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ミャンマー内戦①ミャンマーの来たるべき革命~崩壊から何が生まれるのか?byタンミンウー

ミャンマーは今、後戻りできないところまで来ている。2月に行われた国軍によるクーデターは、既存の憲法の枠組みの中で”外科的に”権力を移譲させることを目的としていたが、その目的とは裏腹に制御不能な革命的なエネルギーを解き放つことになった。

この4ヵ月もの間、800人以上が殺害され、5,000人近くが逮捕されたにもかかわらず、抗議行動やストライキが続いている。4月1日には、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)から選出された議員が、他の政党・団体のリーダーたちとともに国軍の権威に挑戦するため国民統一政府(NUG)の発足を宣言した。そして4月から5月にかけて、国軍と少数民族武装勢力との間の戦闘が激化する中で、新世代の民主化活動家たちが全国各地の軍事施設や行政機関を襲撃している。

今後一年間、軍事政権は権力を部分的に強固にすることはできても、それを安定させることはできないだろう。孤立した時代錯誤の組織にとって、ミャンマーの喫緊の経済的・社会的課題はあまりにも複雑であり、国軍に対する人々の反感も深すぎるのだ。同時に革命家たちもノックアウトの一撃をすぐに与えることはできないだろう。

膠着状態が続けば、経済は崩壊し、極貧が急増し、医療制度が崩壊し、武力による暴力が激化して、近隣の中国、インド、タイなどに難民が押し寄せることになるだろう。そしてミャンマーは破綻国家となり、その機に乗じて年間数十億ドル規模の覚醒剤ビジネスを拡大したり、世界でもっとも貴重な多種多様な生物の宝庫である森林を伐採したり、隣国の中国でCOVID-19の大流行を引き起こした可能性のある野生動物の密売ネットワークを拡大する新たな勢力が現れるだろう。パンデミック自体も衰えることなく進行していく。

植民地時代の遺産

ミャンマーは植民地時代に築かれた国だ。19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリスはベンガル地方からマレー半島にかけての海岸線、イラワジ川の流域(1000年間にわたりビルマ語を母国語とする仏教王国が存在していた)、さらにその周辺の高地(それまで外部の支配を受けたことがなかった地域)を征服した。ミャンマー(当時はビルマと呼ばれていた)は、軍の占領下で築かれ、人種的ヒエラルキーにもとづいて統治されていた。イギリス帝国の国勢調査官は、この国の住民のアイデンティティはあまりにも多様で流動的であり、「人種的に不安定な地域」であると訴えていた。それにもかかわらず、彼らはすべての人々を整然とした人種的カテゴリーに分け、ある者を「先住民」、またある者を「外来人」に分類した。 またイギリスは、大量のインド人移民の労働力と米、石油、木材など世界市場向けの一次産品にもとづいて極めて不平等かつ搾取的な植民地体制を確立した。

ビルマの近代政治は100年前に誕生したが、その核は「ビルマ語を話す仏教徒」という人種的アイデンティティにもとづいた民族主義だった。1937年、宗教上の理由からパキスタンがインドから分離する10年前に、イギリスは人種の違いを理由にビルマをインドから分割した。1948年に独立を勝ちとった新生ビルマは、カレン族やシャン族などのビルマ人以外の先住民族をあくまでもビルマ人の人種・文化の優位性の枠内で取り込もうとした。彼ら少数民族は、2016年と2017年に悪意によってバングラデシュに追放された70万人以上のロヒンギャの人々のように「外来人」に分類され、より不利な状況に置かれている。ミャンマーの国家建設プロジェクトは何十年にもわたって失敗を続け、武力紛争が絶え間なく続き、真の意味で統一国家足りえていない。

そして国軍はこの民族主義の自称守護者である。国軍は 第二次世界大戦以来、絶え間なく戦い続けてきた世界で唯一の軍隊だ。イギリスや日本と戦い、独立後は1950年代にはワシントンの支援を受けた中国国民党、1960年代には北京の支援を受けた人民解放軍、そして麻薬王、自治を求める少数民族武装勢力などの桁違いの敵と戦い続け、その度に多くの犠牲者を出してきた。1970年代以降は戦闘はほとんどは高地に限られ、国軍は少数民族に中央政府の支配を押しつける占領軍となっていた……しかし時折、国軍はイラワジ川流域の都市に降り立って反体制派を鎮圧することがあった。国軍の人員は30万人を超えるまでになった。近年、国軍は中国やロシアから新型戦闘機、ドローン、ロケット砲などを導入している。それは、今や国軍が最終的に支配しないミャンマーを想像することすらできない将軍たちによって推し進められたものだ。

独立後の40年間、歴代の民政・軍政は、植民地時代の経済格差に対応するために社会主義を採用してきた。そしてそのような政府に対する主な反対勢力は共産主義者だった。1960年代当時の軍事政権は大企業の国有化と世界からの極端な孤立の組み合わせだった。しかし1988年にその方向性が変化し、新しい軍事政権が権力を握ると、社会主義を否定し、民間企業や外国との貿易・投資を奨励するようになった。けれどもその後、欧米諸国は勃興しつつあった民主化運動に呼応して経済制裁を加えるようになり、同時に国軍の天敵だった北京が支援する北東部の共産主義勢力が崩壊したことにより、数十年ぶりに中国との交易が可能となった。その結果、ビルマの資本主義は、隣国・中国の巨大な産業革命と密接に結びついたのだ。

1990年代から今世紀初頭にかけてのミャンマーの政治経済は、植民地時代以来もっとも不平等なものだった。違法麻薬シンジケートは、特に国軍が地元の少数民族武装勢力と停戦した地域で盛んになった。木材や鉱業(特に翡翠)は、将軍や武装勢力のリーダーとそのビジネスパートナーたちを潤し、彼らはその利益を国内最大都市・ヤンゴンの不動産に投資したので、住宅価格が数百万ドルまで上昇した。 2008年までには新たに発見された海上ガス田から年間30億ドル以上の資金が軍事政権にもたらされ、さらにこの資金はそれ相当の人脈があれば、おかしなほど低い為替レートで入手することができた。すべての国軍将校が巨万の富を築いたわけではないとはいえ、すべての将校が権力を富に変えることのできる支援ネットワークを利用していたのである。

しかも誰一人として税金を払わず、政府が社会サービスをほとんど提供しなかったおかげで、2000年には世界保健機関(WHO)が発表した国民健康保険制度のリストにおいてミャンマーの福祉制度は最下位となった。また軍事政権は一般の人々から膨大な規模の土地を没収した。そして2008年にはサイクロンによって14万人もの人々が犠牲となった。土地不足、サイクロン、その他気候変動にともなう環境的脅威により、西から東へ、低地のビルマ民族地域からヤンゴンや高地の少数民族地域へ、そして国内からタイへの人口大移動が発生し、現在では300万人から400万人のミャンマー人非熟練労働者がタイで働いている。ミャンマーの民族構成はさらに混沌とし、アイデンティティと居住地が分離した。

民族主義にはイデオロギー的なライバルはいなかった。1989年、将軍たちは16世紀以来ヨーロッパ人が使っていたイラワジ川流域を意味する地理的用語であるビルマから、ビルマ語を話す多数派民族の呼称であるミャンマーに国名を変更した。社会主義や共産主義が否定され、それに代わってビルマ語を話す仏教徒のビルマ人(ミャンマー人)の文化を疑いようもなく中心に据えた、先住民族の連帯という概念にもとづいた民族主義的な物語が生まれたのだ。

民主主義の始まり

10年前、ミャンマーは政治・経済の両方のシステムを開放し始めた。この改革は経済制裁や外交上の理由からではなく、老齢の独裁者であるタンシュエ将軍が、新しい憲法を制定することで自身の安全かつ快適な引退生活を保証するために始まったものだ。彼はいつか自分に反旗を翻すかもしれない新たな軍事独裁者に権力を渡したくなかったので、若い将軍たちが率いる国軍と親国軍政党である連邦団結発展党(USDP)が率いる政府との間で権力を分割するほうがより賢明な選択だと考えたのだ。そして2011年、USDP率いる改革派の元将軍たちは、台本どおりにアウンサンスーチーを含む政治犯を釈放し、メディアの検閲を廃止し、インターネットを自由化し、半世紀にわたって人々が経験したことがなかったレベルの政治的自由をもたらした。民主化を期待した欧米諸国は経済制裁を撤回し、そのせおかげでミャンマーの経済は順調に推移した。2011年のミャンマーではほとんどの人が電話を持っていなかったが、2016年にはほとんどの人がスマートフォンを持ち、Facebookを利用するようになった。比較的自由な時代に生まれた新しい世代の人々は、自分たちの国が豊かで平和な民主主義国家として成功することを切に願うようになった。

しかし国軍は自身の世界に取り残されていた。タンシュエは退役後、比較的若いミンアウンフラインを新しい司令官に任命し、国軍の優位性を守るという明確な任務を与えた。しかしミンアウンフラインをはじめとする新しい将軍たちは、かつての将軍たちに比べて何十年も若く、数十年前のような金儲けのネットワークにはほとんどアクセスできなかった。同時に2011年に始まった改革により、経済における国軍の役割は大幅に縮小した。外貨や企業の独占権に対する特権的なアクセスを失い、国家予算に占める割合も減少し、さらに経済政策に対する発言権までをも失った。かつてのビジネスパートナーの中には新たに参入してきた外国との競争に敗れた企業もあれば、開放的な環境で成功した企業もあった。しかしもはや国軍の大盤振る舞いに依存する企業はほとんどいなくなったのである。

2010年代に入ると、国軍は金儲けを重視せず、暴力の行使を重視するようになった。 将軍たちは武器をアップグレードし、彼ら自身の言葉を借りれば「標準的な現代の軍隊」になることを望んだ。将軍たちの夢は国内で延々と続く紛争を自分たちのやり方で終わらせ、圧力と説得の組み合わせにより、少数民族のコミュニティのために戦う多種多様な武装勢力の武装解除と組織解体を実現することだった。この10年間彼らが焦点を当ててきたのは中国と繋がりのあるアラカン、コーカン、タアンなどの少数民族武装勢力やロヒンギャの民族浄化だった。彼らの妥協を許さない姿勢は、ソーシャルメディア上でビルマ民族主義が盛んになるにつれ、一般市民の間でもある程度支持されるようになった。またイスラム教やあらゆる外国のものを彼らが信奉する保守的な秩序に対する脅威とみなす仏教団体もあった。

2011年から2015年まで、国軍は改革派のUSDPの元将軍たちと権力を共有し、ほぼ友好的な関係を築いていた。しかし2016年、アウンサンスーチー率いるNLDが地滑り的な選挙で勝利すると、彼らは長年の政敵と政権を共有する羽目になった。憲法上、国軍は国防、警察を管轄する内務、国境の三つの省と国会の4分の1の議席を握っていた。しかしアウンサンスーチーは実権を握っていた。アウンサンスーチーは超多数派であったため、どんな法律でも成立させることができ、国の予算や国軍が直接管轄する安全保障問題以外の政府の政策全般をコントロールすることができた。

彼女と将軍たちは年齢や規律、仏教の教えを尊重するなど保守的な価値観を共有し、民族主義的な世界観も似かよっていた。彼らはロヒンギャ追放に対する欧米の反応は不公平であるという点でも一致していた。2019年、アウンサンスーチーは国際司法裁判所において国軍を弁護するためにハーグに赴いた際、利己主義ではなく信念にもとづいて行動した。しかし彼女と将軍たちとの関係はせいぜい険悪といったところで、NLDがクーデターを恐れていた一方、国軍はアウンサンスーチーと欧米諸国が共謀して自分たちを政府から完全に排除しようとしているのではないかと恐れていた。ミンアウンフラインは、ロヒンギャ追放後に去っていった、かつての国際社会の支持者を懐柔するために、アウンサンスーチーがある日突然自分をバスの下に投げ込むのではないかと疑っていた。

政治的緊張が高まるにつれ、国の経済は転機を迎えた。2016年、中央銀行は国際通貨基金(IMF)の助言に従い、ミャンマーの民間銀行に対して新たな健全性規制を導入した。このときミャンマーの全ローンの半分が不良債権となり、かつては白熱していた不動産市場が急落した。アウンサンスーチーは彼女の支持者の多くが嫌っていたビジネスマンたちに対して、突如として影響力を持つことになったのだ。旧政権下で金持ちになった取り巻きたちは、今では彼女の注意を引こうとしていた。彼女の下の技術系官僚たちはさらなる自由化を推し進めた。一方、アウンサンスーチーと親密な関係を築いてきた北京は、中国南西部の雲南省からベンガル湾に至る「中国・ミャンマー経済回廊(CMEC)」をはじめとする数十億ドル規模のインフラプロジェクトを「一帯一路構想」の一環として提案していた。

そしてCOVID-19のパンデミックが発生した。国民の健康への影響は最小限に抑えられたが、ロックダウンや外国貿易の中断により経済は大混乱に陥った。政府の対応はせいぜい貧弱といったところで、被害の大きかった人々への現金支援はほとんどなかった。2020年10月に実施されたある調査によると、それまでの8カ月間で貧困状態にある人々(1日1.90ドル以下の収入しかない人々)の割合は16%から63%に上昇し、調査対象者の3分の1が2020年8月以降収入がないと回答した。しかしアウンサンスーチーに対する国民の信頼は高まるばかりで、彼女は初めてFacebookに登場して医療従事者との対話をライブストリーミングで配信した。何百万人もの人々が経済的問題を彼女のせいにすることなく、自分たちのことを考えてくれる指リーダーがようやく現れたと実感したのだ。

しかしビルマの中心地以外ではすでに警鐘が鳴っていた。ロヒンギャの民族浄化が起こった後、同国西部のラカイン州ではラカイン語を話す仏教徒の民族自決を目指すアラカン軍の台頭というまったく新しい動きが見られた。2018年、アラカン軍は政府機関に対する大規模な攻撃を開始した。これはミャンマーにおける過去一世代で最も重大な武装蜂起だった。2020年後半には国軍の数個師団を釘付けにし、ラカイン地方の広大な範囲を事実上支配下に収めた。

その一方、遥か日本やニュージーランドなどの市場に供給されている覚醒剤産業はかつてないほど盛んになっていた。覚醒剤は中国との国境近くの民兵が支配する地域で生産され、利益の大半はミャンマー国内ではなく、1月にアムステルダムで逮捕された中国系カナダ人ツェー・チー・ロップが率いる強大な多国籍シンジケートに流れ、年間170億ドルもの収益を上げていたとされている。麻薬は、マネーロンダリングやその他の違法産業のエコシステムの拡大を促し、北東部の中国雲南省付近には100以上のカジノがあり、タイとの国境には巨大なギャンブルと暗号通貨のハブが計画されていた。

昨年11月に行われた国政選挙では、紛争の激化や経済の低迷などによる熱気に包まれていた。しかし国民は圧倒的にアウンサンスーチーを支持した。国軍は経済状況から見てNLDは形勢不利であり、国軍の高官たちが少なくとも次期大統領を選ぶ発言権を得ると考えていたので、大きなショックを受けた。それどころかアウンサンスーチーはその勝利の規模の大きさから、さらに強力な権力を持つことになると思われた。アウンサンスーチーとミンアウンフラインの間では相互理解のための努力がなされなかった。ミンアウンフラインは不正選挙疑惑に固執し選挙の再調査を要求したが、彼女はそれを断固拒否した。国軍はこれを屈辱に感じた。しかし一般の人々は、彼女の勝利に感激し、より良い時代が来ることしか想像しなかった。

クーデターと暴動

2月1日、国軍が政権を掌握し、アウンサンスーチーをはじめとするNLDのリーダーたちを逮捕した。これはクーデターではなく憲法にもとづく非常事態とされ、新政権はNLD以外の複数の政党のメンバーと軍人で構成された。ミンアウンフラインは技術系官僚で内閣を構成し、初の公の場でパンデミック後の経済回復を優先することを約束し、数十億ドル規模の景気刺激策を発表した。彼は混乱なく政権を奪取し、NLDを葬り去り、経済の立て直しに専念した後、自分に有利な条件下で再選挙を行おうと考えていたようだ。もしそうだとすれば、彼は世論の動向を完全に見誤ったことになる。

クーデターに対する反応は自然発生的で直感的なものだった。数日のうちに何十万人もの人々が、軍政の終結、アウンサンスーチーをはじめとする市民活動家の釈放、選挙で選ばれた政府の復活などを求めて街頭に押し寄せた。同時に医療従事者の政府病院からの離脱を皮切りに市民的不服従運動が始まり、それは省庁から地方行政機関に至るまで公共部門全体に急速に広がっていった。2月22日にはゼネストが行われ、銀行を含む全国の企業が閉鎖された。またFacebookで、国軍や軍事政権に関係していると思われる個人や企業を組織的に攻撃するソーシャルパニッシュメントが行われた。

国軍はこれを容赦なく取り締まった。当初は抗議活動が自然消滅することを期待して手をこまねいていたのかもしれないが、2月の最終週にはロヒンギャの民族浄化を担当した部隊を含む陸軍のエリート軽歩兵師団熟練部隊が、ヤンゴンやその他の都市に移動し始めた。夜になるとインターネットが使えなくなり、兵士たちは住宅街で無差別に発砲し、手榴弾を爆音で鳴らし、ドアを壊し、人々を連行していった。大半の人が去った後も小規模でさらに強固な抗議活動が続いた。若者たちはその場しのぎのバリケードを作り、盾や時には即席の武器を振り回して兵士の射撃から身を守った。3月14日にはヤンゴン郊外の工業地帯であるラインタヤで数十人が死亡、3月27日にはミャンマー全土で国軍が群衆に向けて発砲し、100人以上が死亡した。

殺戮は抵抗運動を過激にした。民間人が殴られたり殺されたりする映像がインターネット上で公開されたことで、クーデターを阻止したいという一般の人々の願望は、一部の人々の間では国軍を完全に解体するという決意へと変わっていった。デモ参加者たちはR2Pを求める看板を掲げた。R2Pとは、たとえそれが国家主権を侵害する行為であったとしても、国際社会がある国に介入して、その国の国民を人道に対する罪から守ることを義務づける「保護する責任(Responsibility to Protect)」のことである。しばらくの間、ミャンマーの人々の多くは、新たな独裁者から世界が自分たちを救ってくれると純粋に期待していた。しかし3月下旬になっても国際的な武力介入が見られないと、多くの若い抵抗者たちは武装蜂起に走った。例えばインドに近いカレー市では、地元住民が「カレー市民軍」として反撃を決意し、自家製の猟銃で武装し、数人の兵士を殺害して国軍が彼らの陣地を制圧するまで10日間持ちこたえた。その後数ヶ月の間に地元で組織された軽武装のグループが各地で数十個出現した。5月には西部の高地にあるミンダットという町を「チンランド防衛隊」という民兵が3週間にわたって制圧したが、国軍は大砲やヘリコプターを使って彼らを撤退させた。その間、数百人の若い男女が少数民族の軍隊が支配する地域に行き爆発物などの訓練を受けた。5月下旬には警察や行政機関への放火などが数十件、ヤンゴンをはじめとする政権側の標的への小規模な爆弾テロが100件近く発生した。

このような新しいゲリラ運動は、たしかに政権のバランスを崩している。しかし既存の軍隊に対抗する新しい軍隊を作るには、隣国からの大きな援助が必要であり、それは不可能に近い。また国軍の歴史を見ても、かなりの数の軍人が脱走して反乱に加わった例は皆無だ。そうなると広範な反乱を起こす可能性があるのは少数民族武装勢力だけになる。北部のカチン独立軍と南東部のカレン民族解放軍は、すでに国軍の陣地に新たな攻撃を仕かけている。他のグループも政治的支持の表明から武装行動に移る可能性はあるが、総勢7万5,000人ともいわれる民族武装勢力の総力をもってしても、はるかに優れた大砲と航空戦力を持つ国軍には敵わないだろう。さらに3万人の兵力を有する最強の少数民族武装勢力ワ州連合軍は、旧共産党の反乱軍から生まれた中国と深いつながりがある。国軍に好意は持っていないが、全面的な内戦は望んでいない北京の助言には耳を傾けるだろう。

破綻国家としてのミャンマー

ミャンマーを破綻国家に変えるのは、戦場で起きることではなく、現在進行中の経済の崩壊である。一般家庭が依存する観光業のような産業は崩壊し、海外からの送金など他の収入源も崩壊している。2019年には海外の出稼ぎ労働者から24億ドルもの送金があったが、これは世界的なパンデミックの際に既に失われている。衣料品産業は100万人以上の雇用があり、その多くは若い女性で、過去10年間のサクセスストーリーの1つだったが、欧州からの注文が途絶えたことにより壊滅的な打撃を受けている。国内最大の雇用部門である農業は、ストライキで物流が滞り、中国がCOVID-19を恐れて国境を閉鎖したことにより先行きが不透明だ。もっとも危機的なのは、ストライキ、中央銀行の流動性供給に対する意欲や能力の欠如、そして全般的な信頼の失墜などにより金融部門が麻痺していることだ。

けれども経済が危機的になっても国軍は困らないだろう。天然ガスや鉱山からの収入は引き続き国軍の財源となっている。国軍系企業グループは国軍が受け取る通常予算に年間25億ドルほどしか供給していないので、これらの企業に対する外国の経済制裁はあまり効果がない。いずれにしても国軍は250億ドルの国家予算全体を支配下に置いているので、たとえ財政が逼迫しても最初に削減されるのは防衛費ではない。

しかしミャンマーの人々の苦しみは計り知れない。国連開発計画はミャンマーの人口5,500万人のうち半数が今後6カ月間で貧困に陥ると予想しており、世界食糧計画はさらに350万人が飢餓に直面すると懸念している。命を救う医薬品や治療法が極めて不足しており、2021年の間に95万人の乳幼児が結核やポリオなどの病気のために通常受けるべきワクチンを受けられなくなるとされている。もっとも被害を受けるのは、土地を持たない村人、高地の農民、移民労働者、ロヒンギャ、南アジア系の人々、国内避難民など、常にもっとも弱い立場に置かれている人々だ。新しい世代が深刻な栄養失調や教育を受けられずに育つ中、経済は爆発音ではなく囁き声により崩壊していく。

破綻国家としてのミャンマーは、次のような姿をしているかもしれない。国軍は都市部やイラワジ川流域を押さえたものの、都市部でのゲリラ攻撃や反乱の拡大によりその支配を強固なものにすることができない。ストライキは終結したものの、何百万人もの人々が失業し、大多数の人々は基本的なサービスをほとんどあるいはまったく受けられない状態になる。一部の少数民族武装勢力は領土を拡大することができるが、他の武装勢力は空と陸から激しい攻撃を受ける。ラカイン州ではアラカン軍が事実上の政権を拡大し、東部高地では新旧の民兵組織が国際組織犯罪ネットワークとの結びつきを強める。採掘産業や違法産業がミャンマー経済の主要部分を占める。武力闘争が激化する中、何よりもミャンマーの不安定化を恐れる北京は、サルウィン川以東の全領土に対する支配力を強めなければならないと考えていた。ミャンマーは、病気、犯罪、環境破壊の中心地となり、人権侵害も後を絶たたなくなる……。

過去からの脱却

深刻な危機は根本的な改革の機会となりえる。選挙で選ばれた国会議員、市民社会グループ、そして全国の新興抗議ネットワークが、強固な民族間の分断を打破しようとしている現在の取り組みは劇的な変化であり、過去10年間の民主主義の雪解けが成し遂げられなかったことを最終的に成し遂げるかもしれない。つまりそれは植民地時代の人種差別や一世紀にわたる民族主義的な政治的遺産を克服し、差別をなくし、新しい多文化国家としてのアイデンティティを育むことである。同様に重要なのは経済の再構築であり、過去数十年間に極端な不平等をもたらした市場の自由化への依存から脱却し、新しい福祉国家や包括的でダイナミックな開発を可能にする構造改革を成し遂げなければならない。

ミャンマーの未来は決して暗いものではない。成功する改革は内側から生まれるものだが、2月以降に起こったことを考えれば、ミャンマーの若者たちが自国の歴史を本気で変えようとしていることは間違いない。進むべき道を切り開くのは彼ら自身だ。しかし今、世界が行動を起こすことでこの国の苦しみを少しでも和らげ、差し迫った危機を早急に回避することができる。

まず国際社会は、国連安全保障理事会において選挙で選ばれた文民政府への迅速かつ平和的な移行を明確に要求する決議を行う必要がある。この際、中国の同意は不可欠だ。ミャンマーにおける経済的影響力と多くの少数民族武装勢力との深いつながりを考えれば、中国の関与に代わるものはない。中国を含まない国際的な経済制裁は象徴的には重要かもしれないが、それはあくまでも象徴的なものだ。中国が黙認しているだけで国軍は存続できる。しかしそれでも北京は建設的な役割を果たすことができる。中国は将軍たちと常に難しい関係にあり、不安定さを警戒し、民政に戻ることを望んでいるが、次の動きが不透明なままだ。安全保障理事会の決議を実現し、ミャンマーに対する国際協力のための必要な枠組みを提供するには、北京とワシントンの外交が不可欠だ。またミャンマーにとって重要な隣国であるインドやタイ、そして過去10年間の経済成長を支えてきた日本も重要な存在である。東南アジア諸国連合(ASEAN)は、4月からミャンマー政府との対話プロセスを開始したが、いまだに実を結んでいない。

第2に外部勢力はミャンマーの民主化のためだけでなく、ミャンマーの政治社会の広範な改革のために活動するすべての人々を支援・奨励する必要がある。これには人権侵害を監視したり、政治犯の釈放を交渉するためのミャンマーにおける国連の文民プレゼンスを拡大する真剣な努力も含まれる。しかしこの際、ミャンマーの人々に国際的な救済という夢物語を提供し、誤った期待を抱かせないことが重要だ。そのようなことをすれば、国内で必要可能な限り広範な連帯を構築する人々のエネルギーを奪ってしまう。

第3に外部からの支援は、過去の軍政が国際的な孤立に耐えてきたというミャンマー独特の歴史と、何十年にもわたる容赦ない暴力によって形成された将軍たちの独特な心理を理解した上で行われる必要がある。国際社会の常套手段である アメとムチは通用しない。

第4に外国政府は、貧しい人々や弱い立場にある人々をできる限り支援すべきであり、まずはCOVID-19の予防接種に力を入れるべきだろう。しかし、このような支援は、不用意に国軍の支配力を強めることのないように、非常に高い政治的手腕と医療従事者との共同作業によって行われなければならない。国軍に反対する人たちの多くは、革命を引き起こすために経済を破壊したいと考えているが、数週間が数ヶ月、数年と延びていく中で人道的災害の悪化を防ぐためには、民間経済を可能な限り保護する必要がある。国軍とビジネスをしない責任あるグローバル企業は国内に留まることを奨励すべきだ。健康で栄養の行き届いた人々の存在は政治的変化を促すことになるだろう。

各国政府はできるだけ柔軟に国際的に協調しながら、さまざまな取り組みを試みる必要がある。ミャンマーの危機を解決する魔法の弾丸や単一の政策は存在しない。なぜならこの危機は2月のクーデターの結果というだけではなく、何十年にもわたって失敗してきた国家建設、そして多くの人々にとって長い間不公平であった社会経済の結果だからだ。外部の人々は長い間ミャンマーを複雑さを排除したハッピーエンドで終わるおとぎの話のように見てきたが、今、このおとぎ話に終止符を打って、真剣な外交と十分な情報にもとづいた実践的な戦略に切り替える必要がある。そうすれば、魔法のように一夜にしてではなくても、数年のうちにミャンマーが、人々が明確に望んでいる平和な民主主義国家になる可能性がある。

https://www.foreignaffairs.com/articles/burma-myanmar/2021-06-11/myanmars-coming-revolution

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