「静寂」のいる場所

私は誰かに「さみしい」と伝える。
誰かは私に「その気持ちわかる」と言う。
私はそれで少し孤独から解放される。

はずだ。

でもそんなことはない。
自分の孤独が他人にわかるはずはない。
同時に私も他人の孤独がわからない。

さみしさの押し付け合い。
さみしさの一方通行。

それが大前提だ。

それを大前提にして、私は相手の気持ちがいまどんな気持ちかに意識を集中する。
相手が堕ちていくなら、一時でも同じように堕ちていきたいと思う。

それが信頼だ。

もう表面的な癒やしだの、励ましなどは不要だ。
相手は決して理解できない。
それが大前提だ。

その大前提を忘れている人は信用できない。
信用できない人とはつきあいたくない。
信用できない人とつきあい意味などあるのか。

この世の中にはその大前提を無視した会話に満ちている。
みんなが自分のことで大忙しだ。
みんなの心が大火事だ。

にぎやかがそんなにいいのか。
にぎやかがそんなに落ち着くのか。
にぎかやがそんなにおもしろいのか。

にぎやかという悪夢。
にぎやかという幻想。

もはや誰も静寂に耐えられない。
ウソでもいい、癒やしが欲しいとみんな浮き足立っている。
癒やしなど嘘っぱちだったことを心の奥でみんな知っているのに。

静寂は非生産。
静寂は停滞。
静寂は孤立。

そうかもしれない。
確かにいまの世の中のフォーマット上では正しいかもしれない。

降りる勇気はない。
降りるという概念もない。

友だちがいないのが静寂では、実はない。

動中に静あり、と仏教ではいう。

動き、運動性の中にこそ、静けさを見いだす。
いまに集中していると、時間の切れ目が見えることがある。
もちろん時間の切れ目とは比喩だ。
動きはすべて制止しているということに気がつく瞬間がある。

どの瞬間にも静寂がある。
どんな場所にも静寂はのんびりと横たわっている。


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