公営プールに行ってきた。

半年ぶりくらいに、公営プールに行ってきた。

チケットを買ったけれど、受付で親子券があるとのことで、
200円返金してもらった。
値上がりしてるかなと思ったけれど、逆にお金が返ってきた。

雨がすごかったし、閑散期のようで、とても空いていた。
ラジオなのか有線なのか。
70〜80年代の懐かしの曲がたくさんかかり、
そこの中でスイスイと泳ぐ。
今ここがいつの時代なのか。
錯覚を起こすくらい、平穏なプールの時間。

施設はとても古いけれど、
大切に使われ整備がされていて、
逆にその感覚が使い心地良くなっている。
今の新しい施設は逆に、
どこに行っても戸惑いを感じるように思う。
前に書いたセントラルパークとか。

相変わらずうちの人は子どもに教えたい姿勢なので、
ほうっておいて一人で泳ぐけれど、
久しぶりだと身体が重くてあまり早くは動けない。

でも、そのうち、子どもにこう聞かれた。
ちょっちおかあさん、ボクに楽に泳ぐ方法を教えてくれ。
そうだよね。ずーっとああでもないこうでもない。
っていうのは疲れるので、
お尻が沈んでいるから浮かせることと、
バタ足を水面で弾くようにすることを教える。

特に調べたりしたわけじゃないけど、
抵抗を抑えたり泳ぎを安定させるためにできることは限られている。
そうしたら、進むのが早くなっていた。

気づけば、近所の公営プールが二つもなくなり、
ここは設備のリニューアルがあったから
まだしばらくは継続するようだけれど、近々なくなるんじゃないか。
という不安がよぎる。

昔は、人の余暇や生活のライフワークの充実として、
こういう公共の場が提供され、
日常の充実をはかることで、人々の生活が保証されていたように思う。

今は率直に言って。
こんなところで泳いでるなら、
さっさと働きに出ろ!という社会の雰囲気や、
こんな市のお金で運営されるプールなんて贅沢。
行きたい人はちゃんとお金払ってプールやジムに行くべき。
などと、叩かれてしまうようなそんな空気を肌で感じながら、
毎日生きている。

私は生きていてはいけない人間なのかもしれない。
最近たまに思うことがある。

特に誰かに言われたり、
具体的に何かあったりしたわけじゃないけれど、
そう思わせる何かが、
この社会の随所に仕掛けられていると感じる。

とにかくとても窮屈で、
その窮屈から逃げるためにきた
このプールでそんなことを考えなくてはいけない
社会になってしまったことに、
驚いて、なんだか急激にセンチメンタルな気持ちになる。

この社会はこのまま終わっていく。
そして新しい社会は来ない。
あるのは衰退のみ。

もっとプリミティブでフィジカルな社会が必要だと感じる。
プリミティブは原始的な?それはやっぱり。
日本共産党に入ってみて、
めちゃくちゃプリミティブを感じる。
よい意味でも悪い意味でもそうだ。
フィジカルな。
仕事でよく使うのがフィジカル音源。っていう言い方。
他の業界では使ったりするのかな。

そんなにカタカナが好きではないけれど、
これに関しては新しい概念で、
今の日本にはないような気がする。