寺山修司とカニカマ

  先日、今年の『ふじのくに⇄せかい演劇祭2020』が完全に中止になるという発表がありました。それに伴い、芸術監督の演出家宮城聰さんからyoutubeでメッセージが発表されました。これです↓

思慮深い内容と語り口はさすが宮城さんと思います。

「いまのいま必要な演劇みたい何かをきっとみつけてお届けします。ちょうど蟹が手に入らない時の蟹カマボコみたいに。演劇蟹カマボコをお届けします」

そう彼は括っています。

そうです。僕らに今できることは「演劇蟹カマボコ」を見つけることなのです。

この状況がいつまで続くかわかりません。僕もいつまでも家に引きこもって、本ばかり読んでいては、きっと精神的に疲弊してしまいます。演劇がしたくなるでしょう。そこで僕も「演劇ができるようになるまで待つ」ではなく「演劇蟹カマボコについて考える」ことにしました。

しかし、盲滅法に考えていても、有意義なカニカマは作れません。さてさてどうしたものか…、と思っていた時に閃いたのが寺山修司でした。

寺山修司は演劇集団「天井桟敷」を率いて、なかなかスキャンダラスな演劇運動を展開したことで有名です。その中で彼は「書簡演劇」というものを生み出しました。その一つ『そして皆があつまった』はこんな感じです。

ある日、何人かの人間に「落し物を預かったので、○月○日に取りに来て欲しい」という内容の手紙が届きます。しかも、それは役所からの手紙というていを取っており、受け取りに印鑑が必要などかなりきちんとした内容です。もちろん、手紙を受け取った人は落し物なんかしてません。役所もそんな手紙出してません。寺山は言います。「この劇は、自宅から数分間、歩きながら遺失物について考える人々が登場人物となる、台詞のないモノローグドラマである」と。

こんな感じで、寺山は従来の劇場も、従来の俳優も、従来の観客もいない、「演劇」をいくつも考案しました。この寺山の演劇論にこそ、「演劇蟹カマボコ」を発明するヒントがあるような気がするのです。

寺山は「演劇」というものの全体をある種冷徹に見つめ、解き明かす人だったように思います。そして演劇の全体からいくつかの要素を引っ張っり出して拡大して、提示したのです。その一つが例にあげた「書簡演劇」です。

「演劇蟹カマボコ」は演劇ではありません。演劇の全てを再現することはできません。しかし、いまの状況で失われてしまった演劇の要素は全部ではないと思います。まだ残っている演劇の要素はたくさんあると思います。それを見つけうまく拡大する術を見つければ、「演劇蟹カマボコ」になると思います。寺山修司はそれを僕らに教えてくれますし、彼の思考の結果は幸いなことに本にまとめられています。それが大いに知恵を貸してくれるでしょう。


と、まあ最近そんなことを考えているわけです。せっかくnoteやってるんだし、なんか書こうと思って書きました。これも一つの「演劇蟹カマボコ」かもしれません。このご時世結構暇だし、インプットはあってもアウトプットは極端に少ないので、随時更新していきたいですね〜。

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