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流し目なのに射抜かれ、弥生時代だと日本とぼけて沈黙するのはちょっと待てよと。

烈暑の上野・東京国立博物館、昨年は『縄文展』で火焔にまみれ、今年は『三国志』が放つ日本的世界像の彫琢への一撃だった。

会場平成館の入口の脇、14〜15才だろうか、中国の少年が両親と思しき人にカンペとスマホ向けさせて、玉の汗をかいて、特別展『三国志』のレポートをしている場に遭遇した。

bilibiliとかいう中国版ニコ動みたいなサイトで公開するのだろうか。

そのカンペを見て、ハタと舞いあがった。「司馬懿」「遠交近攻」「卑弥呼」の文字へのマーキングに衝撃を受けた。

魏の司馬懿、蜀・呉を牽制するため、背後の大月氏、「倭国」に「親魏倭王」の称号を与えて引き入れた策のことを言っているに違いない、きっと。

“邪馬壹国”論争には夢中だった日本人たちも、以外だが触れちゃいない。

世界的日本像か、日本的世界像の彫琢への「ボーッと生きてんじゃねーよ」の一撃のはずなのに。

そういえば!

蜀の「揺銭樹台座」なる辟邪(へきじゃ)不思議な彫刻があり、どう見ても、この鳥は「チコちゃんに叱られる」の「キョエ」ではないのか!

なんと展示会場は全て撮影OKで、このように、記事中に貼付ける写真は、記事と直結してないのでよろしく。

関羽。
あの流し目で射すくめる神。

曹操は関羽の義にグッと来て、リスペクトした。

人びとは称える方法を「神」にしてしまった。

正史『三国志』と『三国志演義』その輪郭はだから絹で編み込まれている。

大陸では1世紀の「漢委奴国王」や、2世紀の「倭国王師升」という王や、3世紀の「卑弥呼」が関係性としてファクトされている。興味はおよそ関係ない。

この列島の諸国祖先が伝え残せなかった?理由で「日本」というレジストレーションを検証できるのは7世紀以降となっている。

文字を知らない弥生人は呪力として漢字を備えたかもしれない。漢字はハイテクノロジーであって、弥生人は大きく変貌したはずである。

そこには世界的日本像か、日本的世界像の彫琢か、未だ定まらずに在る。

『三国志』でいうと、魏が蜀を滅ぼしたあたりのところ、『魏志』烏丸・鮮卑・東夷伝の一部、本紀に対する列伝の、そのまた備忘録程度に綴られた中に「邪馬壹(壱)国・卑弥呼」の位置決めがある。

魏の皇帝「卑弥呼を親魏倭王に制詔する」とある。
ご存知「金印紫綬」もある。

使者にだって率善中郎将・率善校尉を任命し、銀印青綬した。

おっと倭国が国として認められたわけではない。

これは魏が敵対する蜀・呉を牽制するため背後にいる倭国を引き入れる兵法三十六計の「遠交近攻」である。

孫子をはじめ中国古来の兵法を緩急自在に用いた魏の司令官こそ、あの諸葛亮を封じた、司馬懿である。

中国では小学生も知っている。

「親魏倭王」をつくったのは、司馬懿の魏軍が扶余・沃沮・韓に進軍して帯方郡を解体しながら朝鮮半島を掌中に収める作戦の一環だった。

卑弥呼は外部承認された首長で、名誉総領事という扱いだと思う。

魏が西晋に立国変名し、呉を滅ぼして、中国を統一した280年、日本列島内で、箸墓古墳などのような巨大前方後円墳の定型が確立したこと、突然に「三角縁神獣鏡」の製作が本格的になっていたことなど大陸に答えを求めるな。関連付かないことにこそ自国の謎がある。

歴史上、遼東や朝鮮が中国の史書に最初に姿をあらわすのは紀元前334年になる。さあどうする。

3世紀の東アジアはざっくりいえば中国人の力が分散しきっていた時期なのだ。いっぽう中国社会の小モデルが各地に波及していった。

あらためて「倭」「倭国」「ヤマト」その呼称の峻別に興味はない。

原日本、日本の母型の醸成において、東アジア、ユーラシア、ツングース・ハートアイランド、いったいどのくらい他国他民族の関与や影響があったのだろうか。

昼下がりのベタつく西陽を浴びて考えるのだ。


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