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こんなことになるなら知らなきゃよかった

 友人と飲んでいて「井の中の蛙」は幸せか不幸せかという話になった。 私は、広い世間のことを知ることができないんだから不幸だ、と言った。

 ところが友人は、世間を知らなくても、それはそれで幸せかもしれない、と言う。まわりの人が何と思おうが、本人が幸せと思っているなら幸せなのだ、というわけである。
 なるほど、それも一理ある、と、目から鱗が落ちた。

 別な話に置き換えてみよう。ただしここでは、本来の意味の「井の中の蛙」ではなく、単に「知らないことは幸か不幸か」という意味で。
 A子さんが、自分の理想とする条件の8割を満たす男性B夫さんと出会う。A子さんは「8割も満たしているなんて、あたし幸せだわ」と大満足。

 ところが、隣町にはA子さんの理想を10割満たす、つまり完全に満たすC雄さんがいるとする。
 しかし、A子さんはC雄さんの存在を知らない。知らぬがゆえに、8割のB夫さんで満足している。
 まさに私の友人の論のケースにあたるが、はたしてA子さんは幸せなのか。それとも不幸せなのか。

 さて、ここでA子さんがC雄さんの存在を知った場合の展開を想定する。C雄さんを知った場合はいくつかのパターンが考えられるが、ここではとりあえず二つだけ。
 一つはA子さんがめでたくC雄さんと結ばれた場合で、この場合はストレートに幸せとなり、めでたくハッピーエンドとなる。

 もう一つのパターンは、C雄さんの存在を知ったのはいいが、運悪くC雄さんにふられるという場合。A子さんは実らぬ恋に苦悶の日々を送る。しかも、相手は条件を完全に満たす男性だけにダメージも大きい。
 さらに、いつまでも思いを捨てきれないとしたら、“次点”であるB夫さんへの気持ちが再燃することもなく、不幸の二段重ねとなる。
 あげくのはてに、それがもとでB夫さんにも去られてしまうことにでもなればなお悲惨だ。

 というわけで、「こんなことになるなら、C雄さんを知らないほうがよかった。知らないままB夫さんと結ばれていたら、何ほど幸せだったことだろう」ということになり、私の友人が唱える「知らなくても、それはそれで幸せかもしれない」という結論に行き着く。

 ところで、そもそも「井の中の蛙」を幸と不幸とに分けること自体が愚かな考えなのかもしれず、「おい凡筆堂、なにを見当違いのことを言っているのだ」という声も聞こえてきそうだ。
 私はそれを承知で分けたが、結局、答は個人個人の価値観や人生観によらざるを得ない。したがって、幸せであると同時に不幸せでもあり、正答などはないということになる。
 強いて言えば、余計なことに思いをめぐらせず、「現状がいちばん幸せ」とでも考えるのが無難なような気がする。

            ☆   ☆   ☆

 ところで、ご存じのかたにはお節介になってしまいますが、「井の中の蛙大海を知らず」は、中国の古典『荘子』の中の、「井蛙は以て海を語るべからず」が元になっています。
 そのいわんとするところは『(井戸の中の蛙は井戸の中しか知らないので、海とはどんなものか話してもむだであるという意から)見識の狭い者に高い道理を説いてもしかたがないというたとえ』(旺文社:成語林)ということです。
 ですから、本項で述べた「広い世間を知らないことは不幸か」は意味が本筋からそれていますが、ご容赦ご承知くださいますよう。

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