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生の深淵に臨むとき〜映画『アントキノイノチ』を観て

 死というものが、或いは死を含めた生が、悪臭を発し、醜態をさらすという事実を、私たちはもう長いこと、忘れてしまっている。 死後、数週間、あるいは数ヵ月、放置された遺体は、そうした事実を、言葉を失った微塵も動かぬ身をもって、静謐に語り尽くすのだ。しかしその語りは、異臭を排し、汚物を追いやる、都会という空間にあっては、闇に消されるという運命をたどるしかない。 
 映画「アントキノイノチ」は、孤独死のために、遺体発見が遅れた人々の遺品を整理する若者たちの物語だ。 彼らもまた、死と背中合わせの生をかろうじて生きる、かすかな存在にすぎない。 
 早朝、彼らの仕事は、遺体から漂う異臭を換気し、遺体から湧き出た虫を駆除することから始まる。そして、死者の生前の生活が手付かずに残る部屋で、生きた証の数々を丹念に区分けする。ゴミとして処分される品々と、思い出の遺品と。 
 遺品整理を職とする彼らは、死者の美しい姿だけを思い出として残すことが、自分たちの務めだとつぶやいた。
 ひとは皆、今この時も、死と隣り合わせに、しかしその死には目をやらないようにして生きている。死を直視して生きることの辛さを、本能的に知っているからだろう。 この静かな物語は、そうしたタブーに切り込みを入れた。 日々、死者の醜態を目のあたりにし、その清掃の過程から、死者の最後の記憶として、遺品をすくいあげる彼らは、死者の落ち沈んでいった泥沼に足を踏み入れて、黙々と作業をつづける。 その場所は、見ず知らずの他者の死を、他者といって切り捨て、仕事だとして割り切ることなど到底できないほどに死の匂いが立ち込める部屋だ。 その部屋に立つ者は誰もが、一人の死者から発せられる普遍化された死を共有するしかない。 しかも職業として、この部屋に立つ者は、翌朝、また別の部屋の死を、全身に浴びることだろう。 
 しかし、この物語は、死を直視することの中から、忘れかけていた希望に触れる。その希望を確かめあう言葉が、「元気ですか?」という呼びかけだった。 
 この一見、何の変哲もないありふれた挨拶が、笑顔をひきもどした。いや、そうした日常の、当たり前のふれあいこそが、笑顔の安らかな源だろう。

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