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世界と出会い直すための「逸脱的思考」──小松左京短編SF『夜が明けたら』のプロットの導入が見事で感じ入って発火する

7月の「読書会」の課題図書『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(近内悠太 NewsPicksパブリッシング)のすきまを這う。

人の考えには、あらかじめ、みちすじが通っていて、一定のパターンみたいなものがあって、その範囲を超えて考えることはとても難しいことだと、だれもが、うすうす気がついている。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』も断片ノートも読んでいない。なので、本書『世界は贈与で──』にも述べられた「言語ゲーム」という概念装置のことなど、論旨の濃淡以上のことは、原典に接触することで、理解を深めたい。

それにしても「概念は人工物である」とか、哲学者のつとめは、できるだけよい概念を生み出すことで「工学と哲学は似ている」とか、いいね、脊髄反射する自分の理解の仕組みも一緒に疑った方がいい。

『世界は贈与で──』の〈第7章 世界と出会い直すための「逸脱的思考」〉に関して小松左京の短編『夜が明けたら』のプロットを取り上げ、現状パラダイムから生ずる予測を破り、本質の多くを語る「アノマリー」についてきっちりわかる説明が見事。ここがなければ、じぶんは発火しない。

戦後日本のSF御三家は、小松左京・星新一・筒井康隆であると列挙しているのが先ず正しい。

『世界は贈与で──』のSFに向けた論点が大変気に入った。以下とてもいい。
「SFの機能、すなわち逸脱的思考の機能をこう表現することもできます──僕らが忘れてしまっている何かを思い出させること、忘れてしまっているものを意識化させること。(‥‥)──世界像そのものを疑う逸脱的思考は、僕らが構造的に見落としてしまうものを可視化する装置である」

小松左京は「文学は科学さえも相対化する」とずっと繰り返し語っている。

小松左京の『復活の日』(1964年刊)は、未知のウイルスのパンデミックが人類と〈脊椎動物〉の死滅を描く物語だが、バイオ・パニック描写より、その背景のスケール、文明論的深度、古層からの贈り物への問題意識の深さが、60年経った今でも古色を帯びていない。事実、新型コロナ禍に、物語は復活した。

Science Fictionは、近代以降の自然科学、先端的テクノロジー、哲学、心理学、認知科学、言語学、論理学、社会学、宗教を横断して、科学技術や経済構造と個の実存問題との関連を「物語」の様式で自在に描かれ、社会変革のエネルギーに変換されていく。

そして誰もが気づいているに違いないのだが、SFは、機能●●として古層に循環するかのような、神話に近づいていくことだ。それは、宇宙の存立構造を説いて、各々の実存の意味を定める神話や古代宗教的説話の役割を、合理的に体系化された諸学で物語るわけだからあたりまえかもしれないのだ。

1987年刊の『虚無回廊』に呼び戻される。

地球から5.8光年先の宇宙空間に、長さ2光年の巨大円筒体「SS」(Super Structure)が出現する。そこに存在する知的生命体とのファースト・コンタクトには、人間個体の生命時間と環境限界を超えた探査となる。プロジェクトを可能にするために、超AI研究者の遠藤秀夫(HE)がAE(Artificial Existence:人工実存)によるHE2を開発して、SSに送る。

Artificial Intelligenceではなく、Artificial Existenceの概念開発について、30年以上前に小松左京は主人公の遠藤秀夫(HE)に語らせている。

遠藤秀夫(HE)と彼が作った人工実存(HE2)の関係は「父と子」の位相に配列される。HEは、人間実在(Human Existence)の意味を暗黙に内包し、子が父を捨て、故郷には戻らないと宣言する物語である。

探査船に乗ったHE2は、35年後SSの直近でEEトランスファー・システム(今でいう高度にチューニングされたメタバースみたいな)で繋がっていた遠藤秀夫の死を(ただし、5年8ヶ月26日14時間あまりの時間差で)知る。

「私はいま、一切の過去の絆から自由になったのだ。〝私〟の「死」によって、贖われた自由だ。  私は、このプロジェクトのはじめから、ひそかにその事を決意していた。──誰にもいわず、そぶりにも見せず、誰にものぞかせない心の底で決意していたのだ。」

HE2は自由意思で「義務遂行契約の破棄」を宣告、一切の通信を切断、地球との交信を絶つ。

HE2は、内部バックアップAI群の中に6体の仮想人格(Virtual Personality)を形成していて、コミュニケートしながら探査を続行し、そのVPのひとりアスカがSSとの交信に成功し、内部に侵入する。

物語の中で「宇宙倫理委員会」で遠藤秀夫が代赭色たいしゃいろ寛衣かんいをまとったチベット仏教ゲルク派の高僧タロ・ダキニ師に諮問されるシーンが描かれている。

「あなたの作ったAEは‥‥死についての自覚は持っているか?」「死すべき自己についての絶望的自覚を抜きにして、真の実存というものは、成り立ちうるか?」「実存という一概念は、人間の存在の形式として、根源的あるいは究極的なものだと本当に思うかね?」

「“我思う”といっても、その“我”は、実は個をこえた悠久の歴史の流れと、存在全体のある部分が一瞬考えているのかもしれない。だから、“我あり”の恒久的な根拠にはなり得ない。」

この高僧が先のVPの残り5人の中に入っていると、左京は書かずにいた。

左京は『虚無回廊』最終行に「完」なきまま、鬼籍に入った。

「中断された活動は、完結した活動よりも連想的な素材を生み出す」ラカンの言葉とともにいつでも再開する。

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