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ミャンマー内戦②壊滅的な弾圧を受けたバゴーの生存者たちは街の奪還を誓う

ヤンゴン出身のニェン・マウンは今年の2月下旬までバゴーに来たことがなく、バゴーの主要バリケードでデモのリーダーを務めたときは、まだバゴーのことをよく知らなかった。

長年、船乗りをしてきた彼は、妻と4歳の息子と一緒に妻の故郷に住むことを決めていた。しかし、彼が到着したときには、バゴーではすでに残酷な取り締まりの第一波が起きていた。2月1日に政権を奪取した国軍が、その支配への抵抗を鎮圧するために何をしようとしているのかを彼が目の当たりにするのにさほど時間はかからなかった。

バゴーに移住して数日後の2月28日、国軍に腹を撃たれた青年が5人の武装警官に激しく殴られるのを見て、彼は恐怖を感じた。彼らが遺体を放置した後、ニェン・マウンは、もしかしたら彼が生きているかもしれないと思って見に行った。そしてまだ息があることを確認すると、彼を車に乗せて病院に連れて行った。が、その時、警察は彼に向かって銃を撃ち始めた。ニェン・マウンは、車に銃弾の跡が残っただけで何とか逃げのびたが、その時、自分の命をかけてでも国軍の執拗な暴力からデモ参加者を守るために何かしなければならないと決意したのである。

「私はその日のうちに家族と別れ、別の場所で暮らし始め、友達と一緒に拠点を作りました。ノウハウもありませんでしたが、私たちは何としても自分たちの身を守ろうと決意したのです」

31歳の元船員は、革命に参加したことを妻や父に知らせ、ポケットに10万チャットだけを入れて家を出た。

「私は彼らに『もしも連邦軍が結成されたら、私もその一員になるつもりだ。私が死んだら、車や他の財産を売って、お前たちが生き続けられるようにしてくれ』と言いました。私たちのグループは、命を失うことを恐れない人たちだけで構成されていました」

しかし、ニェン・マウンが死を覚悟しただけではなく、海軍に勤務する父親に抗議運動に対する明確な態度を取るように言った。

「私は『人を殺したり、取り締まりに関わったりするなら、私たちの関係は終わりだ』と告げました。しかし父は『それとこらとはなんの関係もない』と言っただけでした」

彼の父はその後、市民不服従運動(CDM)に参加したのだという。

メインバリケード

バゴーでの抗議運動は、市の中心部にある有名なシュエモードー・パゴダの近くで始まったが、国軍が大規模集会を暴力的に鎮圧するために動き出したために、他の地域にも広がっていった。

ニェン・マウンを含む約140人の若い抗議者たちは、3月初旬にセキュリティチームを結成した。彼らは土嚢を使って、バゴーのMa Ga Dit区、Hmor Kan区、Socialist区などの主要な抗議場所にバリケードを築き、ニェン・マウンは最前線の防衛チームのリーダーを務めた。主な拠点となったのはMa Ga Dit区で、毎日午前9時から抗議行動が行われた。これら3つの場所は、いずれも軍の大規模な攻撃の対象となっていた。

防衛チームは交代でバリケードを作った。チームリーダーのニェン・マウンは規律を守ることに真剣で、任務中のアルコール摂取を控えるようメンバーに指示した。

「冗談を言っている場合ではなかったんです。一つのミスが命取りになります。しっかりとした判断力が必要だと彼らに伝えました」

毎日午後4時にミーティングを行い、チームをグループ分けして各区に配属させた。また日々変化する治安状況についても話し合った。

3月14日、Ma Ga Dit区のバリケードを守っていたチームメンバーがエアガンや火炎瓶、手製の武器で警察官2名を殺害したことが、バゴー住民と国軍との対立の転機となった。

その後数週間、この拠点は何度も破壊されたが、そのたびに再建された。セキュリティチームは、絶対に無防備にならないように、キャンプを張って24時間体制で待機した。

4月初旬、近くに駐留していた軽歩兵第77師団の部隊が彼らに向かって威嚇の声を上げ始め、ひどい結果に終わりそうな決定的な衝突が迫っていることが明らかになった。

彼らはいつも夜に警告してきて、ラインタヤでやったことよりひどいことになるぞと言いました」とニェン・マウンは3月下旬にヤンゴンの工業地帯で起きた大規模な襲撃事件に言及した。「彼らは武器を捨てるように警告し、我々が受けるであろう罪状を列挙していました」

しかし、この段階では彼らは諦めるつもりはなかった。即席の爆弾、花火、火炎瓶、そして非殺傷性のガス銃で武装し、これから起こるであろう事態に備えた。ニェン・マウンは、最後の攻撃を受けるまでの緊張した日々を振り返って、「私たちに食料を与えてくれた人たちに、彼らを守り、できる限り持ちこたえようと言いました」と語った。

残酷さに駆り立てられて

当時、Ma Ga Dit区には、幹線道路から外れた車線ごとに番号が付けられた4つのバリケードが設置されていた。国軍が攻撃を開始した4月9日の朝、バリケード1、4、7、13はすべて重装備の軍隊に囲まれた。最初に銃撃を受けたのはバリケード1だった。

ニェン・マウンら約30人は、第1バリケードを攻撃する軍隊を阻止するために、第4バリケードからガス銃や花火を撃ち始めた。また最も強力な武器である爆弾も投げ込んだ。

「手製爆薬を2つ持っていました。それが4つになった。投げたのは自分だから間違いないです。10分くらいは持ちこたえたと思います」とニェン・マウンは振り返る。

しかし、戦争の武器を持った兵士には敵わないとすぐにわかった。

「午前5時10分、軍が手榴弾を投げ、RPGで発砲してきました。その時、第1バリケードが陥落した。私たちは再び防衛攻撃を指揮しましたが、彼らはさらに2発のRPGを使用しました。1つは私の隣に落ちてきて、多くの人が死にました」

バリケード4に退避しようとしたとき、既にバリケード4も破壊されていた。砲撃、手榴弾、機関銃などの激しい攻撃を受けながらも、7番バリケード、13番バリケードへと逃げていった。

「私たちは、7番バリケードに退避しました。13番まで行ったところで、あきらめざるを得なかった。生きて帰れたのは24人だけでした」

4月9日の弾圧では、少なくとも82人の民間人の死亡が確認されたが、地元住民によると、負傷者の多くが治療を受けていないため、実数はもっと多いという。

「負傷者と死者は、ゼヤール・ムニ塔の敷地内に入れられました。そこにいた僧侶が国軍に遺体を家族に返してほしいと頼みましたが、引き渡してくれませんでした」と地元のボランティア・トゥレインは語る。

生き残った人たちは田舎に逃げたが、国軍に追われ、抗議運動に参加していない村でも銃撃を受け続けた。

国軍は、その後2日間、バゴーとその周辺地域で、抗議運動に関与した疑いのある者を一斉に排除する作戦を展開した。

ニェンマウンは安全な場所にいる他の数人のチームメンバーとともに、はるかに規模の小さい防衛チームに対して軍事力を行使する政権の非情さを非難した。

彼らの殺傷力は尋常ではありません。一回の戦闘でこれだけの数を殺すことはないでしょう。彼らはただ残酷さに駆り立てられているんです」と語った。

しかし、このような敗北を喫しても、彼は死んだ仲間の仇を討ち、支援してくれた人たちに恩返しをしたいと考えているのだという。

https://www.myanmar-now.org/en/news/survivors-of-bagos-devastating-crackdown-vow-to-retake-their-city

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