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ミャンマー内戦③半世紀に渡るビルマ反体制派の理念不在

byマウン・ザーニー

この30年間、私はビルマの民主化運動に没頭してきた。最初はアウンサンスーチーのリーダーシップに対する忠実なる歩兵または草の根活動家として。その後は、彼女をはじめとすうる反体制派やその政策・戦略に対して大いに「物議をかもす」批判者として。

私が非常に落胆しているのは、巧みなレトリックを超えた進歩的な理想、個人的誠実さ、一連の倫理的・道徳的理念に対するコミットメントが、良くも悪くも反体制派の頂点に立つビルマ人たちの間に存在しないことが繰り返されているように思えることだ。

2004年の春、私はアウンサンスーチーとの関係を正式に断ち切った。当時彼女は、私が倫理的、戦略的、精神的に救いがたい失敗と結論づけた最後の自宅軟禁下にあった。時代の流れに逆らうことは重々承知だったが、私が”西側諸国による経済制裁の正当性”と呼ぶものに対する彼女の断固とした支持に対して、公に批判し続けた。西側の経済制裁強化の結果、何千人もの縫製労働者ーー主に若い女性たちーーが生活の糧を失ったが、それはわれわれの反国軍という目的になんら明確な戦略的利益をもたらさず、ただビルマのあらゆる層に犠牲を強いただけだった。

当時、アウンサンスーチーを公に批判し、彼女に対して政治的個人的に忠誠を誓わないことは、「物議をかもす」どころか、政治的冒涜的行為に等しく、社会的に排斥されるのが常だった。実際のところ、私はこのNLDのリーダーを批判しただけではなく、彼女を捕らえたビルマの将軍たちとの対話の開始を提唱していたのであるが。 私はアメリカでの亡命生活をあきらめ、ホストの国軍が冗談めかして言ったように”国のゲスト”として帰国し、市民権を回復した。そして、すでに広く嫌われていたビルマの将軍たちと協力して、和解と自力での問題解決を唱えたのだが、民主主義国家である西側諸国からはなんの支援も得られなかった。

その後10年間、マザー・スーーーかつて私も深い愛情を込めてそう呼んだーーは、国内においても世界においてもその台座の上に君臨し続け、私は私で反体制派の政治的荒野の真っ只中に居続けた。マザー・スーの額縁入り写真は、東から西、バンコクの有名な仏教学者で活動家のスラク・シヴァラクのアシュラムにある集会場の壁や、世界的に有名なアナーキストで言語学者のノーム・チョムスキーのMITのオフィスの壁にも飾られていた。チョムスキー教授は、かつて私に「私はかつて彼女の写真をオフィスに飾っていた 」と言ったことがある。ドイツのある上級外交官はベルリンの外務省で同じことをしていた。ビルマの何百万人もの彼女の熱烈な支持者たちの家にも、彼女の写真が飾られていた。 NLDのリーダーに対するビルマ人の一般的認識を反映して、多くの西欧諸国のエキスパートたちが、アウンサンスーチーを”女性の仏陀”という型にはまった聖人君子のように思い描いていたのだ。

元裁判官で、母国エチオピアの野党・民主と正義のための統一党の党首であるビルトゥカン・ミデクサは、『アウンサンスーチーの精神』の書評の中で、「ドー・スーの崇拝者たちは、彼女を反体制派ではなく菩薩と呼んでいる」と書いた。彼女は、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校のミャンマー専門家であるアメリカ人・イングリッド・ジョルトの考察を引用し、「(アウンサンスーチーは)民衆に、慈悲、慈愛、同情的喜び、平穏という人間最高の願望に基づく支配者と被支配者の間の別種の社会契約、すなわち件の4つの崇高な精神状態を思い起こさせたり、想像させたりしている」と述べ、「ドー・スーは、つまり、良心の政治の生きた証しである」と書いた。

もちろん、アウンサンスーチーに対する世界的賞賛は、2019年12月のハーグの国際司法裁判所(ガンビア対ミャンマー大量虐殺事件)で、彼女が大量虐殺を否定し、これが道徳的に断罪されたことにより終わりを告げた。ビルマの反体制運動(複数形に注意)の道徳的・精神的空虚さは、どんなに影響力があったとしても、ただ1人のリーダーの行動、思考、感情では説明できないことを私は理解している。

しかし全般的にビルマ国民は、よく言えばリーダーへの依存度が高く不健康であり、悪く言えば封建的である。これは「先頭の牛がまっすぐ歩けなければ、(先頭の牛に続く)群れはまっすぐ進むことができない」「屋根が雨漏りしていれば、家の床に落ちる雨を止めることはできない」というビルマのことわざからも明らかである。

この「まっすぐ歩けない牛」「雨漏りする屋根」というビルマの比喩的問題は、オックスフォード大学出身のアウンサンスーチーも例外ではない。彼女はノーベル平和賞受賞者かつビルマの反体制派のリーダーとして、2011年にリース・レクチャーズのBBCラジオ番組で、ガンジーの哲学、仏教、キリスト教、規範的でリベラルな人権などから引き出される、さまざまな宗教的・道徳的言説を織り交ぜた講演を行った。

暗殺されたアウンサンスーチー父親の最上の同志だった故ウー・ヌ首相は、失敗に終わった武装抵抗を主導し、道徳的にも政治的にも知的にも著しく類似したリーダーシップの欠如を示したことがある。2018年の夏、私は引退したビルマの学者で活動家でもあるキョーウィン教授のゲストとして、コロラド州ボルダー郊外のロッキー山脈にある彼の家に滞在した。そこで私は、ネウィン将軍(1962~88年)によって追放され、投獄され、亡命を余儀なくされ、ウー・ヌの並行政権の「大使」または「代表」を務めるなどした彼が、数十年にわたってアメリカで行った反体制活動に関する長いインタビューを行ったのだ。 彼は、タイプライターでビルマ語で書かれた1973年3月2日付のヌ元首相が革命家仲間に宛てた内部書簡(全11ページ)の正本を私にくれた。

この手紙の中でウー・ヌは、抵抗運動のトップリーダーたち何人かの金銭的腐敗、抵抗組織同盟(カレン民族同盟や新モン州党など)の少数民族のリーダーによるビルマ連邦からの分離独立の要求について述べた後、「分離独立には絶対反対だ」とはっきりと述べている。それはビルマ連邦の政治的基礎であり、1947年のパンロン条約(植民地後の独立ビルマの政治的青写真)に銘記されていたものだったのにも関わらず。

さらにウー・ヌは、その一環として、人民愛国党が主要メンバーである反国軍連合における審議結果を一切受け入れないことを先回りして明言していた。 彼の言葉をそのまま訳すと「私側(反分離独立派)の票が十分でないことが予想されるので、人民愛国党の党首の辞表を準備していた」とあった。そして「(1948年に独立したばかりのビルマの)首相に就任して以来、私は 『絶対分離独立しない 』という方針を採っていた」とも述べていた。

ヌとアウンサンスーチーという2人の反国軍リーダーは、国内外を問わず象徴的な存在であるが、政治家としても反体制派としても2つの異なる世代に属している。2人とも典型的に(そして意識的に)、民主主義、連邦制、仏教(瞑想、慈悲、欲、幻想、恐怖、憎悪、執着からの解放)といった華々しい言説を利用している。しかし衝撃的なことに、どちらも慈悲と良心という仏教の原則や民主的意思決定や集団権力分立としての連邦制といった世俗的自由主義へのコミットメントしていないように見えるのだ。

アウンサンスーチーがポピュリストたる国民民主連盟(NLD)を独裁的に運営していることは周知の事実だった。彼女は、党創成期においてさえ、党内における民主主義的意思決定を確立しようとするいかなる試みをも阻止し頓挫させた。そのような試みは、高名なジャーナリストである故ウー・ウィンティンとその同僚など有能な進歩的知識人たちによって提案されたが、無駄に終わった。

進歩的(すなわち非民族的)かつ民主的原則の不在は、過去50年以上にわたって反国軍抵抗組織に浸透してきた。 重要なのは、多数派のビルマ族の組織や運動は、多くの民族活動家が”ビルマ族の優越感”と呼ぶものやその政治的権利意識、あるいは多数派の民族主義的排外主義に悩まされてきたということだーー故ウー・ヌの人民愛国党から殺害されたビルマ独立の英雄アウンサン(スーチー氏の父親)の仲間たちが支配する戦争評議会、あるいはアウンサンスーチーの国民民主連盟(NLD)、2021年クーデター後の派生組織である連邦議会代表委員会 (CRPH)や国民統合政府(NUG)まで。

衝撃的に聞こえるかもしれないが、アウンサンスーチーも故ウー・ヌも、ネウィンから現在の独裁者ミンアウンフラインに至る軍事独裁政権という共通の捕虜の歴史的物語を多かれ少なかれ共有しているのだ。ヌやアウンサンスーチーとその忠実な支持者を含む反国軍のビルマの組織、運動、リーダーたちは、自決権を不可分の構成要素とする純粋な連邦主義的権利を拒否し、ビルマ第4共和国を導く……いや独裁的に支配する多数派主義や大衆的政治権利意識にしがみつく自滅的なビルマ仏教徒民族主義とは、彼らのリーダーたちは無縁だと猛烈に否定するだろうが。

国民統一政府(NUG)において、アウンサンスーチーの支持者たちが支配的な地位を占めているという不愉快な事実を指摘する必要がある。 ほんの数年前、国民統一政府の”人権担当大臣”を含むこれらのビルマ族活動家や政治家の誰もが、ハーグ国連最高裁判所でスーチーが大量虐殺の疑いについて国軍を擁護したとき、公然と”マザー・スー”の側に立っていた。

彼らのよく知られた大量虐殺への加担は、ビルマの民主化運動全体に対する国際的な熱意を冷ましたかもしれないが、過去50年間の反国軍独裁運動の様々な波の悲しいトレードマークであるビルマ族中心の国家主義的民族主義は、今や、インド、中国、ロシアによって公然と保護・武装化された大量虐殺政権に対する民主革命という坂道を登ろうとしてる彼らの足かせになっている。

アウンサンスーチーは、1990年の思想の自由のためのサハロフ賞の受賞演説(1990年1月1日)において、「恐怖からの自由」と題して、こう強調している。「典型的な革命は精神的革命であり、国家の発展への道を形成する精神的態度や価値観の変革の必要性を知的に確信することから生まれるものです。物質的条件の改善を目指して、単に公的な政策や制度を変えることだけを目的とした革命が、真の成功を収める可能性はほとんどありません」

確かに。

出典:https://english.dvb.no/the-absence-of-principles-marks-a-half-century-of-burmas-opposition/

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