八王の乱の八人の王の名前を知っていますか?
司馬倫 帝位簒奪
クーデターを制した司馬倫は相国となります。
ちなみに司馬倫は司馬仲達の末子で、司馬仲達の晩年にできた子供であったことから甘やかされて育ったようです。
若いころから問題児だったようで、征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事になったものの失政から異民族の反乱を招き、解任。
洛陽に戻されて賈南風一派に取り入ろうとしたものの張華らに警戒されていたようです。
後世の史書は司馬倫は無能で、実質的には配下の孫秀の傀儡だったように書かれていますが、これは孫秀を極悪人に仕立て上げるための仕掛けのように思われます。
司馬倫こそ本当の悪人ぽい感じ。
本当の内乱になる
司馬炎の第10子 淮南王 司馬允(しばいん)はこの政変で中護軍となります。
中護軍とは宮中守備隊の隊長のこと。
司馬允は、はじめは司馬倫たちに信頼されていたようですが、8月になり司馬倫の帝位簒奪の意向を察知するとクーデターを起こそうとします。
それに対して司馬倫は司馬允の兵権を取り上げますが、司馬允は淮南兵を中心に支持者を集め、司馬倫のいる相国府を包囲し激戦となります。
兵権を取り上げられても激戦になったということは司馬允の支持者が意外に多かったということです。
当初、司馬允が優勢でしたが、味方を装った伏胤に裏切られて落命。これにより司馬允軍は総崩れとなり司馬倫の勝利で終わりました。
翌301年1月、司馬衷に禅譲を迫った司馬倫は皇帝に即位。
3代目になるのですが、後にこの皇帝即位は取り消されています。
司馬倫は群臣を懐柔しようとして官職を乱発。側近の孫秀と司馬倫の関係も微妙で、朝廷は混乱を極めます。
司馬倫と孫秀、どっちも悪人でどっちも統治者としては無能というのが悲しいですね。
3月、斉王 司馬冏(しば けい)は豫州刺史らとともに挙兵。
ここまでは軍が動いても宮廷クーデターの範囲内だったのですが、司馬冏の挙兵によって辺境の軍隊が都に向かって進撃するということになり、西晋は内乱状態に陥ります。
成都王 司馬穎(しば えい)と河間王 司馬顒(しば ぎょう)もこの反乱に組します。
司馬冏はあの暗殺された?司馬攸の息子で、司馬穎は暗殺?した方の司馬炎の19子、司馬顒は司馬仲達の弟の孫。
3人の利害は司馬倫排除で一致したようです。
司馬倫らは司馬冏軍の北上を阻止するために軍主力を派遣し、司馬冏軍と激突。
何とか司馬冏軍の北上を阻止しますが、別動隊が司馬顒軍に大敗。
司馬顒軍が洛陽に迫る中、左将軍 王輿と広陵公 司馬漼は司馬倫を捕らえて司馬衷を復位させます。
司馬倫は自殺に追い込まれ、司馬倫派は朝廷からすべて排除されました。
司馬冏の挙兵から3か月で死者は10万人以上にのぼったと伝えられています。
またまた悪人登場
どうして、こうも同じようなことを繰り返すのか? 人間って権力をめぐって、こんなにも殺しあうものか?
でも、これで終わらないのが八王の乱。
内乱に勝利した司馬冏は大司馬となりますが、こいつがまた贅沢好きの仕事嫌いな奴。
司馬倫を追い落とした王輿は司馬冏の排除を画策しますが事前に漏れて三族誅殺。
こうなると司馬冏を追い落として自分が権力の頂点に立とうと考える奴が必ず現れるもので。
そいつが先ほども登場した河間王 司馬顒(しば ぎょう)。
彼は長安駐在でしたが、12月に挙兵。ところが、洛陽まで120里に迫ったところで、彼自身は行軍を止めます。
そして、自分の手を汚さずに司馬冏を葬り去ろうと考えて、洛陽にいた長沙王 司馬乂(しば がい)をけしかけます。
これに乗った司馬乂は洛陽で呼応。司馬乂は司馬炎の12子。
司馬冏と司馬乂は3日間、洛陽で死闘を繰り広げますが、味方の裏切りにあい司馬冏は捕らえられ処刑。
司馬冏とその一派は3族誅殺。この時の死者も2000人以上とも。
まだまだ続く八王の乱
司馬乂は朝廷を掌握しますが、何故か司馬顒ではなく北の鄴にいる司馬穎にお伺いを立てて決済をしてもらいます。
司馬乂は291年6月の政変に加担し、なんとか処刑は免れたものの降格されてた人。
司馬顒は司馬仲達の弟の孫ですが、司馬穎は司馬乂の弟。
でも司馬乂は弟より領地も軍勢も少ないので従わざるを得なかったようです。
それと、司馬乂は司馬顒と折り合いが悪かったようで、地方の反乱にたいして司馬顒の配下の武将を対応させようとしますが、司馬顒は拒否。
司馬穎も自分の配下を出すのは嫌だったようで、司馬乂は出せる軍勢がない!
ともかく、この時点でも皇帝は暗愚といわれている司馬衷(しばちゅう)のまま。
司馬顒としては司馬穎を新皇帝に祭り上げて自分は宰相にでもなるつもりだったのでしょうか?
邪魔な司馬乂を排除するために配下の李含らを洛陽に派遣しますが、司馬乂に返り討ちに遭います。
英雄になりそこねた司馬乂も殺されて
そこで、303年8月、司馬顒は司馬穎と結託して司馬乂討伐の兵をあげます。
口実は配下の李含らを殺害した罪。自分が暗殺を命じたくせに!
ところが寡兵で司馬冏を破ったことからもわかるように司馬乂は意外と戦上手。
司馬穎配下の陸機の20万の大軍を撃破。司馬顒配下の張方軍7万も退却。
張方は作戦を兵糧攻めに変更し、洛陽城内は兵糧不足に陥ります。
司馬乂は打開策として雍州刺史劉沈に司馬顒の本拠地の長安攻撃を命じます。
劉沈は長安城内にまで侵入しますが、取って返してきた張方軍に大敗。劉沈は捕らえられ処刑。
司馬乂が直接指揮すればこうはならなかったでしょうが、洛陽を離れれば何が起こるかわからない情勢でしたからね。
こうなると洛陽城内で寝返る奴が出てくるもので、その名は東海王 司馬越。
かれは司馬仲達の弟の孫。司馬顒とは別の家系になります。
304年1月、司馬越は司馬乂を捕らえて張方に引き渡します。張方は人望のある司馬乂を恐れて即日、焼殺!
司馬乂のような軍事的才能のある人は中央政界ではなく、辺境で異民族に対峙していれば、英雄として後世まで語り継がれたのかもしれません。
司馬越も司馬穎も敗北して
司馬穎は丞相となり皇太弟となります。
皇太弟とは皇帝の後継者。皇帝は、そう、まだあの司馬衷!
司馬穎という人も反対派は処刑するか左遷するという信念の人。
洛陽には長居はせずに、すぐに鄴に戻ります。暗殺やクーデターを恐れてのことでしょう。
7月、洛陽にいた司馬越は右衛将軍や司馬乂の旧配下らを率いて皇帝とともに鄴へ向けて侵攻。
しかし、経験値でまさる司馬穎は皇帝軍を奇襲して大勝。司馬越は領地に逃げ帰ります。
ここでも皇帝はそのままで、司馬穎の専横がひどくなっただけ。
調子に乗った司馬穎は非協力的な態度をとる都督幽州諸軍事の王浚(おうしゅん)の暗殺を謀ります。
王浚の父親は驃騎(ひょうき)将軍。驃騎将軍とは司馬仲達も務めたことがある高位の将軍位です。
暗殺者を返り討ちにした王浚は東嬴公 司馬騰(しばとう)と同盟して8月に挙兵。まだ西暦304年!
司馬騰は司馬越の兄。
連戦連敗の司馬穎は匈奴の劉淵に援軍を求めますが、劉淵は西晋の弱体化を見て独立し、漢を建国。これが後の前趙。
歴史家はここから五胡十六国時代と呼びます。まだ西晋は滅亡していないのに。
匈奴なのに国号がなぜ漢なのか。劉淵には言い分があったようですが。
万策尽きた司馬穎は皇帝を連れて洛陽に逃亡します。しかし、司馬穎は失脚。
司馬越 再挙兵
さて、もう一人いましたよね。洛陽に侵攻しながら目前で行軍を止めた奴。
今度も、司馬顒(しばぎょう)は長安にいたままで、洛陽にいた配下の張方に実権を奪わせます、張方は皇帝を引き連れて無理矢理、長安に遷都させました。
そう、西晋の都が洛陽から長安に移ります。まだ、西暦304年。
司馬熾(しば し)が皇太弟に立てられます。
司馬熾は司馬炎の第25子!!
案の定、翌305年7月、皇帝奪還を掲げて司馬越は徐州で再挙兵。王浚や司馬楙、司馬虓、司馬模も同調。
司馬越、司馬虓(しばこう)、司馬模(しば も)の3人は司馬仲達の弟の司馬馗の孫。司馬楙(しばぼう)は司馬仲達の弟の司馬孚(しばふ)の孫。
司馬穎(しばえい)の旧配下の公師藩も挙兵し鄴に迫ると、司馬顒は司馬穎を復職させて懐柔します。
ただ司馬越はどうも軍事的な才能はないようで、豫州刺史の劉喬に行く手を阻まれ、司馬楙が寝返る始末。
10月、司馬越はさらに敗北して河北へ敗走。
しかし、12月になると司馬虓と王浚が反撃を開始し、司馬楙と劉喬の長男劉祐を破り、洛陽入城。
やはり王浚がいると強いですね。
306年1月、怖くなった司馬顒は配下の張方の首を差し出して和平を乞いますが司馬越は却下。
配下を司馬顒のいる長安攻略に向かわせます。
司馬越軍は5月に函谷関を破って長安入城。しかし6月司馬顒は長安を奪還。しかし、長安以外の関中はほとんどが司馬越が制圧しました。
301年3月の二人の最期
狭い意味での八王の乱の始まりは301年3月の司馬冏(しばけい)らの反乱でしたよね。
まだ、二人生き残ってましたが、司馬穎(しばえい)は逃亡中に捕らえられ10月に処刑されました。
中国の皇帝の中でも1,2を争うくらい評判の悪い司馬衷も11月に餅を食べて中毒死。
毒殺?
ただ、この期におよんで皇帝を毒殺しても司馬顒にとって何のメリットがあるのやら。
というか、司馬越の配下が一服盛ったと考えた方が自然ですね。これで司馬顒の持ち駒がなくなったわけですから。
西晋の3代皇帝として司馬熾が即位。そう、司馬炎の第25子!!!
やっぱり西晋が滅んだ元凶は初代の司馬炎では?
12月、詔により長安から洛陽に向かう途中で司馬顒は絞殺され、301年から始まった八王の乱は終結しました。
八王の乱の八人の王とは
軍事行動に加担した司馬氏の一族でも王位を持たないものは当然8人には入りませんし、王位を持っていても政権中枢に達しなかった人も入っていません。
1.汝南王 司馬亮(しばりょう)、2.楚王 司馬瑋(しばい)、3.趙王 司馬倫(しばりん)、4.斉王 司馬冏(しばけい)、5.長沙王 司馬乂(しばがい)、6.成都王 司馬穎(しばえい)、7.河間王 司馬顒(しばぎょう)、8.東海王 司馬越(しばえつ)
これは、おなくなりになられた順。
お世辞にも軍事的才能があったとは言えない司馬越が最後まで生き残ったのは、西晋にとっては最悪だったのかも。
ともあれ、4000字にもおよぶ本章を読破いただきまして、ありがとうございました。
わけわかんないでしょう?
でも、中国の歴史って、こんなもんじゃないんです。
ここから、さらに佳境に入るのですが、皆さんにご理解いただけるようにするには、どう書けばいいのかと思案中。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?