一人演劇プロジェクト(6)〜なんのため〜

 昨日、zoomを使って、僕と友達3人で小さな演劇の勉強会をしました。テーマは「疫病と演劇」にして、カミュの『戒厳令』を読む予定でしたが、だいたいが雑談で終わってしまいました。『戒厳令』はプロローグだけ読みました。

 色々友達と喋ったり、画面越しに戯曲を読んだりして思ったのは、劇場に集まって劇を観ること、稽古場に集まって稽古することって、なんて大事なんだろうということです。戯曲を読んでいても、そりゃあ言葉の意味は伝わってきますが、息づかいや、言葉のピッチ、速さなど、微妙なニュアンスがデジタルに変換される段階で切り捨てられてしまいます。もちろん双方のマイク、スピーカーの影響ではあるのでしょうが、それでも、こんなにも切り捨てられるものなのかと狼狽してしまいました。実は、秋に演劇を上演しようと思って少し動いているのですが、初期の稽古はリモートになるだろうとか考えていました。しかし、リモートで稽古できる自信がなくなってしまいました。難しいところです。

 そして、この遅々として進まないプロジェクトの方も、なぜこれをしているのか、わかってきました。

 それは「いつかくる劇場での出会いのため」です。

 演劇のために書かれた古今東西の戯曲は、劇場でみられるために書かれています。それがもし画面越しに上演されてもきっとあまり面白くありません。最近、映像を見る機会が増えたのでなんだかそんな気がしています。だから、このプロジェクトも、観客に見せる「作品」として完成を目指すのではなく、あくまでも、いつか劇場で演劇を上演するときによりブラッシュアップされたものを作れるようになるための、自己研鑽のためなのだと思うようにしました。それでも、ある一つの「上演」を目指して、テキストと向き合い、演技と向き合い、空間と向き合う方が得られるものはきっと多いでしょう。だから、一つのプロジェクトの形をとっているのです。

 ものすごくゆっくり丁寧にテキストと向き合っています。まだ、『カリギュラ』は読み終わっていません。今日は授業関連でごちゃごちゃしていたら夜になっていました。やっぱり、カリギュラとシピオンの関係が一番興味深いです。なんか、ハムレットとホレーシオの関係とクロスするところがあるように思っています。

 あと、パソコンを舞台上に登場させるつもりですが、そこでベケットの『私じゃない』をなんらかの形で、提示しようと思っています。これは、僕が演じる男の脳内の様子とでも言いましょうか、そんな感じで使う予定です。とりあえず、テキストをパソコンに打ち込んでいます。あと少しです。こんな感じになっています。

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口が延々と喋り続けるテキストです。ちょっと迫力を出すために、表示の形式をウェブなんちゃらにしてみました。

それでは今日はこの辺で。

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