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トンボ

小学生の夏休みには、長野県、蓼科で、昆虫採集をして過ごした。あの頃は、まだ、青空にトンボが数限りなく棲息していて、その種類も豊富だった。ぼくは、毎日、トンボを追いかけて、湖畔を駆けずり回ったものだ。運が良ければ、大型のオニヤンマも捕まえた。たまには、アゲハチョウやモンシロチョウ、カラスアゲハなどの蝶たちも標的にしたが、トンボの方が断然、面白かった。
 夕暮れにもなれば、虫籠は、トンボで、溢れかえっていた。ぼくは、戦利品を抱えて、満足げに家族の待つ家に帰るのだ。時には、トンボの内臓を押し殺して、半殺しにし、瀕死で飛べなくなったトンボを、ペンダントのように胸の飾りにもした。まるで王様のような気分だった。
 しかし、翌朝、目覚めると、虫籠は、数十匹ものトンボの死体でいっぱいだった。トンボの佃煮ができるね、と言って無邪気に笑っていたが、心の何処かに違和感が残った。いつもの遊びとは違った、只ならぬ緊迫感が、あたりに漲っている。
 虫籠のなかでは、死と生がひしめきあっていた。いや、虫籠のなかだけではない。死は、生に隣接している。死と生は、ひとつながりなのだ。ぼくは、トンボの変容に、息を飲んだ。
 小学生の夏休みの記憶は、大人になったぼくの、死をめぐる原風景となっている。さて、いま、この原風景のその先の向こうを目指して、旅発つ時が来たようだ。一冊の書物を小脇に抱えて。

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