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【推理小説】『黄色い菓子の謎』第5話

5.生き字引きの部屋

――うちの婆さん、ああ、僕の母親ね、それがじき百なんだけどね、寝酒のいつものウイスキーが切れてるって電話してきてワーワーうるさいもんだから、駅前のコンビニまでひとっ走り行って来たの。それ届ける途中。鬼婆よ、もう。
とは言え、明るい表情のじいさんは、夜の散歩を楽しんでいる様子。九子としても訊きたいことが山程あったから、思いがけず嬉しい出会いだった。――ああ、そういえば。お嬢さんが昼間没収されたお菓子があったでしょ。あれね、中身は紙屑だったらしいよ。くだらないことするよねえ。店長が怒って捨ててたって話よ。
まさか今それがポケットの中にあるとは言えないまま、九子は相槌を打っていた。そして、さりげなく話題を商店街の歴史に向ける。
――え?商店街の昔話?ここも長いからね。いろんなことがあったよ。盗っ人やら火事やら。明るい話だと、映画の撮影なんかもあったねえ。ああ、ものすごい生き字引き知ってるから、紹介しようか?うちの百歳の酒呑婆ァよ。僕もワイフも振り回されて疲れちゃってるから、相手してくれると有難いの。すぐそこだから。
たこ焼き屋のじいさんの実家は、商店街の中にあった。マーケット内に移転する前のたこ焼き屋はシャッターを下ろしたまま、裏の住居部分で暮らしているらしい。
――婆ちゃん、ほら、命の水汲んできてやったよ。
玄関を入ってすぐの居間にいた花柄パジャマの小さな老婆は、嬉々として買い物袋を受け取ると、中から外国の銘柄のウイスキーボトルを取り出してこれこれと頷いた。
――こちらはうちの常連さん。婆ちゃんに商店街の昔話を訊きたいそうだ。
急な展開に九子は恐縮していたが、百の婆様は何も気にせず、ほれここに座れとばかりに座布団を出してポンポンと叩いた。
――それじゃ、僕はうちに帰るから。何かあったら婆ちゃんに電話さすといいよ。うちは歩いてすぐの所だから。それじゃ、ゆっくりしてってね。
そう言うと、じいさんはさっさと出て行ってしまった。
傍らで婆様はうきうきとグラスを並べている。九子が下戸と知ると、電気ポットのスイッチを入れ、台所に何か取りに行った。
よく知らない家の誰もいない部屋に九子は一人取り残されている。
卓袱台にはウイスキーの瓶。それを照らす蛍光灯の四角い傘。砂壁と砂壁の間の柱には振り子時計がかかり、長押にはご先祖様の白黒写真の額が並んでいる。その下にぶら提げられた酒屋の日めくりは確かに今日の日付けだったが、この部屋にはそれより何十年も前の空気が満ちていた。
ややあって、婆様は急須や缶詰や袋菓子などをお盆に載せて部屋に戻って来た。
――…うちは元々金物屋で、たこ焼き屋は息子の代になってからでね。金型があるでしょう。それで年々金物屋を小さくしていって、今はもうたこ焼きだけ。商店街には初めっから、そう、戦後すぐから。どんなお店もありましたよ。洋菓子?ああ、洋菓子屋さんは初代も二代目もうちのお得意で、頼まれて色んな型を仕入れてね。ああ、レモンの形の。そういうのもあったわね。
婆様はウインナーソーセージの缶詰を肴に、二杯目のグラスを空にした。九子も勧められるまま、濃い緑茶をすすり、二、三とつまむ。
――レモンケーキは、アタシは先代の四角いのが好み。カステラみたいに長四角で、少しずつ切ってね。レモンとバタが利いててね。
婆様によると、初代とは息子同士が幼馴染で、忙しい時にはお互い預かって夕飯を食べさせていたという。年も近く、仲が良かったと。
――うちがテレビを買った時だから東京五輪の頃、その時期に火事になってお店を辞めてしまわれた。いっときして二代目が再開した時には、レモンの形になっていて、味も全く別物でしたよ。屋号も変わってね。
火事は、時期的に新聞記事と合っている。婆様は、洋菓子店のことで知っていることをあれこれ九子に話してくれた。チラシをもらって裏の余白にメモを取る。
柱の時計を見ると、既に日付は変わっていた。ほろ酔いの婆様はあくびをしていたが、珈琲、紅茶、濃い緑茶を飲んだ九子の目はまだまだ冴えていた。

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