心とは。

1日色々忙しくしているとあっという間に時間が流れていく。
その間にネットのニュースもSNSでは流れていく。
時々心が動くものがあると、それに従って、
何か呟いたり、拡散したりするけど、
そこに何か確固たる基準というのがあるわけではなく、
そのとき自分の心が動いたものに対してそれをするようにしていて、
それが後になって何か、理由がわかったりすることも結構ある。

いつも着ている洋服や住んでいる家。
スマホに入っている画像や履歴。
いや、画面にヒビの入った電源の入らないスマホであっても。
普段は何気なく使っているペンや消しゴムだって。
無くなってはじめて、それが自分のものだったと気づき、
それがいかにいかにかわりが無いものかというのを思い知る。

https://x.com/colabo_yumeno/status/1761279575898894674?s=20


<学生時代、ボランティアについて「消しゴムを落とした人がいたら拾う。それと同じだ」と親友が話した。 そのことを私はよく思い出すのだけど、この本でも、「ペンを落としても誰も拾ってくれない職場や拾ったら見返りを求められる職場では誰も働きたいと思わない」と、そうした行為が社会を維持するために必要なことであると書かれていた。 「消しゴムを落とした人がいたら拾う。」その当たり前を手放したくないといつも思っている。>

これはツリー丸ごといいから、
どこか切り取るのはよくないと思いながらも、
この話の中身としてここを引用させてもらう。

先日、こんなことがあった。
電車で席が一つ空いていて、家族三人で乗って、私が座らせてもらった。
(子どもはお母さんいいよ。って座らなかった)
隣の人が席を立とうとしていて、
次の駅で席を立って別のところに移動したので、
思わず自分たちのためと思い、お礼を言ってしまったら、
実は別のところに一緒に乗った人が座っていて、
そちらに移動しただけだった。っていう話。

お互いにクスッと笑って、その話は終わったのだけれど。
そういう小さな心の動きひとつ一つが人を人たらしめているのだと思う。

そう、それで思い出したけれど、
以前の電車で、こんなこともあったのだよ。
前にも書いたかもしれない。

子どもが救急車で運ばれて、ずいぶん遠くの病院まで行った。
そこで保険証を持ってないことに気づき。
後日、子どもも自分も隔離期間を経た直後に、
フラフラになりながら電車に乗って、保険証を持って行ったのだけれど。

そのとき、同じ車両で嘔吐した人がいたのだ。
私は迷わず非常ボタンを押した。
非常ボタンは私の近くにあったわけではなく、
非常ボタンの近くに人がいなかったわけでは、
決してない。
でも、あのとき非常ボタンを押したのは私だった。

そのあと、その人のそばに駆け寄った人。
次の駅で車両から出て、ここで人が体調を崩しています!
と声を上げてくれた人。
そういう人たちによって、その人は無事に。
車両から救出されて、駅員さんに運ばれていった。

電車はもちろん遅れたと思う。
それでも、非常ボタンを押すことが先決だと、
そのとき私は判断したし、
それが消しゴムを拾うことだったと今でも思っている。

今の社会は生きづらくなった。
生きづらい。とは、
多分。

目の前に座っている人より、
スマホの中の出来事が優先される社会だし、

スマホ以外の現実に気付いても、
非常ボタンを押すことの重要性と、
ボタンを押したときに生じる社会的なリスクを天秤にかけたり、
それに応じて周囲の人の感情を配慮しなければならない社会だ。

そんなふうにして、みんな選挙に行かなくなっているのかな。
と思ってみた。
誰でも消しゴムを拾うようになれる社会、
非常ボタンを押せる社会は、
みんな選挙に行ける社会なのかもしれないし、
それを心を動かすことでやっていかなければいけないのかもしれないなぁ。
って改めて思ってみた。

んー、
確かに選挙というのは少しハードルがあるけれど。
概ね。

みんなが心を動かして何かをやっていくことを肯定できるのは、
そういうことなのだろうと思うのだ。

追記:
そうだなぁ。
きっと、消しゴムを拾えないくらい疲れている人とか、
消しゴムを拾うことで批判を浴びている人もたくさんいる。
そういうことだなぁ。