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老婦人の微笑

林のなかに、ひっそりと佇む小さな療養所があった。あるひとは、言った。死を待つ家だ、と。僕が、その家に通うようになったのはどのような由縁だったか。今となっては、定かでない。
朝の冷気がまだ肌に染み入るころ、僕は、その療養所への道を急いだ。小走りに回り込んで、とびらを開ける。ふと、エタノールの香りが鼻についた。
この療養所で、僕は、ひとりの老婦人と出逢った。彼女は、世界大戦で、夫を亡くして以来、息子を女手ひとつで育て上げ、その後は、慈善事業に打ち込んだ経歴があったようだが、僕は、詳細を知らない。僕が知っていたのは、彼女が重度の痴呆症を患っていたこと。その事実だけだ。
気難しい表情で、彼女は、よく窓辺に腰掛けていた。林の遠くかなたに瞳を泳がすその光景を、僕が忘れることはないだろう。
彼女が、僕を覚えていたのかどうか、実際のところ、わからない。いやむしろ、それはどうでもいいことだ。彼女の人生のなかで、位置を占めるほどの人物ではないことを、僕はとうに心得ている。彼女の歴史は、長く、濃密で、そのためにあらゆる記憶は、過去をたどることに忙しかったのだから。
しかしそれでも、彼女が笑みを漏らすことがあった。何十年も以前の美しき記憶が隆起し、彼女の胸を打ったのだ。そうした時の笑みこそ、僕の心を和ませ、弾ませるものだった。長年かけて育まれた純白の慈悲の心が、その深い皺の奥に垣間見えた。紛れも無い、安らぎがあった。
そして、いつしか時は流れ、彼女のベッドは、ある日、無人となった。死の風が、林の隙間を通り抜け、彼女のもとに訪れたからだった。婦人を亡くした部屋は、淋しく時を刻む。僕は、部屋に佇み、彼女の笑みに想いを馳せた。美しい悲しみをたたえたその笑みの尊さを、彼女はついぞ知らなかった。

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