坂元棚田への道-地租改正がもたらしたもの-

地租改正によって土地は個人のものになった。このことは、土地を個人が売買することもできるようになった。それ以上に農民にとっては、自由に作りたい作物を栽培できるようになったことに大きな意味があった。これまでは、国から土地を借りる見返りとして、年貢を納めなければならなかったため、主にコメしか栽培できないという制約があった。しかも、いくら工夫して収量を多くしてもその分だけ年貢としてとられてしまうため、農業への意欲をそがれてしまっていた。しかし、年貢ではなくお金を納めるようになったこと、その税率が一定になったことで、栽培の自由が与えられ、農民たちの生産意欲は大いに盛り上がることとなった。

農民たちはまず、生産量を上げようと土地の生産性を上げることを目指した。たとえば、明治5年(1872年)から静岡県磐田郡田原村では、豪農や在村地主などが指導した農民的な畦畔改良、区画整理が進行した。これは畦畔を取り除いて、隣の水田と併せ、一枚の大きな区画の水田を生み出そうとするものだった。

明治19年(1886年)頃からようやく企業が勃興しはじめ、工業労働者や都市生活者が急増し消費人口が増大した。非農業人口の増大は食糧需要を上昇させた。これは自給的な大麦やアワ、ヒエなどの生産を減少させた一方で、稲や桑、小麦といった商業的な販売作物を増加させ、農産物市場の変化・拡大を起こした。それに刺激されて、伝統技術を踏まえながらも、新しい肥料の投入や品種改良といった技術と組み合わさって、小農型明治農法と呼ばれる体系が誕生した。

土地の区画整理に関しては、この頃いくつか大きな萌芽が誕生している。明治5年から先駆的に区画整理を行っていた静岡県では、明治22年に伝統的な畦畔改良を中心とした集団的な区画改良を試みた。これが大いに注目され静岡式区画改正として各地で流行した。時を同じくした明治23年(1890年)に、今度は石川県でヨーロッパ流の土地整理を取り入れた新しい田区改正(石川式)が実施された。山形県の庄内地方では明治24年から馬耕教師をむかえ、本格的な「乾田馬耕」技術を導入しはじめた。馬を使うことによって土を深く耕せるため、耕耘の労力を軽減できるほか、二毛作が可能になるなど大きなメリットが注目された。このような農地の整形、排水改良、乾田馬耕といった技術は急速に各地に広がった。そのため明治20年代は、いわゆる「田区改正」時代と呼ばれている。

日清戦争の前後から、工業の成長と都市の拡大がさらに顕著となり、コメの需給バランスは大きく変わり始めた。それまで食糧の輸出量が輸入量を上回っていたが、明治27年(1894年)頃を境にして逆転した。政府は積極的に食糧増産をはかる必要が出てきたことから、さらに多くの区画整理が実施されるようになっていった。しかし、対象地区内の土地所有者や住民の一部から賛同を得られず、区画整理を実施できない事態が頻発するようになった。この事態に対処するために明治32年(1899年)に施行されたのが「耕地整理法」である。耕地整理法は、区画整理を予定する地域の土地所有者・面積・地価の三分の二以上の賛成があれば、その地域全体で工事を強行できるというものであった。これによって、区画整理や開田などの土地改良事業を推し進めやすくなり、本格的な「耕地整理」時代を迎えることになったのである。

この耕地整理法は、明治初期の「田区改正」時代の経験を踏まえ、耕地の交換分合や整形に重点が置かれたものであった。耕地の交換分合とは、分散したり入り組んだりしている耕地を交換したり、合併、分割することによって、集団化させることをいう。耕地整理法では、この耕地の集団化に重点が置かれたため、用水路や排水路の整備、土壌改良といったものは重視されていなかった。江戸中期以降、沖積平野下流部では大規模に新田開発がなされてきた。しかしほとんどの水田は湿田と呼ばれる排水不良地で、農業用水や排水路の整備が全くといっていいほど整っていなかった。実は、耕地整理の主要な課題は、区画整理よりも、むしろ用水路や排水路を整備し、土地を改良することだったのだ。そこで明治38年に耕地整理法の改正が行われ、新たに灌漑排水をその事業範囲に加えることになった。さらに明治42年の耕地整理新法では、開墾・地目変換(土地の用途を変換すること)を加えつつも、用排水事業を耕地整理事業の主目的とするように改められた。これにより、それまでの伝統的な水田農業を踏まえつつも、近代化した新しい水田農業へと発展するための制度的な下地が作られたのである。

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