品を紹介していただけることを大変ありがたく感じています。

木村 晃基

2020年 専修大学経営学部修了
2021年 京都府立陶工訓練校修了
2021年から益子陶芸美術館工房スタッフとして勤務
2023年2月

今回は私が出会った三人の方々の山水への思いをお聞きすることができ、また展覧会でもご紹介ができて大変嬉しく思っています。山水への眼差しはこれからも様々に積み重なっていきます。

山水の変遷

私が初めて皆川マスの絵付に出会ったのは益子陶芸美術館の2階に並んだ火鉢です。そこになんとも洗練された山水の絵柄が描かれていました。その絵柄は山水を現していると気が付かないくらい省略された景色でした。私はその達者な筆致に強烈に惹かれました。美術館の喫茶店には益子焼きのコーヒーカップがずらりと並んでおり、好きなカップを選ぶことができます。私は先ほど見惚れた山水が描かれたカップでコーヒーを飲むことができました。店主に尋ねると、その絵柄はマスさんではなく孫のヒロさんが描いたものだ教えてくれました。人から人へ、同じ山水の景色が受け継がれていることに興味を持ち、それからというもの、マスさんの絵付の模写を日々何十枚も行う日々が続きました。私の場合はどうしても一枚一枚描いてしまおうとし、マスさんやヒロさんの筆致を真似することは非常に難しいことを体感したのでした。
柳宗悦が皆川マスについて書いた文章の中で、                     「この安土瓶に高い真理を感じる作家が出たら、彼の仕事はその性質を変えるでありましょう」
と述べています。(総合文化誌「心」7巻1号 1954年発行) 
柳自身、皆川マスの描く山水に触れ、自身の思想などに震えをもたらしたことから出てきた言葉ではないだろうかと感じます。

さて、明治時代の山水土瓶の最盛期には、益子に10数名の絵付師がいました。益子には茨城の笠間や福島の相馬、愛知の瀬戸など様々な土地から職人が出入りをしており、様々に技術が流入してきていました。そんな絵付師の中でも女性はマスさん一人だったそうです。彼ら絵付師は益子の各窯に呼ばれ、一日何百もの絵付を行いました。益子ではマスさんが最後まで山水を描き続けており、濱田庄司らによって見出されましたが、他にももちろん美しい山水を描ける絵師が多くいたのです。
下の写真の山水土瓶は加藤庄吉が絵付をしたものです。山口民芸店の山口孟さんが見せてくださいました。益子町史によると、加藤庄吉は安政4年常陸国岩瀬に生まれました。常陸の出身だったことから水戸屋を名乗り、益子にいた祖父に連れられて益子へ来たと伝えられています。庄吉は主に江川佐吉窯で絵付を行っていました。その山水図は流れるように描かれた線がとても美しく、見つめているとすっとその世界に溶け込んでしまいそうです。
山水土瓶 加藤庄吉作
大塚平八窯・伝習所(大正後半期〜昭和13年)作者不明
資料提供:益子町教育委員会
福島県浪江町は大堀相馬焼で描かれていた山水土瓶
現在大堀相馬焼きの窯元が多くあった地域は帰宅困難区域に指定されており、
それぞれ新しい土地で制作を行なっている。
産地不明の山水土瓶 信楽で作られたという話も伝わるが、正確な産地はわからない

山水の模様は図柄は違えど昔から日本各地で描かれていました。中国からもたらされた山水の思想が日本に伝わり、その図柄は大衆へ広まるにつれ変容し、大量生産によって簡略化されていきました。その図柄に「著作権」などという感覚は無く、ただひたすらに描かれ続けることで、職人の身体性がより顕になっているように私には感じられるのです。
展示風景

展覧会は3月7日までと短い期間ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

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