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教室・1


        




                其の一

暮れ夏の日盛り、土曜日半ドンの教室から喉をカラカラさせて帰ると冷蔵庫の前に丸くなったお母さんが死んでいた。この冷蔵庫が曲者でカゴマを入れておくとダルモンタになりダルモンタを入れてもカゴマにならない、カゴマを飲むつもりなら冷やすのをあきらめる。冷えたダルモンタを飲むのもこの際あきらめて水道の水にする。


一階の集合郵便受けに『母が死んでいます 鍵は開いています 娘』と貼り紙をし、自転車で図書館へ向かう。


蝉時雨が耳を塞ぎ道々はシンとしている。
着替えて来るんだった、ブラウスが甘酸っぱい。
銀色の中央図書館がユラユラ迫って来る。

館内にもカナカナが遠く届き、ますますシンと聾になったようだ。


予習は止して、梶井全集からよく知っている小編をゆっくり読み、駐輪場へ出るとまだ日があり蝉もいくらか残っている。


少しお腹が空いた。


胡麻付きのフィセルを買って帰ると、貼り紙はなく、お母さんは片付けられていた。

シャワーを浴び、冷えたダルモンタを飲んで寝た。


予習はしなかた。  




飲み残しのぬるいトマトジュース。ゆうべ食べなかったアバタの痩せパンを電熱器に乗せた網で炙る。

昨日と同じブラウスで日曜の補習へ向かう。


カナカナはまだ鳴いていない。 




       国語


教師はちらと腕時計に横目を遣る。

「少し時間がありますね、一寸次のお話をして終わりましょう」

本当は面倒くさいんだがな、という目をした。


「『我が輩は変である。名前も変だったはずだが忘れた』ピンときますね、この書き出しだけで、胃弱だな、このおじさんは、と。煤けた不機嫌そうなそっぽう、病人らしい薬臭い息。そうです、この患者は牛込育ちのくせに田舎者がキライです。つまらない偶然から寄席で知り合った歌詠みが大変な田舎者でそれだけで充分用が足りているのが分からないんでしょう、頼みもしないのに愕然として眼眩むべきブ男で、それでも気が済まず憚り知らずのお節介焼き、この不細工がおまえは歌が下手だ、諦めて小説を書けと脅迫したために、怖いし煩いし逃げるのも厄介で、イヤイヤながらどうでも出鱈目に書いたのが先の、我が輩は大変である云々、という小説体です。胃患いは英語の教員で、勤め先の席替えでロンドン向け船上の病人となり、途次コロンボに寄航した折に初めてカレーを食しますが、彼の地のそれは酷く唐辛子を奢ったもので、其れが為に持病をすっかり悪化させイギリス幽閉中の奇行に多大な貢献をしたとする、書くも読むも退屈な研究が昨今あるやなしやという噂ですが、ここでは幕末生まれの男子自前の胃腸がセイロン唐辛子に対する感受性能を如何に表現したかに就いては措きましょう、ご興味の向きは不機嫌で教養人ぶった、張ったり玄関男の、南方トン辛子摂取による精神的荒廃及び臨時の肉体的高揚に就いての詳細な極秘資料を、これは全日成総合大学コチュッカル戦略参謀の横流しによるもですが、朝銀調布支店の貸金庫に保護しておりますのでおっしゃって下さい、朝鮮朝顔柄のオリジナルプリントを無条件でお貸し出し致します。返却は不要です。


さてこの胃弱者を知る最も頼りな点を先にお話しておきましょう。〝吾輩〟は不本意で書き始めた小説ですので、着想、構想などあるはずもなく、投げやりな思い付きで漫然遅々と書き連ね、もういい加減面倒だ、この位な長さでもう小説になったろう、と元から脈絡がないので今さら不自然でもないのですが、急にトンと間抜けな音をさせてお仕舞いにした、内容といっては内容がふて腐れそうな、処女作といっては処女があたし何の為に必死に淫欲を抑えてこんなもの後生大事にしていたのかしら、と少女の皮を丸めて便器にジャアーっと流してしまうような、当に散文です。患者には語りたかった事などなく、仮にあったとしても、文字に書いて説明するなどとても億劫で考える気もしませんでした。何故なら彼の胃は深刻な悪ぶり方だったのです。浣腸を常用していたのは西洋に対する見栄でした。腸はオレ達は消化器専科だよ、とうそぶいた態度を見せていますが、彼らはものを考察します。時に何の役に立つのか、とてもまともには信じられない、というよりも多分ウソだろうと思われる物理学上の大発見などが、真しやかに流布されますが、あれなどは脳が腸に協力要請してこそのものです。思考型腸の発達は馬鹿げて頭のいいユダヤ人に顕著である事は歴史的に明らかですね。かってはユダヤ人でないイタリア人もそうでしたが、今では彼らにその手の腸はありません。たぶんもう飽きたのでしょう。


本邦〝吾輩〟の作者には腸の感受性がありません。腸がないからです。この胃弱者は東西の教養をたっぷり詰め込んでおりましたが、片手落ちです。脳味噌にいくら材料を貯めても、腸がなくてはそれ等を吟味し、上手い具合に話を捏ち上げる事は出来ません。しかしながら読者はこの小説を歓迎し、売り出し以来百年なりなんとしたのも既に今世紀初頭のことですが、今日に到るも近代の古典たる地位を保っております。そうです、読み手の邦人にも腸が欠損しているからですね。同じ理屈で幸いにも吾人には小説など如何でもいいんです。西洋は違います。古今呆れるほど長く、登場人物が吐き気を催すまで多く、話しが気違いじみて込み入った小説が大量に刷られており、東西の出しゃばりが読みもしないで、絶えて希なる傑作也と烙印したものも、珍しいくせに膨大な数に上りますが、その地元の読み手は、腹に収まっているのが不思議なくらい無愛想、根性悪にして堅牢な腸をもつ、アングロ且つサクソンな民を筆頭に戴く各種肉食獣です。そして大いに困ったことにケッサクには翻訳という徒労であるのみならず人を背信に導く仕事が、ユダ呼ばわりも鬼酢と横行しておりますが、原書でも理解容易ならざる、或いは書き手の脳すら何を言ったか知らされていないものを、外国語の覚束ない、況してや腸のない訳者が無理矢理日本語に起こすのですから、変態趣味の読み手には、解釈の自由度が無限に約束されておりますが、又それ故の不安も無制限です。幸せ過ぎて怖いのと、ちょっと似ていますね。それだけで済めば、つまりそこまでで、我慢でも何まんでもグッと堪え、小説などはやめだ、やめだ、と正しい気持ちになれば、或いは怪我の功名でしょう、小説で無駄にした時間もポジテブに転じて納得し、これからは気をつけよう、と人生を明るく解釈する事も可能でしょう。しかし悪事は尽きません、評論というものが呆れた事に野放しなんですね。小説に限らず何にでも寄生する、実にしつっこいダニのようなものですが、不安に嘖まれた読者は無力です。相手の素性も知らず遮二無二しがみついてしまうんですね、災難ではありましょうが、実のところこのような鈍いくせにジレッタントぶる方々の人生本体が無駄なのですから、無駄にした時間云々は、いやいやながらの社会人として立場上やむを得ない私のサーヴィスです」  



そこで教師はYシャツの胸ポケットから紙巻き煙草を取り出し一服点けると、ゆっくりと灰皿に置いた。しばし目をつむり丸で深い考えに浸っている体裁。時限は迫っており、開け放たれた窓から流れる陳ねた緑の風と吸いさしの煙草の香がゆったりとダッチロールにねじけ混じると、学問の気配が教室に満ち、生徒達も授業中の音階を反芻しつつ微睡んだ。


もう一服喫みながら、ではなにか質問はありますか、という教師の声に皆我に返り、一人が挙手し立ち上がった。

「先生、作者は誰ですか」

「知らないのか忘れたのか、思い出せませんが、気にしなくて結構ですよ、では又来週が来るようなことがあればお会いしましょう、そのときには誰か見繕っておきましょう」 


煙草の残り香が教師を追って出て行った。

                    

                   其の二
             


ヒグラシに囲まれてチェーンが少し軋む。そのうち自転車屋によってオイルを塗ってもらおう。

明日はこの季節にはめずらしく祭日だ。

図書館も平日より早めに閉まる。

予習はしない。

雑貨屋の棚にブラウス用粉石けんが売り切れで液体洗剤を買って帰ると居間のローテーブルに七年前に死んだ猫が寝ている。声をかけると不機嫌そうな照れ笑いをした。

一緒に缶詰めを買いに出て、夜は窓を開け放し並んで早めに寝る。

教室へ向かうところ猫もついて来て、途中の五叉路で軽く会釈をして分かれた。彼はうなじを朝日にキラキラさせ後足二本で歩いて行き、だんだん小さくなった。

自転車の風がヒンヤリする。

もう一枚着て来るんだった。

校門を入ると細かな秋雨になった。


               数学


「本日の分は皆さんの秀才ですっかり落着しました。後を閑話にあてて終わりましょう」



教師は水筒をもう大分減らしたらしく、ぐっと傾けラッパ飲みをした。



「お集まりの生徒さんたちには雨の日も風の日も好学一途にお出でいただき、既に合成関数をすっかり理解し、事象と集合、チェビシェフの不等式確率、 ベクトルの垂直なども巧みにものにし、複雑な問題もテキパキ解くのであり、とても頼もしく思っておりますが、このような雨の午後は普段のどしどし理屈を進めていくような授業を、たかが奴隷教育のドリルだ、と小馬鹿にした気分で放ってしまい、いつもはつまらない見栄やら羞恥心に圧迫され、自明のことだ、改まって考えるまでもない、という態度で自尊しているのを休憩し、素直に立ち止まり木訥と本音を告白してみることにしましょう。懺悔はしなくて結構です。忘れずにお断りしておきますが、ここからのお話はいつもの数学と同居させず少し離れた部屋へ丈夫な錠をおろして監禁しておいて下さい。わざわざ手間をかけず今日限り処分してしまうのもよいでしょう。ということは初めから聞かずに居眠るのが得策ですね。なぜならこの披瀝には今まで皆さんが学んでこられた清廉、無欲で端麗な数学語に薄汚い垢が浮き嫌な臭いを放つ虫がまとわりつく憂いがあるからなのです。アラビア数字が妙な姿態に、記号が各種責め具、凶器に見えてくるように。それでは午睡の用意はよろしいでしょうか。さて、はじめからのはなしです。耳目、聞こえる見えるの準備が整い本調子となりいよいよ〝入〟になったばかりの世界に数はありません。やっと網膜に合焦した像はまだヒトでもサルでもありません、話し声、鳴き声の別もありません、懸命にのむミルクは美味しいのでも不味いのでもありません。ただ、そこに、そうであるばかりで、一つも二つもないのです。ことば、がありませんから。しかし一体いつからなんでしょうか、ふんべつ顔でブンベツを始め辺り構わずぬけぬけと一つ二つどころか平気で三つ四つと勘定をやっているんです、何処でも彼処でも。種別し名札を貼る事は主人公の意思であるならば、私とは一体何れへ向かう積もりなのでしょうか。主の中に行動主体があればの話しです。リンゴ、リンゴ、リンゴ、リンゴ三個。ニワトリ、ニワトリ、ニワトリ、ニワトリ、ニワトリ四羽。それぞれに専用の眷属名を宛がうだけで大変に煩わしいところへ一、二、三、百、千、万と。全体何が始まっているのでしょうか。こんな疑いと親しく人生を過ごすのは道徳を不可欠な脇役と察している審美学派であり、科学では扱いません。どうもこうも数勘定というものは誰の招きでやってきて世界を仕切っているのだろうなどと、真面に向き合っていては工学や理学だけてなく社会科学も文学さえもあったものではないのです。人によっては桃源郷とよぶ所です。そんな勇気を持たない大多数の不正直者は、一、二、三、四、五・・と不安を出来るだけ高い棚の奥へ上げ、初めはおどおどと、次第に堂々と理解している態度に務め、仕舞いには本心から納得したのだと思い込むのです。一と二で三、ここに又二で五、そこへ今度は四で九、掛け算のようなインチキをしないコツコツと愚直な足し算ではあります。ここで、ハイわかりましたと右手を挙げてにっこり笑う二つになったばかりの子は頭が良く従順のようですが、本当なのかな、どうもちょっと変みたい、という真っさらな反省の態度がすでに欠落しております。ドクダミは双葉より変な臭い、早くも将来世の中を背負って立つ気でおります。この子のように頭脳明晰で立身出世を夢見るだけでなく本気で栄達に邁進する田舎者でなくとも、ぼんやりしているうちに不惑も過ぎた怠け者でさえ、気がつくと一桁の足し算引き算などはほとんど間違わずに、また驚いたことに掛け算や割り算までも簡単なものはそこそこ正直者の不安を忘れてやれるのですから世間には身の隠し所がないものですね。しかしながら、最初の最初一等初めから具体なしに一、二、三という理解は不能ですから、経験より前に認識や判断があるかどうかなど考え込む馬鹿もないものです。例えば目前の毒林檎、或いは森青蛙や日本ザルノコシカケその他モンドリアンでもクラリモンドでもいいのですが、これ等のような具体をもって一つ二つなどと云われる見方を拵えるのですがその機序の序は大ザッパにこうなのです。蛙がいるな、あれまた同じ蛙がいるな、こんな様子は放っておいて楽なものなのですが、現象などと変なことを云いだし、これは変化だから記録が必用だなどと真面目な顔つきで鉛筆をとりだし、まず初めの蛙そして次の蛙だな、よしその後も間違いなく蛙は続くだろうから充分余白をとってと、こんなようにノートが始まるとその繁殖力は凄まじく間もなく膨大な百科となり今ではその重さに地球の底が抜けるのではと心配されるくらいなのです。しかし本当は初めの蛙と次の蛙は同じ蛙ではありません。体格や色味、香などちょっと調べれば違うはずですし精神など同じわけがありません。もし手間を惜しまず精密検査へ廻してみれば次の蛙だと思われたのはカモノハシと判明し、もしやと初めの蛙にも疑いをかけてみると桃太郎だったと断定される、そんなこともそう希ではないのですが、この先は説明が医学の方へ逸れますので、数取りの生い立ちその暴力的成長に話しを返しますと、一つ二つとは、ちょっと似ているものは同じ者や物として捉え、まとめてミキサーにかけ統一する実行犯、三下奴なのです。というのは皆さんが偶々散歩で出逢った背黒アザラシ、よく見るともう一頭同じのがいる、近づくとまだもう一尾、これをあなたが勘定したい気持ちになったとしても、この場合整理整頓のことですが、それはとことん個人的の感性や技術でする事で、あなたから外には影響が無いんです。ところが、一つ二つ、と普遍を持ち出した途端に足し算が解り、そこに上手く疑いをかけない態度がとれる者どうしが世界に隈無く投網をかけるという乱暴なやり口で一味徒党を募集し極まりなく広大なサロンを普請するのです。ヤマカガシにもハシビロコウにも番号は振ってありません。皆さんの体格や人格にも番号は付いておりません。この教室のどなたにも出席番号というのがありますが、これは各々個人にくっついているものでは決してありません。クラスの全員というかたまりに付いている番号です。三番の方が一人で三番ということはないのです。両隣に二番の人と四番の人との、要らぬ協力お節介があるお陰で三番が三番なのです。ここにお出での生徒さんにはこういった疑問に躓く事なく、不思議の念に茫然と立ち尽くす事もなくおりますので毎回新しく展開していく算術の授業にご理解があるのですが、これは不法な越境を前提とするものです」



眠らずにいた数人の生徒達のうち最後まで堪えた一人が頭をがっくりと組んだ両手の上に落としたが、いよいよトランスに入ったらしい教師の生真面目な放言は続いた。



「ネコとトドとリャマが並んで日比谷公園の野外音楽堂に一番近い公衆便所わきのベンチに座っていますね。ほらこっちを見ていますよ。私たちもよく観察してみましょう。食肉類裂脚亜目に詳しい方なら、あっ、リビアネコだと、鰭脚亜目の好きな生徒さんなら奴はドドメトドですよと、鯨偶蹄目ファンのらくだマニア、これは多分女子でしょうね、であればこの子はグアナコが強めに残っているリャマだわね、と教えてくれるかも知れません。公園は連休明けで何の催しもない、ぼんやりしたいい加減な天気の平日ですから実にのんびりしていますでしょう。ですから何ネコであれいくらじっと見ても、一つ、二つというポステリな病変は生じません。アザラシもアルパカも一緒です。そこには見える、あるいは、ある、又は、まるであると思えるほどある様に見える、という気分を覚えるかも知れないだけです。必ず一だの二だのという数は見えません。ところが太古より非凡なヒトはいたもので、我らがはるばる来たぜリビアネコに酒癖の悪いイタチ科のカワウソやテンが肛門腺をオンにしてからんできたところを、好機到来とばかり欲求不満気味に持ち歩いていた屁理屈の詰まった風呂敷の固結びにしたダンゴを苛々しながら解き初めます。駒沢なり新宿中央なり公園でぼんやり煙草をふかしている私どもにはサンショウウオがトノサマガエルに抱きつこうがサクラエビがジョウログモに言い寄ろうがどうでもハハハと笑うくらいで気にも留めませんが、彼らはひと味違っています。感受性が強かでなによりとても頭がいいので、毛ガニがミジンコに色目をつかったくらいの事で心に俄なさざ波をおこすのです。頭脳明晰のアトリビュート、不安です。えっ、ウシガエルとイソギンチャクが、ああ、モンチョウシロウの背にベニシジミが、うすうす怪しいとは思ったがまさか本当にゾウガメがアワビにあんなことを、と方々から脳に不穏を得るこの手の特殊技能者は原発性に限ると非常に僅かな希少種なのですが、何しろ知力が盛んですから河太郎に尻小玉を抜かれたように仕合わせな組員を放ってはおきません。アフリカザリガニとカラスアゲハの立ち話をくすっと笑ってやり過ごせない彼は不穏を感知した瞬間にその分散、希釈を発動させます。ネコ、トド、リャマ、特に何ということもなく眺める頭に使い道があるなど思いもよらない私どもは、不安も疑いも全然感知しないので、ただのそのそノラノラしておれば対策なしの安全牌なのですが、インテリゲンチャは放置してくれません」



教室いぱいに健やかな寝息が気持ちよくうねり、教師は何本目かの大きな水筒を持ち上げ喉を鳴らし、首を振ってぶるぶるぶるっと音を出した。



「さてここからが算数の出番です。無事平穏の中に無数の不信を見出す彼は、その中の一つを何不足ない平和な聾桟敷に住む私どもの中からただひとりにそっと耳打ちします〝さあそろそろ目を覚まして一緒に力を合わせ本当の共和国を創りましょう〟などと不作法に。云われた馬鹿は生まれて初めての不意打ち要請におろおろするばかり。〝いいですか慌てなくて大丈夫ですから急いで下さい、あなたに難しいことはお願いしません、ただこの強制的なお願いをお友達の耳と又のお友達の耳にそっと吹き込んで下されば結構です、さあ早く手遅れにならないうちに〟こうたたみ込まれると逸った経験のない不運のボンクラは、気がせくのは嫌なもんだなあ、と降って湧いた初体験の不安に怯えながらふたりの知り合いに〝何だか共和国を拵えるんだってさ、じゃ次ぎにまわしてね〟と、そのふたりはそれぞれ又ふたりづつに、〝共和国だってさ、後の未達へよろしく〟と。おわかりですか、方策は超弩級秀才の割には不幸の手紙程度で振るわないように見えますが、石橋を叩いているのでしょう、馬鹿に無用の油断を誘っているのです。つまらない実像や仮象に重大な不安を覚える稀代の学者は己の素面な精神を混乱から守るため先手を打ちました。我ら知恵と縁のうすい一般人を希釈うすめ液に用いる事で鎮静化を図ろうと謀ったのです。遍し算術の出身はここなのです。最初の能転気が共和国という合い言葉を申し送った瞬間に彼は生得の無意味な幸福を何の過ちもなしに失いました。我知らず脳片端向け精神保健の手先となった彼らはここで早くも一、二、三、二、四、八の回路を埋め込まれております。伝染速度の素晴らしさは目を見張る間さえ与えませんから、そこから導かれる無数の理屈は瞬く間にあるかぎりの視界にあてはめられ、その存在理由のこじつけに援用されました。元来スポンサーなどなく勘定という神経使役なしに只現れていた万物万象は、一遍に“この世界”となったのです」



教室全体、ふわふわのケットに包まったように、健康体たちが奏でるスコア、ピアニッシモの寝息にレムの誰かが短い寝言をアクセントにつける。



「ここまでの話しはどうもおかしいとお思いの方があるのではないでしょうか。そうなのです、私は始めからカミキリムシだのペンギンだのと申しましたが、勘定の月満ちる以前には名札は何ものにも下がっておりません。当然です、何もの、がないのですから下げるも貼り付けるもありません。ザクロとアルマジロウのどちらがより手触りがいいかという問題、インドサイとナウマンゾウ、薫り高いのはインドゾウであるのは論を待たないが、さて味となると、というような講釈、こういった煩い音が発生するや間髪待たず音量マクシマムに激発に次ぐ激発止む気配更になしですが、この文明とあだ名される騒ぎの発祥は“数える”が起源です。数のないところに名前はなくそこは世界ではありません。しかし棚からぼた餅というよりも瓢箪から駒というべきでしょうが、世界は一挙に現れたのです。いつ、どこで、どうして、はありません。この種の歴史は数より前にないのですから。私は目つきかんばせで世界でないあそこを世界に通訳する術を知りませんので、便宜でナメクジがガガンボ宅を訪問したなどと申しましたが、数の外である世界以前にそれはありません。インチキ謀りです」



教師は水筒の飲み口をしきりになぜながら欠伸をかんだ。



「つまり。とどの。我々は。いや個々人は。いえいえ。何というか。そのあれですね。あのあの。あいつらは。そのつらは。えーと。んーん」



しばし目を閉じ体を大きくのの字に揺らしておりましたが、無理に気を取り直し、キッというのは本人の思い入れですが、濁ったまなこを見開いた。



「今に及んでいくらぼんやりしても全然追いつきません。数取りする前の、世界以前へ生還し安心する希望はさても丸切り、なし、です。ですが、血中濃度が赤い線を越す度に淡い夢を見てしまいます。地球は角な豆腐で太陽はピータンのいびつな黄身だった、そんな荒っぽい突然の発表と共に数がするするするっと遡って、お邪魔しました、と云うかはともかく、左のずっと先の穴へスポンと帰巣する、そんなどんでん返しのような徒夢を。お笑止さまですが、そのようなドラマはこの不粋な世界に用意がありません。実に煩忙にして殺伐、切ないものです」



とうとう教師の頭蓋にタンバリンのジングルが鳴り響いた。



「次回は陰関数の微分法に隠れた平方の根組です。では本日これ切り、ごきげんよう」



水筒が教壇にカタンと倒れ午睡中の教室にズブロッカの甘い香りがひろがった。



      つづく

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