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漢(のちの前趙)を建国したのは匈奴、では成漢を建国した民族は?

皇帝 司馬熾と司馬越の対立

司馬越が死んだ時点を八王の乱の終結とする考え方もありますが、ここでは司馬越が最後の一人になった時点で収束したことにしておきます。

それが西暦306年12月のこと。

皇帝は司馬炎の第25子の司馬熾(しば し)。まだ西晋は3代目皇帝です。

司馬熾は司馬顒(しばぎょう)が皇太弟に立てたのであって、司馬越の傀儡ではありません。

でも司馬越は絶対的な権力を得ようとして皇帝と対立。

丞相を僭称したり、皇帝派の面々に謀反の罪を着せて処刑したり。

皇帝と司馬越の対立は決定的になりますがクーデターなどには至りません。

じつは、北方の匈奴が建てた漢が国力を増強して南下してきたので、それどころでなかったのです。

私が八王の乱の終結を西暦306年12月とするのは、これが原因。

匈奴王 劉淵、漢の皇帝になる

304年の段階で漢王を称した匈奴の劉淵は308年に皇帝に即位し、309年には平陽に遷都。

平陽は現在の山西省臨汾市堯都区。googlemapなどでご覧になるとわかりますが、洛陽の北北西。

鄴よりも南ですからね。西晋危うし!

309年になると漢軍は洛陽まで迫りましたが、何とか司馬越は撃退します。

ところが310年6月に劉淵は病死。後継者争いが起きて、西晋は一息つきます。

異民族の流民たちが南下

しかし、蜀で成漢が建国されるなど、西晋は洛陽と長安を抑えているものの、全土への統治能力を失い、中華全土は内乱状態となります。

ちなみに成漢の創始者ともいわれる李特は今の甘粛省秦安県付近にいたチベット系の氐(てい)の一派の巴氐族の有力者の一族。

298年末くらいから李特兄弟は戦乱や大飢饉から逃れるために数万もの人々を率いて巴蜀方面へ南下。

そして李特兄弟は益州刺史の趙廞(ちょうきん)の配下となり、特に弟の李庠(りよう)は重用され、趙廞軍の一翼を担います。

趙廞は大都督・大将軍・益州牧を自称し、西晋からの自立を模索。

そんなとき、趙廞は李庠の勇猛さを恐れ、301年1月李庠が西晋への謀反をそそのかしたとして李庠など10名余りを誅殺してしまいます。

李特は弟たちを殺されて趙廞と対立し、戦闘状態に入ります。

李特は圧勝して成都に入城し略奪! 趙廞は逃亡中に従者に殺害されます。

李特は西晋に対して趙廞の非道と自分たちの正当性を訴えますが、西晋は新たな益州刺史として羅尚を派遣

羅尚が流民たちを強制的に北へ帰そうとしたことから同年10月流民たちは李特を首領として決起。

302年5月、李特は大将軍と益州牧を自称し、この時点を成漢建国と見なす歴史家もいるようです。

流民の頭領の息子が皇帝になる

西晋は羅尚に対して援軍を派遣しますが、303年1月、李特軍は成都に再入城。

しかし2月になると羅尚軍は李特軍を撃破し、李特も戦死してしまいます。

その後、李特の息子の李雄が態勢を立て直し、李雄は10月に成都王を名乗ります。普通はこの時点を成漢成立と見なします。

11月に3たび成都は陥落。李雄は306年6月に皇帝に即位。このときの国号は大成。

310年7月に羅尚が死に、益州支配は完成します。

338年に国号を大成から漢に変えたので、歴史家たちはこの国のことを成漢と呼びます。

李雄は優秀でむやみな外征をすることもなく、国の安定と経済の復興を図りました。

334年4月に李雄が死ぬまで、成漢は安定し、繁栄していました。

その後、後継者争いや内乱が起こり、347年2月、東晋の攻撃により成漢は滅亡。

五胡十六国時代の十六国のひとつである成漢の話はこれで終わりです。

諸葛孔明も北伐なんかしなかったら、劉備の作った蜀漢も、もう少し長く続いたのかもしれませんね。



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