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棚田のコメ

いま、日本の農業を取り巻く環境は厳しい。とくにコメだけでは、生活するだけの所得を得ることができない農家がほとんどである。 食糧難だった戦後から一転してコメ余りの状況を生み出してしまった日本の農業政策は、いくつかの重要な局面でその進路を見誤ったと言われている。その一つが2017年まで続いてきた減反政策に代表される過剰な農業保護政策だ。農家を守ろうとする意識が強すぎたがために、コメ価格を安く据え置く代わりに、補助金でその埋め合わせをしてきた。それがかえって農家の補助金依存を強く

    • 耕作放棄の危機を超えて

      農業の近代化は、日本の農村風景を大きく変えた。さらに、高度経済成長によってもたらされた農村から都市への人口流出は、農村の人口を急激に減少させ、同時に高齢化をもたらした。人口流出の主体は若者であったため、農村には高齢者だけが取り残されたのだ。これに農産物価格の下落も重なったことから、経済的な理由で農業をあきらめる農家や若い労働力を失って農業を続けられなくなった農家が続出した。その結果、耕作されずに荒廃していく耕作放棄地が中山間地を中心に急速に広がった。とくに労働条件が悪く、収量

      • 取り残された坂元棚田

        坂元棚田が完成した昭和初期、日本は食糧不足のまっただ中にあった。そのため、完成した棚田で始まった耕作で収穫されたコメは、地域の食糧供給に大きく寄与した。これは酒谷村の農村の暮らしを安定させるとともに、戦後混乱期の地域経済の安定にも、一定の役割を果たした。 しかし、世の中が高度経済成長を迎え、食生活が多様化し、米不足が解消されるようになると、状況が変わった。今度は米余りの状況へと一転し、米価格は下がり、農家所得も下がってしまった。もともと平地の水田に比べて収量の少ない棚田は、

        • 坂元棚田ができてからの食糧事情

          坂元棚田の完成した昭和8年前後の歴史を見ると、すでに日本は激動の時代のまっただ中にあったことがわかる。とくに日本の食料事情はめまぐるしく変わる。 昭和4年(1929)にアメリカから始まった大恐慌は、世界経済を困窮させていた。日本でも昭和大恐慌とよばれる経済的不況に陥っていた。それに追い打ちをかけるように、昭和6年に北海道・東北地域をおそった大凶作は、深刻な農業恐慌を引き起こし、稀に見る食糧不足を招いた。さらに苦境は続く。同じ年の6月に、関東軍が中華民国の瀋陽郊外の柳条湖で南

        棚田のコメ

          坂元棚田ができてからのこと

          耕地整理法が施行されてから、農地に関する事業を実施するためには受益者、つまりその事業で恩恵を受ける住民たちで構成される耕地整理組合を設立する必要があった。坂元棚田の開田にむけた坂元耕地整理組合が設立されたのは昭和3年であった。それ以前にも日南市内にはすでに12の耕地整理組合が設立され、大規模な耕地整理事業が開始されていた。これらの事業は、江戸時代からの不整形な水田群を整形し、農業用の水利を確保して、交通の便を良くし、耕地面積を拡大させて農業生産性の向上を目的としたものだった。

          坂元棚田ができてからのこと

          坂元棚田の特徴

          坂元棚田は、かつて発生した大規模な地滑りによって生成された扇状地に作られた水田地帯である。その誕生には水不足を解消することが不可欠であったが、農業土木の技術者・松井梅次によって、水源計画、導水計画が立てられ、ようやく実現した。新しく誕生した農地は、当時の新しい農業の姿を形にしたものだった。 この地を最初に訪れたときに感じた私の衝撃は間違いではなかった。目に見える棚田の姿の中に、論理的にくみ上げられた緻密さを感じ取った。それは、地形や自然状況からなどを踏まえて、技術者によって

          坂元棚田の特徴

          坂元棚田の特徴-馬の道-

          坂元棚田は、この地に豊富にある石材を使って畦畔を築くことで、急傾斜地でありながら長方形区画の水田群を生みだすことに成功した。このことは、区画を整えることで作業効率を向上させることが重要だと説いた上野博士の考えを現実のものにしたことになる。石積畦畔は、長方形区画の他に、もう一つ重要なコンセプトの実現を可能にした。 それは、道の新しい配置方法である。 坂元棚田の地図を見ると、上から下までまっすぐに貫く道が三本通っていることに気付く。この道は、長方形区画の短辺に沿って配置されて

          坂元棚田の特徴-馬の道-

          坂元棚田の特徴-石積畦畔-

          坂元棚田を訪れると、とにかく最初に目に入るのは、石積みの畦畔、石垣の迫力である。 棚田の石積は、畦畔つまり畦(あぜ)であり、法面(のりめん)と呼ばれる斜面でもある。全国の棚田には畦畔を土坡、つまり土で作ったものも多く見られる。上の水田と下の水田の高低差が比較的小さいならば土坡の畦畔でも十分だ。しかし、棚田は傾斜地にあるため、水田区画ごとの高低差は大きくなりがちである。土坡の畦畔は大雨のとき崩れやすいため、構造的に安定させるためには土台となる斜面の下側を広くする必要がでてくる

          坂元棚田の特徴-石積畦畔-

          坂元棚田の特徴-用水路-

          原野を開墾して水田耕作が可能な区画を百枚もつくりあげる一大事業。その成功の要は、水源の確保とその水を農地まで導く用水路にあった。そのため、水源計画と水路の詳細は、設計書で最もページを割いた箇所であった。 水路とは、用水路や排水路、承水路などあらゆるタイプの水の路(みち)を表す。設計書であつかう水路は、用水路、つまり灌漑用の水路であるため、以後基本的には用水路と表記する。 坂元棚田の用水路には二つのタイプがある。一つ目は、水源で取水されて水量をほぼそのまま棚田地区まで送水す

          坂元棚田の特徴-用水路-

          坂元棚田の特徴-長方形区画-

          坂元地区を一大耕作地へと変える今回の開田計画。その要となる灌漑水源が決まり、導水計画が定まったことで、ようやく農地(耕地)を設計する段階に移ることができた。 それ以前にもわずかな水田や畑があったものの、この地のほとんどが何もない原野だった。一から新しい農地を作っていく。そうであれば、できる限り生産性の高い使いやすい農地を作りたい。 農地区画の設計には、耕作の利便性や地積などを考慮しなければならない。この地は、過去の土砂崩れによって生まれた扇状地なため、傾斜が急で、下層に多

          坂元棚田の特徴-長方形区画-

          坂元棚田の特徴-水源計画-

          元号が大正に代わるころから、荒れ地を農地に変えるだけの土木技術が全国各地の技術者の中に蓄えられていった。このころ、他県に比べてやや遅れていた宮崎県の耕地整理事業は、遅れを取り戻すように全県的に推進された。大正14年、宮崎県内務部耕地整理課の松井梅次・農林技手は、坂元地区の本格的な測量に着手し、綿密な用水計画と土地を最大限活用するための農地計画をまとめた「坂元耕地整理組合 設計書」を完成させた。 宮崎県文書センターにその原本が所蔵されており、平成17年に日南市教育委員会は文化

          坂元棚田の特徴-水源計画-

          坂元棚田の特徴-地形-

          大正14年に宮崎県耕地整理課の松井梅次技手によって坂元棚田は設計された。松井による坂元棚田の設計の中に、当時の耕地整理学の思想がどのように反映されているのかを見ていこう。この章の内容は、日南市坂元棚田文化的景観保護・活用委員会の委員としての調査に基づいているが、その後の調査で明らかになったことも加えながら紹介する。少し詳細に、学術的な側面にも触れながら坂元棚田の特徴に迫っていく。 まず、坂元棚田の土台となっている地形や地質について見ていくとしよう。 坂元棚田の地形の全容は、

          坂元棚田の特徴-地形-

          坂元棚田への道-松井梅次-

          明治44年3月13日。朝鮮総督総務部長官だった有吉忠一が、第13代宮崎県知事に就任した。有吉知事の登場は、宮崎県の耕地整理事業を大きく発展させる転機となる。他県に比べて遅れていた宮崎県の耕地整理の状況を改善すべく、有吉知事は就任早々それまで耕地整理技手と測量手に分けていた技術者を、農業技手に統一した。さらに農商務課の一部署に過ぎなかった耕地整理課を、内務部に移して独立させ、事業促進体制を整えた。そして、その二ヶ月後には県主催で耕地整理講習会を開催し、知事自らが訓辞を述べ、技術

          坂元棚田への道-松井梅次-

          坂元棚田への道-宮崎県の耕地整理史-

          明治初期の田区改正の流行、耕地整理に関する法制度の整備、それに伴う技術者養成講習や上野英三郎による「耕地整理講義」の刊行という一連の流れの中で、着実に我が国の耕地整理・農業土木技術は熟成されてきた。技術の熟成とともに、全国各地で開墾、開拓、耕地整理事業が盛んに実施されるようになった。 しかし、残念ながら宮崎県の事情は全国のそれとは少し違っていた。なぜならば、明治維新直後に断行された廃藩置県の混乱が長引いていたためである。藩が廃止された当初、現在の宮崎県にあたる地域には、日田

          坂元棚田への道-宮崎県の耕地整理史-

          坂元棚田への道-耕地整理コンセプト-

           忠犬ハチ公の主人でもある上野英三郎がまとめ上げ、出版された「耕地整理講義」。その序文には、この本を世に送り出そうと思い立った動機が記されている。  「我が国における耕地整理事業は、今や奨励の時期は終わり、実行の時期にきている。つまり、耕地整理の方法について精査すべき時期に来ている。  いま、世に出まわっているものの多くは、漠然と耕地整理の利点を説いているだけで、やり方によっては、耕地整理によって得られる利益も大小様々であることがわかっていない。  そのために、非効率で無意

          坂元棚田への道-耕地整理コンセプト-

          坂元棚田への寄り道-ハチ公物語-

          農業土木学の原典ともいわれる「耕地整理講義」を書き上げた東京帝国大学の上野英三郎。彼は忠犬ハチ公の飼い主としても知られる人物である。忠犬ハチ公といえば、東京都渋谷駅前の像が待ち合わせの場所として有名である。しかしこの像が建てられて80年以上も経過しているので、ハチ公の物語を知らない若い世代も多い。そこで、坂元棚田の物語からは少し横道にそれてしまうけれども、2015年にハチ公の物語を再整理して出版された「東大ハチ公物語」を参考に簡単に紹介しよう。 大正13年(1924)1月。

          坂元棚田への寄り道-ハチ公物語-