くまにんげんになって
私と熊との繋がりは葛巻町に引っ越してきた春、一頭の熊に出逢ったことから始まります。2階で寝ていた時のこと、夜中の2時頃に、家の外壁をひっ掻くようなバリガリガリッという物凄い音に起こされました。強盗か何かと思い恐る恐る窓から下を覗くと、大きな黒い生き物がゆったりと体をくねらせるように歩いていくところでした。ああ、いるんだなぁ、と腹の底から感じたのを覚えています。今までも子熊を見たことはありましたが、大人の熊を見たのは初めてでした。それからというもの、暗闇全体が熊であるかのように恐ろしくなり、常に熊を意識するようになっていったのでした。
そんな熊との関係性が強く結ばれ始めた時に、上高山兼太郎さんの木彫り熊と出逢ったのです。
上高山さんの木彫り熊に魅了された私は、葛巻町で見つかった上高山兼太郎作の木彫り熊に箔合紙を当て、娘のスガ子さんやお孫さんと対話をしながら、チャコールでその彫り痕を写しとることをはじめました。まず彫りあとに触れてみたいという気持ちがきっかけでした。上高山さんは何を考え、どんな風に彫ったのか。身を重ね、真似ぶうちに、私の制作も乗っ取られていったのです。
木彫り熊に触れ、彫り痕が紙面に浮かんでくるうちに、その熊の彫り痕から、「人間」が立ち上がってきたように感じられてきました。
くまにんげん→くまんげん。私の田舎ではクマバチの事をクマンバチと呼んでいますが、スズメバチの事をクマンバチと呼ぶ地域もあります。その土地によって呼び方も変わってくる「クマンバチ」。その呼び名の移り変わりや発話した時の音感から、この熊拓を「くまんげん」と呼ぶことにしました。
くまんげん、くまんげん くまんげんとは何なのでしょう。
調査をはじめて暫く経った頃、聞き取り調査に伺う際に、「熊のお姉さん」「熊」、などと呼ばれる事が増えてきました。調査対象の名称で呼ばれることは、思いのほか嬉しいことでした。私はくまにんげんになったのです。
くまにんげんになってみて、真っ先に思い浮かぶくまにんげんたちがいます。まずは雪崩研究家、エッセイストである高橋喜平さん。彼のエッセイ集、「ツキノワグマ物語」の中には、彼が新潟に住んでいた頃に熊穴に入ってみた時の話があります。その熊穴は、ミズキの高穴に入口があり、木の内部が空洞になっていました。彼は直径35センチほどの入口から内へと、服を脱いで身を捩りながら入り込んで行きます。そして熊の敷いた枯葉の中にうずくまり、熊になりきって、うううっと吠えてみたというのです。
「熊になってみたのは俺ぐらいなものではないだろうか」
喜平さんは、調査をしているうちに自分自身も調査対象へと身を重ねていたのだろうと思います。
そしてもう一人のくまにんげんは画家のサルヴァドール・ダリです。彼は小さい頃、両親から貰った熊のぬいぐるみ「Don Osito Marquina」(ドン・オシト・マルキナ 交流のあった詩人のガルシア・ロルカが命名)を、妹と共に、遊び相手として肌身離さずに大切にしていたといいます(現在はカタルーニャ玩具博物館に収蔵)。大人になってからは自宅の玄関に巨大な北極熊の剥製を置いておき、「ミューズに見放された時には、ファンタジィを取り戻すために」北極熊の腕をとり、身を寄せるのです(朝日新聞社『アサヒグラフ』1953.1.14 )。
喜平さんは、小さい頃に子熊を飼い、自分で世話をした事があったそうで、著書の中には熊との思い出が繰り返し語られています。ダリも、傍にいつもいた熊のぬいぐるみを召喚する装置として、北極熊の剥製を側に置いていたのかもしれません。
「ぶるんぶるん、震える腕」
葛巻で木彫り熊の聞き取りをしていた時のこと、ならやま菓子店を営む楢山ミワさんがこんな話をしてくれました。
「大工さん達はね、腕をふるいたくて仕方ない。自然と手が動いてしまう。ぶるんぶるん震える腕さ」
葛巻には、木彫り熊の他にも、祖父が孫のために木の枝の部分を牛の角に見立てて作った「ベゴ」と呼ばれる牛のおもちゃや、牛そのものを彫ったもの、竈神、仏像など、さまざまな木彫りが残されています。大工さんたちの中には、手があくと何かをつくってしまう、そんな”ふるえる腕”を持った人たちがいたのでしょう。
そこで今回は、展覧会に出品する什器を、私が自分のイメージで設計したものから、大工さんがいいと思う、作りたいと思える展示台へ変容していくことを容認しました。その大工さんは葛巻の田野木工所営む方で、とても丁寧な仕事をする方です。2020年の秋、私は失礼にも田野さんに「木彫り熊を彫っていただけないか?」とお願いに行ったのでした。そこから色々話を伺う機会が増え、お仕事をお願いする機会も増えて来ました。そしてあんなに大きな、熊の脚のようなものが出来上がりました。ここのあたりはみる人にはあまり伝わらない部分かもしれないですが、ものづくりにおけるイメージの差異や、拡がりを試しています。
「移し/移り-熊景をたどる-」へ出品した記録映像について
今回、「くまんげん」に付随する記録映像をともに展示しています。
2020年の初秋より、私は上高山さんの木彫り熊を探して岩手県内を歩いて来ました。そこで出会った木彫り熊を、持ち主の許可を得てフロッタージュしてきました。会場で流れている映像は、上高山さんの孫の一也さんとの作業風景です。フロッタージュをしながら、世間話をしていると、さまざまな話が開かれていきます。
「触 覚が記憶を切り開く」というテキストは、木彫りの熊に触れ、対話をしていった時にしたお話や、私の記憶などを混ぜて書いたものです。映像と合わせて読んでいただくように、字幕のような方法をとっています。
触 覚が記憶を切り開く
私の祖母は宮城県大崎市、岩出山町に住んでいました。昔は炭焼きを生業にしていた農家で、森の中にぽつんと家がありました。牛が一頭、家と一つづきになった小屋に飼われていて、たまに種付けに借り出されていきました。外にあった便所には、大きな銀色虹に光る蝿がいました。家にはいつも猫がいて、内と外を自由に行き来し暮らしていました。祖母はその猫のことを「タコ」と呼んでいました。私はずっと、哺乳類に海の生き物の名前をつけているなんて洒落ている、と思っていました。しかし、その猫がいなくなり、次の猫が来ても、祖母は猫を「タコ」と呼んでいたのです。祖母に理由を尋ねてみると、その前も、その前もタコだよ。とのこと。よくよく聞いていると、祖母は、猫という一括りを指してタコと呼んでいるらしいのです。調べてみると、この岩出山の方言で、猫のことをタコ、またはターコタコタコ、などと呼ぶのだそうです。祖母は猫に名前をつけていた訳ではなく、ただ猫として呼んでいただけなのでした。名前をつけて飼うのではなく、ただ供にいるだけ、という関係性にハッとしたのを覚えています。
混ざり合いの中で、名を持たずに生き、大きな一括りの名前で呼ばれる。それは面白いんじゃないだろうかと感じたのを今、思い出しています。
上高山兼太郎さんの木彫り熊に出会い、魅了された私は、彼はどんな風に彫ったのか、その彫り跡にまず触れてみたいという思いから、木彫り熊のフロッタージュを始めました。木彫り熊の持ち主と対話をしながら、彫り跡に紙の上から触れつつ、彫り跡を写しとっていきます。上高山兼太郎さんの孫、一也さんと話をしながら木彫り熊に触れていきます。
一也さんが小さい頃、兼太郎さんの息子の兼汜さんと、よく近くの川で遊んだそうです。兼汜さんは川に入ると、手掴みで魚を捕まえたそうです。その親指の爪は、鋭くナイフのように尖らせてありました。捕らえた魚をその爪で捌き、小さい子どもたちに食べさせてくれたのだそうです。私はその話を聞いた時、その爪で捌かれる魚になっていました。川に入って魚を捕まえ、甥っ子たちに魚を与える様子はまるで、親子の熊のよう。鋭く尖らせた爪が、一つの情景を切り開いていくのです。
上高山さんはどのようにして彫ったのか。身を重ねるように調べ、繰り返し真似ぶうちに、自身の制作も乗っ取られ、開かれていくのです。
最後に
かつて一人の人物が彫った木彫り熊に出会い、そのものに身を浸してみることで、私自身も制作も変容していきました。しかし、いくら木彫り熊に触れて、話を聞いても、本当にわかるということはありません。そこには大きなへだたりが明らかになっていくばかりでした。
今回、大きな衝立のような展示にしたのも、その大きなへだたりをあらわしたかったからでした。
今回、木彫り熊のフロッタージュをお許しいただいた皆さま、衝立の制作にご協力頂いた田野木工所さま、安井商店さまに、心より御礼申し上げます。
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