その情報は本当に発するに値するか

自分の大切な思いを人に伝えたい——。

その気持ちは誰にでもある。
私にだってもちろんある。
なぜ伝えたいか。
それは、自分を確認したいからだ。

私は自分の思いを伝えることを自制している。
私もTwitterなどSNSをまれに利用する。
だが、感情を発露することをふみとどめている。
SNSに発することは、主に誰かの役に立つであろう確信があるときのみになった。

Twitterなんか、娯楽なんだから、そうかたくなになる必要はない、という意見もあるだろう。それは認める。
エンターテイメントとしてメディアを使える人はうらやましい。
私もかつて感情を垂れ流しにしている時期もあった。
しかし、それらを発した後の不全感、不快感はとても大きいものだった。
言ったそばから、世界が急速にしぼんでいくのを感じる。

実際、自分の本当に大切な気持ちが、他人に伝わることなどあるのだろうか。
世界を感動の渦に巻き込むツイート。
たしかにあるかもしれない。でも、私にはできないし、ツイートを見て、人生を揺さぶられるような体験などは皆無だ。

私は不全感、不快感や自己欺瞞を感じるような発言をするならむしろ、沈黙を選ぶ。
誰もが気づいているのではないか、自分のコメントが空虚なことを。

人は忘却する生き物である。
だからみにくい発言をしても、それを忘れることもできるし、便利なことに、他人も忘れてくれる。
言葉は汚くて大変申し訳ないが、まさに「思いの痰壺」状態だ。
みんな言いたいことがあるから適当にゆるくつながっておく、そうすれば自分が言いたくなったとき、関心をもってくれる(はずだ)、と。
まさに、自慰的コメンテーターの互助会システムと呼べるような形態だ。
それはまるで生ぬるいセーフティネットとでも言えようか。

ゆるくつながってそのセーフティネットの中で生きるのも、精神を、(一見)正常に保つためには役立つかもしれない。
しかし、私にはそれが病理としか見えない。

沈黙は孤独だ。
でも、沈黙は豊かでもある。

饒舌は狂躁的だ。
でも、快楽は一瞬で消え去る。

私も本を執筆したいと思っていた人間なので、
根は饒舌なのかもしれない。
この文章で自分をクールに見せることは意図していない。
ただ、私はできるだけ口を閉ざしていたい。
特に私にとってもっとも切実で大切な問題については、人に打ち明けようとは思わない。
言ってしまったら、心に住み着いたちっぽけな精霊もすぐさまどこかに逃げ去ってしまいいそうだから。

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