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【日本・ミャンマー協会 渡邉祐介氏】日本は欧米諸国の体制変革政策に盲目的に同調するのではなく、国軍とアメリカや他の民主主義諸国との橋渡し役となるべきである。

シュエダゴン・パゴダが太陽の光を浴びて輝いていた頃、私はミャンマーの進取の気風に富んだ旧首都ヤンゴンで、「まさかこんなことになるとは…」という思いを抱いていた。それは10年に及ぶ民主化の歩みが突然止まってしまった運命の2月1日の早朝のことだった。賑やかなヤンゴンの朝の街に軍用車両が溢れている光景を見ながら、私はミャンマーの過去の記憶の坩堝に彩られた不気味な既視感に襲われた。

その後すぐに私は、ミャンマーの現在の事実上の指導者であり、彼が取った行動により強い国際的非難を浴びていたミン・アウン・フライン上級大将と常に連絡を取り合っている数少ない外国人の一人となった。私と彼との長い付き合いは、日本とミャンマーの過去100年間の特別な関係を示すものであり、中国の影響力がますます大きくなって”自由で開かれたインド太平洋”の将来が危ぶまれる中、現在の危機を解決するための忘れられがちな重要な地政学的要因と言えた。

現在、地図上で領土的に定義されるミャンマーは、その人を寄せ付けない地形と内部の矛盾により常に制約を受けている地政学的に不可能な命題である。馬蹄形をしたイラワジ川流域は、多数派民族のビルマ族による豊かな農業の地であるとともに、急成長するインド太平洋への入口でもある。一方、盆地を囲む高地は、中国やインドなどの大陸の大国からビルマの中核部を遮断する一方、135の民族を抱えるミャンマー連邦政府と戦う10の武装反政府組織の拠点となっている。

そしてこの事実は、地政学的に避けられないミャンマーの運命、すなわち国家の歴史が中央集権と地方分権の間で常に揺れ動くという結果をもたらしたのだった。その歴史を通じ、ミャンマーには常に外国の影響が忍び寄ってきて、内部のまとまりのなさを悪化させてきた。ユーラシア大陸とインド太平洋の交差点に位置するミャンマーは、大陸系・海洋系双方の大国の策略の犠牲にとなってきたが、海洋系の大英帝国だけが、イラワジ川流域の開放性を利用して全領土を占領することに成功した。特にイギリスの帝国主義的な分割統治政策は、ミャンマーの将来を脅し続けている内部分裂の種を撒き散らした。そのため、特に一世紀に及ぶイギリス統治下で経験した屈辱的な経験は、強烈な、しかしトラウマとなるようなナショナリズムと独立意識をミャンマー国民の精神の中に育んだのだ。

このミャンマーの歴史を解決してきたのは、中央集権と外国からの干渉を防ぐことに没頭している国軍”タマドゥ”を中心とする軍主導の体制であった。それはまさに銃口から生まれた政治権力の具現化だった。ゆえに民主化を求める欧米諸国の圧力は、民族紛争への積極的な軍事支援と同様に、政権の安全保障に対する真の脅威に等しいと考えられる。世界の独裁国家では、このような偏執的な統治方法は決して珍しくはないが、タマドゥ主導のこの政権はミャンマーの民主的な未来を逆説的に志向するという点において稀有な例外と言えよう。

このような逆説は、第二次世界大戦の苦難の中で築かれた日本とミャンマーの特別な関係に由来している。血のビルマ運動が最高潮に達した時、大日本帝国陸軍の鈴木敬司大佐は、著名なビルマの民主化運動家・アウンサンスーチー氏の父であるアウンサン将軍をはじめとする、現代ミャンマーを創った伝説の「三十人組」を支援していた。鈴木大佐はこの三十人組とともにビルマ独立軍を創設してイギリスに対抗し、1943年には文民主導の準独立国であるビルマ国を誕生させた。

このビルマの独立は「アラビアのロレンス」のように東京の都合によるところが大きかったが、一世紀にわたるイギリスの植民地支配から短期間で独立を達成し、民政に触れたことは、近代的な民主主義国家を目指す植民地後のビルマ人の熱意を高めた。実際、第二次世界大戦末期にアウンサン将軍が弱体しつつあった日本軍に皮肉にも反旗を翻した一方で、戦後のミャンマー連邦共和国は、国内では新たな民主主義的実験の運営に苦労していたものの、アジアの国としては初めてかつての宗主国との関係を修復した国となった。

戦後のミャンマーと日本の特別な関係は、地政学的なプラグマティズムに基づいており、歴史的・個人的な結びつきを中心としている。実際、独立したミャンマーは、インド太平洋における日本の不可欠なアンカーとして、日本にとって永続的な地域的利益となっている。その利益が失われたことにより、1945年初頭までに大日本帝国の軍事的侵攻は破滅に終わったが、戦後すぐにこの特別な関係は再開し、敗戦国である日本はインド太平洋地域の主要な経済的後援者として堂々復帰したのだ。1962年にネ・ウィン将軍の軍事政権が誕生した後も、東京はこの新しいリーダーとの戦前の大日本帝国との友好関係を利用し、経済支援を行うことにより、社会主義国として孤立しつつあったビルマと戦略的関係を築いた。この日本とミャンマーの新しい特別な関係は、その後の民主化運動や軍事クーデターなどミャンマーの国内変革の波を乗り越えてきた。日本は、ミン・アウン・フライング上級大将との個人的な関係を含めて東南アジアの指導者たちとの独占的なチャンネルを一貫して維持してきたのだ。

対照的に欧米諸国は、ミャンマーの民主的な未来のためにと称して、その効果が疑わしい体制変革戦略を不断に求めてきた。このようなアプローチは、よく言えばミャンマーの歴史を無視した無責任なものであり、悪く言えば救いがたい戦略的な愚行である。実際、過去10年間のミャンマーの民主化の努力は、皮肉にもアウン・サン・スー・チー氏と新たに関係を築いたせいで、軽率にも国内の民族対立を激化させ、さらには中国の影響力を劇的に拡大させることとなった。実際、アウン・サン・スー・チーの監視下で、中国は中国・ミャンマー経済回廊(CMEC)を本格的に敷き、インド太平洋のすぐ後ろまで北京の進出を許したのである。

皮肉なことに、2月1日にタマドゥがネピドーを敵対的占拠したことで、この中間地帯(【注】ミャンマーのこと)における中国の地政学的プロジェクトの先行きが不透明になり、また北京の意図に対する懐疑心が消えないことから、ミャンマー軍事政権は、欧米からの圧力が強まる中で、新たな後援者としてロシアへ接近した。ミャンマーがロシアとの関係を深めることは、中国の地域的野心を密かに牽制することになる一方、その地政学的風景は2011年の「アラブの春」のシリアに酷似している。欧米が民主化を執拗に推進しても、進行中の内戦と2015年のロシアの軍事介入を防ぐことはできなかった。体制変革という戦略は、世界的に見ても悲惨な結果に終わることが多く、この事実はミャンマーの危機に対する欧米諸国の現在のアプローチに根本的な疑問を投げかけるものである。

このような背景を考えると、国家非常事態下での日本とミャンマー政府との友好的な関係は、ミャンマーの民主的な将来を願う欧米諸国の願いと矛盾するものでは決してない。むしろそれらはお互いに補完しあうものであり、ミャンマーの民主化に向けて日本が忍耐強く経済中心のアプローチを取ってきたことは、苦境に立たされたこの東南アジアの国(【注】ミャンマーのこと)を取り巻く現在の地政学的状況に照らし合わせて冷静に再考する必要があるだろう。

日本は、ミャンマーが安定した民主主義国家へと移行するための基盤となるその経済発展を引き続き支援していく。先日のミン・アウン・フライン上級大将との対話の中で、彼は将来的に文民政府を復活させることを自ら再確認した。実際、2月1日に行われた彼の物議を醸す行動は、2008年の憲法の規定を反映しており、現在の国家非常事態宣言につながっているものだ。言い換えれば、彼が描くミャンマーの将来像は、タマドゥに忍耐強く関与し続け、最終的に民主化をもたらす継続的な経済発展を実現するという日本の伝統的なアプローチに沿ったものなのだ。

このように、日本は再びミャンマーの激動の歴史の岐路に立ち、このインド太平洋の枢軸国(【注】ミャンマーのこと)との関わりにおいて歴史的な選択を迫られている。私は、日本とミャンマーの特別な関係を長年にわたって指導してきた日本ミャンマー協会の事務局長として、日本が欧米諸国の体制変革政策に盲目的に同調するのではなく、タマドゥとアメリカや他の民主主義国との間の橋渡し役になるべきだと主張するものである。実際、ネピドーがその戦略的位置取りのために、ロシアや他の独裁的国家との結び付きを強める中、民主主義諸国の中で唯一日本だけが軍事政権との歴史的な関係を維持している。ワシントンのインド太平洋戦略の下、日本は数十年にわたる経済協力関係を活用し、港湾建設などの戦略的インフラプロジェクトを支援することによって、タマドゥと直接協力して中国の地政学的影響力を逆転させることができる。現在のミャンマーの危機に対するこのような冷静で実際的な対応は、中国の地政学的野心によってますます脅かされている”自由で開かれたインド太平洋”に向け、急成長しつつある地域協力にとって歓迎すべきものである。

1919年に発表された名著「民主主義の理想と現実:復興の政治学的研究」の中で、ハンフォード・マッキンダー卿は、第一次世界大戦後のユートピア的な錯乱状態を嘆き、戦争で荒廃したヨーロッパの戦後復興を主導する上での地政学的な慎重さについて提言した。このマッキンダーの長年の知恵は、今日のミャンマーにほどよく当てはまるものはない。第二次世界大戦中に築かれた日本とミャンマーの永続的かつ特別な関係は、タマドゥが長年にわたって日本を敬愛し、民主主義を最終的なミャンマーの統治体制と考えていることの証左である。現在のミャンマーの危機を解決するには、外国の価値観を押し付けるのではなく、この国(【注】ミャンマーのこと)の歴史を尊重し、民主化に適した政治的環境を整えるために経済発展させることから始まることである。国際社会が一世紀前の戦間期の愚行を繰り返さないためにも、このミャンマーの危機において日本は模範的なリーダーシップを発揮し、平和そして最終的な民主化に向けたより強力な経済協力のために、タマドゥとの特別な関係をさらに強化する道を歩むべきである。ワシントンと東京が民主的なミャンマーへのコミットメントを新たにする中で、日本は”自由で開かれたインド太平洋”のためにミャンマーの軍事政権を導くという歴史的な使命を自覚し、たとえアメリカや他の民主主義同盟国の行動と乖離しても臆することなく行動しなければならないのだ。

https://thediplomat.com/2021/05/on-myanmar-japan-must-lead-by-example/

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